月曜の三連単は当然の如くに当たった。増えたお金のうち一万円だけを使って美鶴は新しいスーツを買い、残りのお金は軍資金に回した。またケイレブと取引してからロト7を購入し、それで利益は当初のほぼ四倍になった。それをあと一回増やして、ようやくそこで美鶴は生活にお金を回すことにした。
食費を増やすとごはんの時間が楽しみになり、そうなると自然に気持ちが上向いた。化粧品をドラッグストアのものからネットのお取り寄せに変え、スーツを全て新品の少し良いものにしてみると明らかに男性からの目が変わった。私服まで新しいものに変えたら、学生時代でもなかろうにナンパまでされたのには驚いた。使い古してトゲのできた毛布を変え、平べったく湿っていた布団を変えた。加湿器や小さなストーブを導入し、それでも足りない日にはエアコンを使うようになった。電気代を気にしなくて良くなると、なぜだかそれは跳ね上がったが、もはやそんなことは問題だとは思わなくなっていた。
郵便受けを覗くのが怖くなくなった。果物を買えるようになった。初めて春の新作という服を見に行った。デパートの化粧品売り場でフルメイクしてもらった。美容院では流行りの可愛い髪色を勧められて、ネイルサロンというところにも行ってみた。
なにかひとつを自分にあてがう時、美鶴は必ずぽつりと何かが心に落ちる音を聞いた。これまで取りこぼしていた一欠片ずつを集めるたびにそれは胸の中心に落ちていき、徐々に水かさを増して、やがては体に染み入って広がった。それはきっと充足感だとか安心感だとか、未来への明るい展望だとか、一言にまとめるなら幸せというものに違いなかった。もっとずっと幼い頃、両親に庇護されていた頃に当たり前に享受していたもの、その全てを美鶴は己の手で取り戻したのだった。
貯金はいつの間にか数年間働かなくてもいいほどになっていた。そうすると会社で感じていたあの押し潰されそうな諦めの眼差しが気にならなくなった。綺麗なスーツの背を伸ばしてパソコンを操作するようになったことはさすがに怪しまれたが、そんなのは副業が上手く言ったとかなんとかごまかせばいい話だ。同期と交流する時もかつての卑屈な気持ちにはならなくて、ただ事実を事実と話せた時は胸がすうっと軽くなった。そうこうしていると不思議なことにミスが減っていった。作業スピードも格段に上がって、これまでより早く正確なデータを提出する美鶴を上司は褒めてくれた。上司に認められると今度は同僚たちからの視線が和らいだ。一緒にランチへ行ったり、仲を深めた数人で居酒屋に行ったり、たったそれだけのことが無闇に楽しくて、そうすると翌日もっと頑張れて、会社という場所が楽しい場所とさえ化した。
そうして幸せの水かさがある一点を越えた時、財布と相談しなくてよくなった。軍資金を除けておいても金は使い切れないほどで、美鶴がたいして金のかかる趣味を持ってなかったのも相まって、通帳の数字は右肩上がりに伸びていった。ちょうどこの頃に万馬券を当てたのも大きくて、ずいぶんと増えた軍資金を算えて美鶴は最終目標をロト7の一等に定めた。
もはや、そう、くじや賭けに当たることはなんでもない日常だった。かつてあんなに跳ねた心は番号や着順に揺れなくなり、かわりに格好いい男性や可愛いアイテムに出会えた時に震えるようになっていた。
「ロト7。一等。一口」
ようやくそう言えた時、達成感がまったく湧いてこなかったのはだからだろう。確実に訪れる未来というのは変わらない今日でしかない。当たり前のことが当たり前に起こる、そんなことに一喜一憂することを馬鹿らしいと感じるほどに美鶴は変わっていて、そんなふうに変われたことに喜びを抱いていた。
「キャリーオーバー中でしたね」
ケイレブは折りたたみ椅子にどっかり座った美鶴の周囲をサングラスを少し下げて探ってから言った。
「そう。今回は確実に十億。さすがに三億担いでくるのは無理だからさ、先に振り込んどいた。確認してくれた?」
「はい。もちろん」
「これ当てたらさ、って当たるんだけど、海外旅行っていうのしてみようかなって」
「そうですか。行き先はどちらですか?」
「どこっていうか。世界一周。豪華客船で」
「そうですか……これきりですね」
「ええ? そんなことないって」
笑いながら美鶴は言った。お金なんていくらあっても困らないのだ。残高が減ってきたらまたここへ来る気しかなかった。
会社なんてものはすでに辞めている。ミスが減って上司の覚えもめでたくなった美鶴は人事部に来ないかと声をかけられた。しかし、一日八時間残業あり、それを週五日、一ヶ月頑張ったところで貰える給料は雀の涙と考えれば、働き続けるのは馬鹿のすることとしか思えなかった。それなら毎日楽しく買い物したり映画を見たりして、時折ケイレブのところを訪れた方がずっといい。思ったらあとは早くて、人事部に誘われたその日に美鶴は退職願を提出した。そこからあとは思い描いたとおりの生活である。人生の華というものを美鶴は謳歌していて、これからも手放す気など毛頭なかった。
ケイレブは美鶴に取り合わず、黙ってサングラスを外した。いつものようにつくづくとその周囲を見る。何度見ても顔立ちのいい、けれど普通の男には違いない人間が自分を見ているようにしか美鶴には感じられなかった。超能力者だなんて、これまでの軌跡がなければ信じなかっただろう。
「では、こちらを」
いくつか指を鳴らした後にケイレブはサングラスを元の位置に戻し、それからいつものようにメモ用紙に数字を書いた。数字の数は七つ、それを三度指先でなぞりながら確認して美鶴は立ち上がった。
「ありがと。じゃあね」
駅まで歩きながらスマホを取り出す。いちいち宝くじ売り場に行くのが面倒で宝くじ専用のアプリをインストールしていた。購入画面を呼び出してメモに書かれた数字を順番に打ち込んでいく。むっつ、ななつ、慎重に入力してから久しぶりに指さし確認した。
「よし、これでオッケー」
画面の下方にあるプルダウンを操作する。継続回数は一回、それから購入口数は最大の十口。
ある日、ふと気づいたのだ。購入数を増やしたところでケイレブにはなんの関係もない。彼にとって重要なのは指定した数字が当たったかどうか、つまり保証する必要があるかどうか、それだけだ。美鶴の可能性を見ていると彼は言ったが、だとしてもその全てを見ていると言うことはないだろう。あの短時間で確認しているのは当選して喜んでいる美鶴の姿、そしてその時に表示されているスマホ画面だかニュース画面だかだけに違いない。だとすれば――にやりと美鶴は笑って購入ボタンを押した。すぐにクレジットカードが承認され、確認メールが飛んでくる。
鼻歌を歌いながら美鶴は青信号の交差点に歩み込み、直後目がくらんで立ちすくんだ。どっと鈍い音が聞こえ、白く煙った視界に都会のわびしい星空が映った。星空はゆっくりとどこかへ流れて消えていく。まるで、と美鶴は思った。幼い頃に行ったプラネタリウムのようだ。かと思っていると唐突に星空は動きを止めた。直後に訪れたのは静寂である。吐いた息が白い煙になって星空へ吸い込まれていく。一回、二回、煙の立ちのぼる回数を算えていると何度目かにその向こうに影が差した。
星空を遮って影は美鶴を見つめているようだった。やがて影はその一端を美鶴の方へすうっと伸ばしてきたかと思うと、新しいスタッズ付きのカバーに変えたばかりのスマホを取り上げた。待って、言ったつもりだったが声になっているのかはわからなかった。かわりにひゅほーひゅほーと空気の抜けるような音がどこかで響いた。
「言ったはずです。申告した口数は必ず守るように、でなければ一切の保証はできないと」
それが誰の声か、思い出そうとしたが思考はぼやけたように広がるばかりでできなかった。ぴったりと顔の上半分を覆い隠していた黒い影を取り去って影は言った。
「あなたの可能性は全て消えました。先ほど申し上げたとおり、これきりとなります。それでは俺はこれで」
待って――美鶴は再度声を出そうとして同時に思った。なんだっけ。なんて言うつもりだったけ。あれ。言うってなんだっけ。あれ。私、なにかしなきゃいけないことが。そう、もっともっと、お金を。お金、それってなんだっけ。
美鶴はなんとか頭を転がして立ち去っていく影に目を向けた。走り回る誰かの足に遮られるたび、影は小さくなっていく。小さく、小さくなって、美鶴がどうしてそれを見なければいけないのかわからなくなるのとどちらが早かったのだろう、ヘッドライトの煌々とした光に押し潰されるようにして消えた。
致命打を与えた車両のライトに照らし出されながら美鶴は必死に考えを巡らせようとして、けれども、思考はまるでかつて食べた肉のように端からほどけていって、そしてあの肉とは違うことになにも美鶴のうちに残さなかった。
なんだっけ。
なんだっけ。
それが最後だった。