目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第3話

 年末年始はロト7の抽選が行われないようだったので、美鶴は残り少なくなった食費をちまちま削りながら休暇を過ごし、休暇明けにさっそく開催が告げられた新年会用のお金を雑費用の封筒から財布へと移した。


 一月二週目に入ると金曜に抽選会があることを知らせるウェブページが見られるようになっていて、ドキドキしながら売り場に行って、初めて宝くじなるものを買ってメモ用紙の数字を書き込んだ。ミスがないように三度確認し、宝くじ券を受け取ってもう一度確認し、家に帰ってさらに確認してから美鶴はようやく自覚した。


 これは期待だ。自分は今、期待で胸を膨らませている。だって、当たっても外れても金曜になれば四万強のお金が手に入るのだ。差し引き三万円が美鶴の取り分ということになる。


 それだけあったら、ああ、なにをしようか。同僚が美味しいと噂していたフルーツパフェの店、新調したパンプスの二千円なんて痛くもかゆくもないし、いややっぱり塊のお肉を食べたい、ハンバーグ、ステーキ、前にテレビでやってたダイニングバーのハンバーガーもいい。


 金曜日当日、終業時刻になった瞬間に席を立って美鶴は休憩室に駆け込んだ。ちょっと急ぎ足で歩いただけなのに全力疾走した後のようにドキドキしている胸を押さえながらスマホを取り出す。当選番号のウェブページを開く時にはさすがに指がためらった。もし外れていたらどうしよう。いいや、名刺の携帯番号に電話すればいいだけだ。


 深呼吸をして自分をなだめてからえいやとリンクをタップしてみると、はたして四等が当たっていた。五口分、当選金がケイレブの言っていた九千円ではなく八千円強の当たりだと書かれていたのが謎だったが――これは後で調べてみることにした――つまりは三万円を儲けたことになる。


 喜びが胸からわき上がって、気づいた時には口から飛び出ていた。快哉の叫び声は思った以上に人目を集めてしまって、美鶴は慌てて頭を一つ下げると休憩室から飛び出して自分の席へ戻った。今日もミスをいくつかしたが、そんなことはちっとも気にならなかった。素早くバッグを掴んで大金の準備をする美鶴をお局さんが不機嫌そうに見ていたが、今日ばかりは他人の視線がどんな色をしているかなんてどうでも良かった。


 首が繋がったどころではない。大もうけだ。


 ウキウキと軽い足取りで退社した美鶴は繁華街へと足を向けた。道中、普段流行らない歩きスマホであれこれと飲食店を検索し、思い切って飛び込んだのは高級路線のビストロである。焼き肉と最後まで迷ったが、この際だから薄い肉ではなく大きな塊を頬張ってみたかった。


 久しぶりの豊かな食事は素晴らしかったの一言に尽きた。


 前菜に選んだレバームースはそのまま口に運べば舌の上でとろけて、肉によるものだけではない芳醇で複雑な味が鼻の奥まで広がるようだった。カリカリに焼かれたパンに塗って食べると、パンの香ばしさとムースの優しい香りがいちどきにほどけて広がる。その匂いは噛んでいるうちにひとつにまとまっていき、呑み込んだあとにまで肉特有の旨味を舌に残した。


 しつこさのないムースを頂き終わってレモン水で口をすすいでいると、和牛の三種食べ比べ盛りとデキャンタで頼んだ甘めのワインがすみやかに運ばれてきた。正直に言ってどれがどう美味しかったかなんてわからない。どの肉もナイフなんかいらないほどにやわらかく、しつこい脂をそぎ落とされていながら噛めばじゅわりと肉汁が口の中でしたたった。甘めのワインからはブドウの濃い匂いがし、口に含めば張りのある果実をかじったような爽やかな感動が胸を満たした。


 夢中でフォークを動かしてデザートのケーキと食後のコーヒーまで堪能して、けれども幸せな気分は長続きしなかった。腹がくちくなったと同時に思考が戻ってきたのである。ふと店内を伺ってみると、着古したテカテカのスーツなんて着ているのは自分だけだった。女性は白や赤のしっかりした生地の服、男性は一着数万はするだろうスーツやジャケット、給仕の男性たちもお仕着せであろう正装をしめやかに輝かせている。途端にナイロンのウィンドブレーカーを思わせる光沢をギラギラさせている己が恥ずかしくなって美鶴は顔を伏せた。


 コーヒーを飲みながらゆったりなんて気分にはとてもなれない。素早くお会計を済ませて店から飛び出し、北風に吹かれながら美鶴は考えた。残りのお金を元手にもっと稼ごう。例えば競馬なんてどうだろう。万馬券というものが時々出ると聞いたことがある。それを狙えば効率よくお金を増やすことができるんじゃないか。


 家に帰り着くなり美鶴はノートパソコンにかじりついた。競馬、競輪、競艇、ロト、宝くじ、スポーツくじ、賭け事と名のつくものを片端からリストアップしてそれぞれの当選金や期待値を調べ上げる。そして真新しいカレンダーに狙い目のものの抽選日やレース開催日を書き込んでいった。ロト6とロト7の抽選が毎週行われるのが有り難い。序盤はこれでとにかく小金を稼いで元手を膨らまさなければ。


 翌晩、美鶴はケイレブと出会った路上で出店待ちをしていた。七時、八時と時計が回ってもケイレブは姿を現さない。九時をまわって美鶴は段々焦ってきた。もしかしてあの日この場所で彼に会えたのは人生でたった一度の幸運だったのかもしれない。二度と彼に会えなかったら計画はおじゃんだ。美鶴は今の人生に閉じ込められたまま、じりじりと崖下へ追い込まれていくしかない。


 ようやくケイレブが現われたのは、終電ギリギリまで粘ろうと決めた美鶴が十一時を過ぎた時計と睨めっこしている時だった。ピンと背を伸ばして現われた彼はやはり夜だというのにサングラスをかけていて、肩からは楽器でも入りそうな大きなカバンを提げていた。


「あのっ!」


 開店準備が終わるのを待ちきれず美鶴はケイレブに声をかけた。


「ああ、来ましたね」と、ケイレブは背中で答えた。

「えっ。私がまた来るってわかっていたんですか」

「はい。見えていましたから」


 折りたたみ机を広げてその上に布を敷く横顔に美鶴は言った。


「あの、ロト7、本当に当たりました。ありがとうございます。すごいですね」

「すごいことはありません」ケイレブは箱形の看板にバッテリーを繋ぎながら言った。「見えたことをそのまま伝えただけですから」

「いや、すごいですよ! 私、これまで占いって信じてなかったんですけど、本当の占い師っているんですね。初めて出会いました」

「最初に申し上げましたが、俺は占い師ではありません」


 淡々と低い声でそう答えながらケイレブはまず美鶴の前に折りたたみ椅子を置いて手のひらでその座面を示した。息を弾ませながら美鶴はそこに座り、黙ってなど到底いられずに喋り続けた。


「じゃあ、スピリチュアル?」

「その類いでもありませんね。あえて言うなら超能力者が近いでしょう。もはやカビの生えた言葉ではありますが」

「未来を見る超能力を持ってるってことですか? えっとなんだっけ、ノ、ノ、ノス……」

「ノストラダムス。彼と同じかどうかは保証しかねます。彼がどうやって未来予知をしていたのか、正確なところは伝わっていませんから」

「へえ。じゃあ、あなたはどうやって未来を見ているんですか?」

「最初に申し上げましたが、俺は可能性を見ているだけです」


「はあ」と首を傾げる美鶴の前にケイレブは腰を下ろすとメモ用紙やラミネートを次々に取り出してはテーブルの上に置き始めた。


「人間も、動物も、植物も、この世界そのものも、多くの可能性を持っています。大抵の場合、未来はひとつではない。そのいまだ定まらぬものを俺の目は捉えることができるんです。同時に」と言ってケイレブは指を鳴らした。「俺にはもうひとつ力があります。可能性を消す力です。例えばあなたが宝くじを当てたいとする。あなたがそう願った時、同時にそこには可能性が生まれるんです。宝くじの一等を当てた未来、二等を当てた未来、五等しか当たらなかった未来、そもそも購入しなかった未来というように。前回あなたにしたことはつまり、まず四等を当てたあなたがどう行動したか、つまりあなたがどの当選番号を選んだかを覗き見たんです。それから四等が当たる可能性以外全てを消した。結果はあなたが体験したとおりです」


「あのう、失礼な質問かも知れませんが」


 しばしの沈黙が落ちた。相手がうんともすんとも言わないので美鶴は待っていたのだが、ケイレブは微動だにしなかった。そうして座っているとまるで出来のいい人形のような佇まいをしている。素顔を知っているからこそ、これが最新鋭の機械――なんといったか、アンドロイドだったかヒューマノイドだったか――だと言われても信じられそうな気がした。


「ええと、質問してもいいですか?」

「どうぞ」

「そんな超能力があるなら、どうしてこんなふうに稼いでるんですか? 競馬でも宝くじでも自分で当てて独り占めした方がいいじゃないですか」

「たしかにかつてはそうしていました。もっとも、俺がやっていたのは株式投資ですが」


 ケイレブがそう言って初めて美鶴はその方法に気づいた。縁遠いものだからさっぱり思いつかなかったのだが、株や不動産、もしかすると貴金属も含まれるだろうか、そういう商品の売買で稼ぐのも手だ。たしか株なら毎日取引されているはずだ。上手くすればくじや賭けより早く稼ぐことができるかもしれない。


 もっともと美鶴は考えた。頭が悪い自分では難しいことをしても上手くいかないだろう。お手軽な手段を使えるのならその方がいい。


「しかし、友人に言われましてね。君はもっと人と関わった方がいいと。ですからこれは社会勉強のようなものなんですよ」

「だったら、ボランティアでやってもいいんじゃありませんか? あなたの力で救われる人はいっぱいいると思います」

「覚悟もなく、代償もなく、幸福だけが欲しいとは傲慢だとは思いませんか?」

「それは、まあ。言ってることはなんとなくわかりますけど」


 覚悟だの代償だの、そんな大層なものになっているのかなあと考えながら、美鶴はすっかり冷たくなってしまったバッグを抱き寄せた。中には節制生活を続けて手をつけなかった軍資金の二万円が入っている。


「あなたにとっては覚悟のいる一万円だったでしょう?」


 薄い唇を引いてケイレブは笑ったようだった。それはたしかにと美鶴は頷いて、軍資金をテーブルに置いた。


「月曜のニューイヤーステークス、三連単を当てたいんです」

「一攫千金コース、承りました」


 ケイレブはそう言ってサングラスを少し下げ、美鶴の周囲に視線を這わせた。


「三連単は一万一千円と少しですか。三割で三千三百円、いかがです?」

「だとすると、二万円だから……」


 もたもたと美鶴が暗算する間にケイレブは電卓を叩いた。


「六口。一万九千八百円となります」

「お願いします!」


 ざっくり計算して利益は前回の倍だ。美鶴は力強く軍資金の二万円を押しだした。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?