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第2話

「幸せになりたいんです」


 座るなり口が勝手に動いてそう言った。テーブルの向こうには白いVネックシャツに黒のジャケットを合わせた男が一人座っていて、美鶴の声を聞いて目を上げたようだった。ようだというのは、はっきりとはわからなかったという意味である。なんせ男はこの深夜にサングラスをつけていた。スポーツ選手がつけているようなゴーグル型の、ぴったりと眉までを覆うタイプである。男はわずかに頭を揺らして反応し、サングラスの向こうからじっと美鶴を観察しているようだった。


「幸せにもいろいろありますが。どのような」


 尋ねられた途端、頭に浮かんだ様々なことは結局のところ金の一文字に収束する。だから美鶴はそのままを答えた。なるほどと男は言いながらラミネート加工した一覧表のようなものをテーブルに置いた。


「質問ひとつにつき千円、六つならお値引きして五千円になります。ただし」と言って男は一覧表をひっくり返した。そこにはずらずらと文字が会議資料風に並んでいる。「俺がするのは占いではありません。確実な未来をお客様にお約束します。それでもよろしいですか?」


 美鶴は首を捻った。占い師のお世話になったことがないので、この金額が高いか安いかすらわからない。千円が痛手だということはたしかだが、確実に当たるのなら安いような気がした。


「百パーセント当たるってことですか?」

「当たるという言葉は適当ではありません。俺は見たものをお客様にお伝えするだけです」

「見たものというと」

「可能性です。俺は他人の可能性を見ることができるんです」

「よくわかりません」


 ぽつんと美鶴は呟いた。頭の中になにかがいっぱいに詰まっていて、考えることが上手くできなかった。とにかく楽になりたい。楽に生きていきたい。それが心の表層に浮かんでくる全てだった。


「お客様はどのような幸せをお望みですか?」と、男が言った。

「お金、欲しいです」

「お金を得るにもいろいろありますよね。宝くじを当てるとか、給料アップとか、副業が軌道に乗るとか」

「宝くじ、ですか」ふいに頭をよぎったのは笑顔の男女が映った広告だった。「じゃあ、年末ジャンボ当てたいです」

「購入されているのですか?」


 美鶴が首を横に振ると男は「では今年の分は終わっていますね」と言いながらスマホを取り出した。いくつか操作してから白々と眩しい画面を美鶴に差し出す。


「ロト7はいかがでしょう」

「じゃあ、それ。お願いします」


 男は別のラミネートを取り出した。


「承知しました。一攫千金コースですね。そちらですと三割になります」

「三割?」

「はい。お客様が当てたい金額、その三割を頂戴します。例えばロト7の三等は約七十三万円ですから」と男はスマホの電卓アプリを叩いた。「こちらを当てることをご希望でしたら二十一万九千円、四捨五入して二十二万円ですね」


 手取りどころか給与額を越えているではないか。肩を落として美鶴は首を振った。そうかと思った。自分は幸せになるチャンスすら買えないのか。


「でしたら四等はいかがですか。賞金額が九千百円ですので三割だと二千七百三十円。丸めて三千円と言いたいところですが、お客様は初めてでいらっしゃいますから二千円で」

「いいんですか?」


 もはやそれがいくらの得になるのか考えることすら難しく、美鶴はただ会話の流れに従った。財布を取り出して中身を確認してみる。千円札が五枚、それとは別にボロボロになった封筒が入っていて、美鶴は後者を取り出した。封筒の中に入っている一万五千円は今月の食費だ。失えば雑費を削るしかないが、今月は化粧品のほかにシャンプーとリンスを買い足す必要があった。大掃除用の洗剤も必要だし、それに先ほどパンプスに傷をつけてしまった。


「じゃあ、これで」


 悩んだ末に美鶴は封筒から千円札を四枚取りだしてテーブルに置いた。男がすぐに数えて二口の希望かと確認してきたので頷く。


「では、拝見する前に注意事項を述べさせて頂きます。申告頂いた口数は必ず守ってください。守らなかった場合、一切の保証はできかねます」

「それって、もし外れたらお金を返してくれるってことですか?」


 男はそうですと言いながら名刺をテーブルに置いた。いかにも占い師といった神秘的な星空の写真を背景に、白く抜かれた名前と携帯電話番号、それから銀行口座と思しき数字が並んでいる。


「申し遅れました。わたくし、ケイレブと申します」どこからどう見ても純日本人の見た目だが、芸名かなにかなのだろう、男は淡々とそう名乗った。「万が一外れてしまった場合、こちらの携帯にお電話ください。賞金全額をお支払いします」

「全額って。え? 四千円しか払ってないのに九千円を二口分貰えるってことですか」

「そうなります」


 いかにも簡単なことと言わんばかりに男――ケイレブは頷いて答えた。それほど自信があるのだろう。胸の奥のほうでぴかりと何かが輝いたのを美鶴は感じた。いっそのこと、出せるだけ出してしまおうか。確実に当たるくじに挑戦しようがしまいが当選金額はそっくり手に入るのだ。


「申告頂いた口数より少なく買うとか、そもそも買わないとか、そういった場合にも保証はできかねますので。ご承知おきください」


 なんだか笑いたくなってきてしまった。ケイレブは真面目くさってそう言うが、そんなものどうやって確かめるというのか。買わずにおいて当たらなかったと言えばいい話だ。いや、客に与えた情報がどうなったかをきちんと確認しているのかもしれない。たしかくじの当選番号はネットで公開されているはずだ。だとすると、嘘をついて丸儲けはできないわけか。


「やっぱり五口で」


 自分でも気が大きくなっているなと思ったが止まらなかった。叩きつけるようにテーブルに置いた一万円、その価値は美鶴にとってとてつもなく大きい。ケイレブが先ほど収めた四千円を美鶴に返して一万円を取り上げる時、やっぱりなしでと心の中で誰かが言った。けれどもそいつをねじ伏せて美鶴は頭を下げた。


「よろしくお願いします」

「拝見します」


 そう言ってケイレブは目元を覆っていたサングラスを外した。そこになにか秘密があるのかと美鶴は期待したが、凡庸な鳶色がまっすぐに見つめてくるばかりだった。いわゆるイケメンに分類される顔立ちだったことが意外と言えば意外か。サングラスで格好つけるような男は不細工と相場が決まっていると思っていたが、ケイレブの場合は端正な塩顔で髪色が重苦しい黒なのがもったいなく思えるほどであった。


 鳶色が左右に振れている。ぱちりと鋭い音がしたので驚いて見てみると、ケイレブがスナップをきかせて指を弾いた音だった。ぱちり、また指が鳴らされる。彼の視線は美鶴の上にあると言うよりその周囲を見ているようだった。真一文字に結ばれた薄い唇がなにか呟くように動いている。五分か十分か、指を鳴らしながらケイレブは美鶴の周囲を見ていたが、やがて静かにサングラスを付け直した。


「どうですか?」と美鶴が尋ねても答えない。テーブルの隅に置かれていたメモ用紙を手に取って、そこにいくつか数字を並べている。書き終わると彼は一番上の一枚を破り取って美鶴に差しだした。


「こちらを」


 受け取って見てみると、七から始まって二十までの数字が五つ書き込まれていた。よく意味がわからなくて美鶴は首を傾げた。


「えっと、これをどうすればいいんですか」

「ロト7のシステムはご存知ですか?」


 美鶴は首を振った。宝くじなんて買ったことがない。どころか、あんな当たらないものを有り難がって買う人は馬鹿だと思っていた。広告に書かれた当選金額の大きさが気になって調べてみた時、砂が詰め込まれた大量のゴミ袋の中から一粒のダイヤをみつけるようなものだと書いてあったからだ。


「詳しいことはインターネットの公式サイトに書いています。そちらを参考にしながら、その五つの数字を指定してください。それで四等が当たります」

「本当に当たるんですね?」

「外れたとしてもお客様に不都合はないかと」


 たしかにそうだ。お礼を言って美鶴は席を立った。高くて不味い料理のことも、傷のついたパンプスのことも、もう気にはならなかった。ふわふわとした気分のまま帰宅して眠りについて、目が覚めてからあれは夢ではなかったかと疑ったが、ケイレブからもらったメモ用紙はちゃんと通勤カバンのポケットにしまわれていた。

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