忘年会費の四千円は致命打だった。なにせ一ヶ月の食費の四分の一、いや実質的には三分の一だ。
社会人になってから三年、同期の中でも出来がいいのは花形部署に引き抜かれて順調に収入を増やしていると聞く。一方の
ミスしようと思ってしているわけではないのはもちろんのことだ。データを提出する前に三度は見直したし、指さし確認だってしている。パソコン画面だけで見ているから流し見してしまうのかもしれないと考えて、いったん印刷しての赤ペンチェックまでしている。だというのに今日もデータにミスが見つかった。
その時の反応といったら、最悪であった。厳しいことで有名な課長からは「こことここ、それからここも。修正してきて」とだけ言われたし、他人が怒られているのを見てはニヤニヤするのが趣味の先輩だってなにも反応しなかった。
要するにもう後がないのだ。美鶴がこの先行ける部署があるとしたら――いや、どこかの田舎にあると聞く文書倉庫に飛ばされるか、会社の地下で黙々と段ボールを組み立てるか、きっと部と名のつくような場所ではないはずだ。それとも仕事を全部取り上げられた挙げ句、やんわりと人事に詰められるか――想像して美鶴は身震いした。
いまだに十三万を脱してくれない手取り、それさえなくなったらどうやって生きていけばいいのだろう。失業保険が出るまでには少しかかると聞いたことがある。保険が下りたとしても会社員時代の給与と同じ額は貰えないともどこかで読んだ。貯金のまったくない美鶴では
なにせ美鶴が住んでいるのはオートロック完備、オール電化、警備員常駐、駅近の好立地マンションと来ている。もちろん、十三万の手取りしかない人間がこんな物件に住むのは分不相応だ。それは重々、美鶴だってわかっていた。だが、両親が納得しなかったのだ。最初に選んだ1Kのアパートなんか、間取りを印刷した紙を見るなり父は無言でそれを破り捨て、母なんか今からでも内定を蹴って実家から通える会社に就職しなさいと命じてきた。
仕方なく選んだマンションでの一人暮らしは、控えめに言って地獄だった。一人暮らしの気楽さなんか感じる余裕もないくらい、心の中では金の一文字が飛び交っていた。
当初はそれでも気楽に考えていたのだ。一年か二年したら適当なアパートに引っ越そう。そうしたら家賃がまず安くなる。オール電化の暮らしからも解放され、電気代も下がる。駅から離れていても構わないから、近くに激安スーパーがある場所がいい。そうしたらパスタと冷凍うどん生活から解放されて、お弁当を持って出社しなくてよくなる。みんなみたいに社食でごはんを食べて、後輩にランチを奢ったり飲み会に参加したりして、服だって新しく買って、髪を切るのも美容院に行けるようになるし、そうしたらどんなに楽しいだろう。
ところがその引っ越しに必要な諸費用がいつまでたっても貯まらなかった。そもそも貯金なんて夢のまた夢、赤字すれすれの低空飛行をどうにかこうにか千円ちょっとの黒字に持っていくので精一杯だ。どうしてこうなった、誰のせいだって、美鶴がミスばかりして自らで自らの首を絞めているのが悪いのである。
ああ、と美鶴は足元を見つめた。あの四千円、あれがあったらどんなに美味しいものを食べられただろう。
忘年会で出された料理ときたら、誰もが無言で幹事を見つめたほどの代物だった。肉寿司食べ放題の飲み放題付きだかなんだかしらないが、ぱっさぱさで硬いシャリは噛んでも噛んでも虚無の味がしたし、その上に乗っかっている肉ときたらミンチと見紛うほどの細切りであった。サラダはしおしお、唐揚げはしんなり、付け合わせのアボカドに至ってはどろりと溶けてひたすら不気味ときていて、せめてそれらをビールで流し込めれば良かったものを、待てど暮らせど飲み物は届かず――美鶴は数えていなかったが結局注文は全部来たのだろうか。
お腹が中途半端に満ちているのがなおさらせつない。なにか美味しいもので体を温めて幸せな気分で帰りたい。されども、安さ自慢の牛丼屋にすら飛び込めない。だって、年末年始は引きこもっていればいいとしても、新年明けましてとなれば新年会が開催されるのは確実だ。そこでまた三千円か四千円がかかるのだから、今月は余裕など一切なかった。
笠地蔵の爺さんの方がよっぽど余裕あったよねと考えれば、ますますせつない。うろ覚えだがあの爺さんが笠を売りに行ったのは、正月の餅を買う為だったはずだ。ということは、大晦日についてはまだ明るい展望があったということにならないか。対して美鶴はといえば、クリスマスケーキがなかったのはもちろん年越し蕎麦もおせちもない。そもそも売りに行く笠すらなくて、ここから未来が開ける手立てがひとつもなかった。
酔った頭で考え事をしていたからだろうか、いきなり体が前方に投げ出された。パンプスの爪先がなにかに引っかかったのだ。眼前に地面が迫ってくる中、美鶴はなんとかそれだけを認識した。ボスンと間抜けな音がして、転けたことを認識して、けれどもそこから先がわからなかった。ここからどうすればいいんだっけ。足の方をぼんやり眺めてみると脱げたパンプスが転がっていた。地面とぶつかった衝撃から遅れて手のひらや膝がじんじんと痛み始める。しかし、パンプスに派手な擦り傷ができたことのほうが悲しすぎて、痛みは体の端の、どこか指先より遠いところで主張しているように感ぜられた。
これじゃ会社に履いていけない。また新しいのを買わなきゃ。二千円、それとも三千円はするだろうか。いいや、二千円までだ。今月はどうしたってそれ以上かけられない。なんでだろう。どうしてこんなに苦しいんだろう。お金さえあれば全部解決できるのに。旅行に行きたいとか百万円のバッグが欲しいとか、そんなぜいたくを言ってるんじゃない。白いごはんをお腹いっぱい食べたいだけ。頑張ったご褒美にコンビニスイーツを買いたいだけ。それなりに身なりを整えて友達を作りに行きたいだけ。なのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
必死に嗚咽を噛みつぶして、それでもこらえきれない悲鳴が口の端から漏れていった。全て、ちゃんとわかっていた。自分がいけないのだ。仕事のできない駄目な自分が全部悪い。
だけど、美鶴だって頑張っているのだ。いろいろたくさん工夫して、もう全てやり尽くしてどうしようもないのだ。それでも頑張らないといけない。どう頑張ればいいかはわからないが、とにかく頑張らないといけないのだ。
ぼろぼろと涙がこぼれてきた。道行く人々、その革靴やヒールが急ぐ理由は幸せのもとへ変える為なんだと思えば止めようがなかった。自分には帰ったってなにもない。中途半端にすいたお腹をもやしだけ炒めでなだめて、飲み足りなかったビールのかわりに水道水をがぶがぶ飲んで、布団にくるまって暖を取る。はたしてそれは幸せと呼べるのか。いいや、呼べはしない。こんなに苦しくて、楽しいことも何もなくて、ただ息をしているだけ、心臓が動くからそのままにしているだけの状態が幸せであってたまるか。
涙でにじんだ視界の端でなにかが十字の光を放った。街灯は遙か頭上、星の光はそのもっと上だから、地面に近いところでほんのりと光るそれは誰かが意図して灯したものに違いなかった。涙を拭いながら見てみると、それは四角い箱のような看板だった。赤い『占』の文字上になぜだか筆風のバッテンが黒く書いてある。
起き上がることをようやく思い出してもぞもぞと立ち上がり、パンプスを拾ってから改めて看板を見てみた。なにか強い引力のようなものが体の中心を引っ張っている気がした。美鶴はまっすぐ看板の方へ歩いていって、低いテーブルの前にちょこんと置かれたキャンプ用と思しき折りたたみ椅子へほとんど脱力するように腰を下ろした。