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 顔を洗おうと洗面所に行ってみると、蛇口からぽたぽたと水が垂れていた。それだけではない。風呂場からも水の音が聞こえている。まずは耳をすましてみて、聞こえる音がそれだけであることを確認してから小夜は歯ブラシに歯磨き粉をつけた。歯を磨きながら風呂場を覗いてみれば、やはりシャワーヘッドからホースへと細い水流が伝っている。ホースがゆるく折れたところから二股の小さな滝ができていて、その片方が風呂桶を叩いていた。もう片方はホースを伝って風呂桶の表面を流れ落ちている。音の原因は前者らしい。


 それ以外にはなにも見えなかった。例えば羽虫がヘッドにたかっているとか、もやが栓を開ける手の形になっているとか、その手の異常はなにもない。昨晩、二階を歩きまわった時とまったく同じだ。怪現象が起こると知っていなければ、それこそパッキンかなにかの不具合だろうと放置してしまうような、その程度の現象に見えた。


 口をゆすぎながら考えてみる。布団から這い出たのは素子と同時だったが、彼女は青い顔に化粧水をはたき込みながら、支度には時間がかかるから先に一階へ行くよう言ってきた。身繕いに時間をかけるのはいいことだとは思うのだ。本当に余裕をなくした人は、まず人目を気にすることができなくなる。そうすると周囲がその人を厭うようになる。他人から切り離された人は孤独を極め、それが行くところまで行ってしまうとかつての小夜のような人間を頼る羽目になる。素子はその前に『うち』にたどり着けたのだから幸運なほうだ。


 けれども、時として救いが救いにならないことがある。人は見たいものだけを見るとは、なにかの映画の台詞だったと思うが、まさしく自分の思うとおりでなければ救いではないと思い込むことがあるのだ。きっかけは人によっていろいろだと思うが、昨晩の一件はなかなかまずかったのではないかと小夜は思っていた。


 なにせ『フジ・サイキックアイズ』は、その名の通り超能力サイキックを売りにしている探偵事務所だ。けっして霊能力ではない。呪文を唱えて悪霊退散だとか、祭壇に鏡を据えて神を喚ぶだとか、その手の奇跡は起こせないのである。


 だというのに、頼みの能力が赤ん坊に通用しないことが――フラミンゴの能力のみだったとはいえ、素子の目にもわかる形で明示されてしまった。口にこそ出していないが、あそこにいたのが小夜だったとしても対処は不可能だ。ケイレブには聞いてないのでわからないが、おそらく赤ん坊が出現し続ける可能性を消すに留まったということは、有効な手段が見えなかったのではないだろうか。合流予定の明石に至っては言うまでもない。


 今後の流れ次第ではひょっとするかもな――洗顔を済ませてタオルで顔を拭いながら小夜は風呂場に入り、シャワーの栓を捻って水を盛大に流したあと止めておいた。これで少なくとも、今朝の異常はなくなったわけだ。


 足拭きマットを使っている間に気付いたのだが、どうやらフラミンゴの方でも証拠隠滅を図ったらしかった。風呂場を向いて設置されていたはずのカメラがどこにも見当たらない。三脚だけが残されているが、これだけ見たのでは事情は把握できないだろう。いかにも彼らしい気遣いだ。これがケイレブなら間違いなく放置している。


 もっとも、放置以前にケイレブはまだ就寝中だろう。聞くところによると、彼の生活は基本的に昼夜逆転しているのだそうだ。調査がある時は皆に合せるようにしているようだが、それでも前に一緒になった時は十時を過ぎてから頭に寝癖を作って現われた。今回も同じだろう。


 髪を丹念に整え、色つきのリップを塗って、使っていいと聞いている洗濯機にありがたくタオルを入れさせてもらってから、小夜はうきうきとリビングの扉を開けた。一階に降りてきた時からいい匂いがしていたのだ。ベーコンの焼ける匂い、和食中心の寮生活ではまず嗅ぐことができない朝の匂いだ。


「おはよう! 早いね!」


 声をかけながら覗いてみると、はたしてカウンターの向こうでフラミンゴがフライ返しを使っていた。昨日はスーツだかジャケットだかベージュの服を着ていたが――小夜にはいまだに両者の決定的な違いがわからない。ケイレブが綿パンに合わせているのはジャケットだということを知るのみだ――今日はワッフルみたいな模様の入った濃い紫色のセーターに、えんじ色のエプロンを首から提げている。エプロンの胸元には謎の花マークが描かれていて、端的に言ってダサい。ついでに言うならいつもはオールバックに撫でつけている髪が今日は目元まで被さっていて、それがまだワックスもつけてない天パだというのも致命的にダサかった。


 男の人ってこういうとこあるよね、と小夜はがっかりした。外見にさほど気を払わないというか、礼儀とは態度や言葉のみを示すと思い込んでいる節があるというか。それでいて自分が女の子を選ぶ側だとか、自分は芸能人みたいな可愛い子と付き合えるとか謎の自信を持っているのだから不思議である。前にバイトをした時、フラミンゴはその辺りに気を配る大人の男性だと受け取っていたから、余計にこの変化はゲンメツだった。よく言うではないか。印象とは落差が大きいほどショックも大きいと。


「おはよう、小夜君。朝食はもう少し待ってくれ」

「なになに? ベーコンとなに?」


 内心のあれこれをおくびにも出さず――我ながら大人である、小夜はカウンターに肘をついた。ボウルいっぱいにクリーム色のタネが満ちているのが見える。


「さて、なんだと思う?」

「えっとね。パンケーキ!」

「少しだけ当たりだ。正解はホットケーキ」

「バターと蜂蜜? ホイップクリームはつく?」

「いや、メープルシロップとベーコン。あとはチーズを少々」

「ってことは、おかず系?」


 上がったテンションがちょっぴり落ちた。男のガッツリ飯を食わされたらどうしよう、そんな心配が脳裏をよぎった小夜になんて目もくれず、フラミンゴはじっくりとベーコンから脂を引き出している。


「ストリップパンケーキ、と言うらしい。使っているのはホットケーキミックスだから、正確にはストリップホットケーキかな」

「なにそれ」


 なんだか朝から嫌な言葉を聞いた気がして小夜はぼそっと言った。ストリップって、朝のフラミンゴにはデリカシーもないのだろうか。


「アメリカでは定番の朝食のひとつだそうだ。柴家さんはまだ寝ているのかい?」

「ううん。化粧中」答えてから思い出し、小夜は声を潜めた。「素子さんって、けっこうオカルト詳しいかもよ」

「どういうことだい?」

「部屋にね、金運アップの象とか亀とか飾ってるの」

「像? かめ?」

「エレファントの象とタートルの亀。象は忘れたけど、亀の方は中国の神様なんだって」

「それならガネーシャと――玄武か、ロングイあたりじゃないかな? いや、玄武は北方守護で四大は水か。風水的に見るなら方角は良いが、水というのはどうだったかな。ロングイも聖獣であって神じゃないしな」


 その辺りのことはよく知らないし、あんまりわかりたくもない。小夜が首を傾げて見せるとフラミンゴの方でも同じく、しかし小夜とは反対に首を傾げた。


「しかし、そうか。どうりで」


 ひとりで納得しながらタネをひとすくい、それをベーコンの上から流し込んでいる。良い音がし始めたのと話が見えないのと、自分でもどちらかわからないながら、小夜は焦れて踵を上げた。フラミンゴの手元ではさっそく小さな泡がぷつぷつと浮き上がり、弾けてはまだゆるいタネに埋もれていくのが繰り返されている。一人何枚だろう、そんなことを考える口はかろうじて理性的な言葉を吐き出した。


「ねえ、なにがどうりでなの? 一人で納得しないでよ」

「いやなに、気になっていたんだよ。やけに素早く動いたなとね。柴家さんが最初に事務所へ来たのが一ヶ月前。その時のやりとりは君にも見せただろう? 柴家さんは現実的な解決を放棄し、オカルト的な噂話を耳にするなり速やかに飲み込んだ。そして、ネットの口コミを信じてうちに来て、その晩に赤ん坊が出たことから俺の勧める手段は採らないことにした。それから一ヶ月のうちに占い師だ霊能者だと何十人も手配している。その方面にまるで抵抗が見られない」


 育ちの関係もあって、その辺の機微はさっぱりわからない。小夜は素直に訊いてみることにした。なにせ、フラミンゴは高校生になるまでは一般人だったのだ。


「それっておかしいの?」

「おかしいと俺は思うね。街角の占い師を一人や二人訪ねるならわかる。口の上手い宗教家に傾倒して大金を払うなら、これもまだわかる。だが、メールフォルダをわざわざ作るくらいには大量の相談を、手当たり次第にしたわけだ。おまけに霊能者まで家に呼んで、ごたつきはしたようだが結局ぽんと大金を支払っている。その件も込み込みで、ざっと百五十は使ってるんじゃないかな、彼女は」


 ひゃくごじゅう、と小夜は口の中で呟いてみた。単位はもちろん万であろう。一般的に大金とされることは理解しているが、道場でやりとりされていた額は一回分でそれ以上していたのでピンとは来ない。ともあれ、フラミンゴがわざわざ言うくらいなのだから、それはとんでもなく変なことなのだろう。


「それもこれも、もともとオカルトを信じてたからってこと? もちろん、うちへの支払いも含めて」

「前半はそうだが、後半については異議を唱えさせてくれ。あくまでうちは探偵事務所だし、それにしたってかなり良心的な方なんだぞ。かかるのは基本料金と人件費だけ。機材だって車両だって持ち出しだし、潜入料だ技術料だなんて阿漕なことは言ってないし――」

「いや、よくわかんないけどさ」


 正直に答えるとフラミンゴはわざとらしく天井を仰いだ。


「まったく。事務所がどこにあるか知ってるかい? 吉祥寺の駅前だぞ。それをこの安値でやってるんだ。誰かに褒めてほしいもんだよ」

「はいはい、すごいすごい。そんなのいいからフライパン見てて。焦げちゃう」


 駅前と言っても、駅からずいぶん西に歩いたところにあるマンションの一室である。肩を落としているフラミンゴには悪いが、そこまで言うほどのことではないと小夜は思った。


「ところで少し話は変わるんだけどさ、フラミンゴって金運そのものについてはどう思う?」

「そのもの? 信じているかどうかってことかい?」

「そう。なにか具体的な行動ってしたことある?」


 フラミンゴがぱちぱちと瞬くので、小夜はケイレブや明石との話やそれを受けて自分なりに調査してみたことを話した。その間にホットケーキが一枚、二枚と焼けてくる。配膳を手伝いながらの話をフラミンゴは真剣な顔で聞いてくれた。なんだか、それにほっとして小夜はこう締めくくった。


「結局、その本の作者は研究者でもなんでもなくってさ。内容もあっちこっちからそれっぽい図案を寄せ集めただけだったし。あのお札は偽物ってことで、友達には話したんだ」

「友達はなんて?」

「別に絶交とかにはならなかったよ。ただ、もうあのお札のことは話さないでって感じでさ。親に相談してみるように勧めたんだけど、それも怒られるからって断られて」


「なるほど」と、フラミンゴは頷きながらカット野菜を四皿に取り分けている。その上からかけるのは小袋に入ったドレッシングだ。どちらも割高らしいが、こういう時には便利なのだという。小さなサラダボウルのうち二つをカウンターに突き出し、残りの二つを冷蔵庫にしまう背でフラミンゴは言った。


「俺の話をするなら、信じてるかはともかく験担ぎならしているよ」


 振り返って、ほらと彼が示したのはキーホルダーだった。小指で引っかけられたキーリングからは色も大きさもバラバラな石を四つ連ねた飾りがぶら下がっている。


「上からグリーンアベンチュリン、水晶、ルチルクォーツ、シトリン。それぞれ財運アップと癒やし、総合運アップ、金運引き寄せ、商売繁盛の効果があるとされている。あと財布は黒のコードバンにしてるし、名刺入れは青のガルーシャ。コードバンは革のダイヤモンドと言われていて、黒は風水的に蓄財の効果ありとされてるな。ガルーシャは別名がラッキーフィッシュ。独特の模様はアジアで天眼と呼ばれて珍重されてきた。青は水の色だから金が流れるといって財布には敬遠されるが、風水的に言えば木性、つまり仕事運に関連するとされている。名刺入れにはもってこいというわけだ」

「なんか……こう言っちゃアレだけど、節操ない感じ?」


「日本人らしいだろ? 小難しく考える必要はないと思うんだよ、俺は。乗れる神輿には乗っておいて、祭りの時期が終わったら忘れておけば良いのさ。クリスマスだって大晦日だってそうじゃないか。本義なんてさておいてケンタッキーを予約して蕎麦屋に並んで、めでたい気分でケーキを食って、ゆく年くる年で除夜の鐘が鳴るのを見る。君はチキンじゃなくてターキーを食った方が良いかもなんて考えるかい? 年越し蕎麦を食い損ねて一月二日に啜ったからといって今年はもう駄目だなんて思うかい? 要はその程度のものなのさ、なんとかの運ってやつは」


「じゃあ、フラミンゴは素子さんと同じ感じ? 詐欺と思うから詐欺になるってこと?」

「その点については立場上、同意しかねるな。不誠実が働かれているなら、信じるだの疑うだの以前の話だ。もっとも、木石を信じるうちに魂宿るなんて話、本邦にはごろごろしている。その偽物のお札だって本気で金運上昇を願って敬ったなら、孫子まごこに受け継ぐ頃には霊験あらたかなお札になってるかもしれないぞ」


「なんか、調子良いんだね。フラミンゴって」

「そう考えるようになっただけさ。こうもあれこれ舞い込むんじゃあな。それでそのお札、今のところはどうなってるんだい? 金運が上がらなかったにしても、一度は信じたものだろう? 粗末に扱うのはそれこそ験が悪いと思うんだが」

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