キャンプ用の折りたたみカップがテーブルに置かれるなり柴家素子は手を伸ばしたが、シリコンの表面に触れてすぐに引っ込めた。熱いことは告げてから置いたのであるが、頭に浸透していなかったらしい。小夜が気を利かせてハンカチでカップをくるみ、彼女の手に持たせている。いまだ震える肩を抱かれ、子どもにするようになだめられていることに気付いているのか否か、柴家素子はカップに口を付けて、けれども飲み込むこともできないらしく唇を湿らせるだけ湿らせたまま固まっている。
親友はどうしているかと見てみれば、燃えかすと化したカーテンのひだをじっと見つめていた。なにか見えるかと問いかけると、顔面だけがこちらを向く。
「発火の可能性はない」
「……そうかい。それは良かった」
開けてしまった穴は今晩中に塞いでおかねばなるまい。といっても、この状況でガラスの入れ替えなどできるわけもないので段ボールを宛がっておくのがせいぜいだ。防犯上は問題があるかもしれないが、この人数が詰めていることだし、空き巣も敬遠するだろうと思っておくしかない。
フラミンゴは一人掛けのソファに腰を下ろし、先ほど自らの手で淹れた緑茶を一口すすった。熱いかたまりが喉を通って腹の中心へと落ちていき、胃に到達したと見えて温度が失われる。瞑目してその感覚を丁寧に追ってから口を開いた。
「小夜君、先ほど言っていたことだが幽霊じゃないとはどういう意味かな?」
「そのまんまだよ。なにも見えなかったの」小夜は柴家素子の肩をさすりながら言った。「赤ちゃんは見えたんだけど『死』が見えなかった。それにね、この家もおかしいの。二階を見てまわったんだけどなにもなかった。まるでなにも起こってないみたい。幽霊が出るならなにか見えるはずなの。でも、なんにも見えない。こんなこと今までなかったんだよ?」
「能力が一時的にどうこうなっているわけでは?」
「ううん。フラミンゴにもケイレブにも」そこで小夜は言葉を詰まらせ、ちらりと柴家素子を見てから困ったように眉を下げた。それからすがるようにフラミンゴを見てくる。ひとつ頷いてやると目線だけで柴家素子を示して続けた。
「見えてるよ。うっすらとだけどね。いつも通り」
小夜本人の申告によれば『死』とは誰にでもまとわりついているものらしい。それは人工呼吸器に繋がれた老人でも、町を闊歩している若者でも、生まれたばかりの赤ん坊でも変わらない。ただし、それぞれには濃淡があって、生命力に溢れているものは薄く、今しも死にそうなものでは濃く見えるということだった。不慮の事故で死亡する場合はどうなんだと尋ねた時、彼女はこう答えていた。
――死が迫ったその時にね、一気に吹き出すの。まるで体に閉じ込められていたものが開放されるみたいに、ぶわあって小さな虫が飛び出してくる。それがある程度まで濃くなったら、その人は終わり。私が吸ったら別だけど、なにもしなければそのまま死んじゃう。
それがまったく見えないということはどういうことか。緑茶をすすりながら考え、フラミンゴは再び問いかけた。
「生き霊という線はどうかな? これまでに見たことは?」
「ないと思うけど」自信なさそうに小夜は答えた。「それってどういう状態?」
「つまりは幽体離脱の一種だよ。生きている人間がなんらかの情念を抱える。それがある程度にまで成長すると魂が体を離れ、情念の対象となっている相手のところへ飛んで行くんだ」
「それ、授業に出てきた。平安時代の奴でしょ。夢で恋しい相手に会えるんだっけ」
「夢の通い路というやつかな。それとは違う話だよ。生き霊の場合、恋愛感情に依らない。憎いとか妬ましいとか、そういった負の感情を育てた場合でも起こりうるんだ。大抵は対象の枕元へ死人の霊みたいに現われるという。金縛りはあったりなかったり、話によって異なるかな」
「ふうーん。それってさ、普通の幽霊となにか違うの?」
「見分け方か。話の中では主人公が生き霊か死霊か一目で見抜くというのが王道だが。そうだな、まったく知らない人間に対して魂を飛ばせるほど、人間は強い想いを持ち続けられないことの裏返し、と言えるかもしれない。例えば知らない男からいきなり怒鳴られたなら、小夜君ならどうする?」
「まずはびっくりするかな。こっちが悪いことしてたなら次に謝るけど」
「それがまったくの言いがかりだったら?」
「そりゃ、怒るでしょ」
「じゃあ君は、その怒りを持続させることができるかい?」
小夜はちょっと目を見開いて、それから天井を見上げた。そこに答えでも書いてあるように視線をさまよわせている。
「友達に愚痴って終わりかなあ。その人にまた会ったら、うーん、思い出してモヤっとはすると思う。いや、また言いがかりつけられる前に避けるのが先かなあ」
「言いがかり以降、二度と会わなかったら?」
「そんなことがあったこと自体忘れるんじゃないかな。みんなそんなもんじゃない?」
微笑んでフラミンゴは答えた。
「まったく。善人だよ、君は」
「そんなことないよ。ズルいこと、けっこうするもん」
「まあ、大方の人間は君と同じだろうさ。相手と何度も会って、しかも関わってこようとされなければ気持ちなんて持続しない。ましてや情念と呼ばれるほどの想いを抱えることなんてないだろう。つまり、話の主人公が一目見て生き霊――つまり、霊の正体が生きた人間であると気付くのはそういう絡繰りなんだと思う。双方が、お互いにね。さて、生き霊を飛ばす側についてだが、生き霊を飛ばしている間の本体は多くの場合、普通に寝ているだけとされている」
「ってことは、心臓も動いてるし呼吸もしてる?」
「その通り。本人の意識としては普段通りに生活しているだけだ。その間のことを夢という形で見る例もあるが、心当たりさえない例の方が多かったはずだよ。怪談話でよくあるのは、僧だの陰陽師だのに指摘されて始めて、自分が生き霊を飛ばしていることに気付くっていう展開だな」
「ううーん。そういう話なら、多分だけど寝ている本人には『死』が見えると思う。だけど、生き霊側はどうかなあ。そもそもさ、それって本当に霊なわけ? 気持ちが投影されてるとかじゃなくて?」
「そこまではわからないな。霊――つまりは魂と気持ちなんて、現代科学でも一緒くたにされているくらいだ。どちらも脳内の電気信号によって生まれるとね。あえて切り分けることを試みるなら、気持ちは経験なしに生じうるが、魂と呼ぶ場合は経験も含めた全ての結果として生じる、と言えるかもしれない。もっとも本物の科学者にかかれば、そんなものは文学的婉曲だとばっさりやられる可能性が高いだろうがね」
「それで行くと気持ちには『死』が見えない、魂には『死』が見えるってことになると思う――いや、ちょっと待って。死んだ人の幽霊なら、そりゃもう真っ黒に『死』が見えるの。これは本人が死体か、お
「ケイレブ、君はどうだい? 君の目にあの赤ん坊はどう見えた?」
「生者と死者の区別がつかない」
「シックスセンスみたいのなら、さすがにわかるでしょ」
端的な言葉に小夜が突っ込んだ。内心で同意しながらフラミンゴはケイレブを見上げた。表情は相変わらず読めないながら、肌がいつもより白い気がする。無理をしているのだろうが、あえてその点は指摘しないことにした。本人が張りたい虚勢なら尊重するのも親友の役目であろう。
「どれだ」
短くケイレブが言い、小夜が首を捻った。無理もないと思いつつ、フラミンゴは補足した。
「あの映画の、どの霊のことを言っているのかわからないそうだ」
「女の子とかさ。ほら、白っぽい服着てた子」
「君の目にはあれが初見で霊に映ったと」
ぐっと小夜が詰まった様子が見えたが、フラミンゴにはピンとこなかった。白っぽい服を着ていた女の子――主人公の少年をテントに追い込んだ霊だったか、いやそれは両手首を切った女の霊だった気がする。風船が割れたのはなんの霊の仕業だったか。考えている間に小夜が言いつのった。
「じゃあ最後の奴。顔が焼けた女の人!」
「それは文脈上、霊だと観客が判断しているだけだ」
「交通事故の人! 自転車に乗ってた格好の!」
「同様だ」
「じゃあ、あんたはどうやって幽霊か人間か見分けてるわけ!? 空飛んでたらさすがに幽霊でしょ!」
「生者が能力で空を飛んでいたら?」
「ああ言えばこう言う!」
「待て待て。二人とも、話がずれてるぞ」
フラミンゴが割り込むと、小夜は唇を尖らせてそっぽを向いた。ケイレブの調子は変わらない。常の声色で今後の方針を尋ねてきたのみである。
「ともかく、霊らしきものが出ることはわかった。水漏れが実際に起こることも君の能力で把握済みだ。今晩は全員が入浴したあと風呂場とキッチンにカメラを置いて終わりとしよう。明日はまず明石君の合流を待つ。そしてケイレブ、君は昼の間は待機」
「了解した」
「小夜君は俺と水道管の調査だ」
そう言ってから思いだした。湿度計のことが棚上げになったままである。携帯電話を取りだして確認してみると十時半を過ぎていた。事務員にも明石にも迷惑になるのは間違いなく、フラミンゴは肩を落とした。ここから電話するのは気が引けるし、メールをしても気付かれるのは最悪の場合は明日になる。ひとまず湿度計は諦めるしかないだろう。照明か火災報知器かを取り外させてもらって天井裏を覗いてみることに決め、フラミンゴは手のひらを打ち合わせて解散を告げた。
柴家素子は、最後まで俯いて視線をさまよわせているのみだった。はたして解決まで保つものか。考えを巡らせながらフラミンゴは率先して席を立った。
× × ×
私の
昔、通学路の途中にぶどう畑があったの覚えてる? じゃあ、その隣にアパートが建ってたことは? そう、あの角を少し入ったとこ、今はおっきな家が建ってるところ。あそこね、赤ちゃんの幽霊が出るんだって。
それってのも、実はアパートの解体中に赤ちゃんの黒焦げ死体が見つかったらしいの。見つけたのはもちろん従兄弟の友達の大工さん。最初はなにか、壁か床が崩れた跡だって思ったんだって。ほら、あのアパートって火事で焼けちゃったじゃない? その名残だと思ってシャベルですくい上げたの。そしたらそれがなんだか人の形に見えたわけ。手をぎゅっと握って胸元で組み合わせて、足も小さく縮めて。ちょうどお母さんのお腹の中にいる赤ちゃんみたいだなって、大工さんはそう思ったの。
珍しいものを見つけたってほかの大工さんに言ったら、もしかすると本物の死体じゃないかってことになって。それで慌てて警察に連絡したの。そしたら警察官が飛んできて、工事を中断するように言われたんだって。理由は……わかるよね? 大工さんが見つけたのが、本物の赤ちゃんの黒焦げ死体だったから。
しかもさ、これは秘密の話なんだけど、死体を解剖してみたら肺が綺麗なピンク色をしていたらしいの。どういうことかって? 要は赤ちゃんが死んだのは火事の前か後かって話よ。火事で焼け死んだなら、赤ちゃんの肺は煙を吸って真っ黒になってるはず。そうじゃないってことは、つまりそういうことよ。赤ちゃんは火事が起こる前に誰かに殺されていたの。
それで警察が調べてみたら。お母さんがね、赤ちゃんを殺してたの。育児ノイローゼってやつだったらしいんだけど、ひどいよね。
大工さんは、こう言ってたって。きっと赤ちゃんはなにも知らない。自分が今どういう状態か、誰になにをされたのかも知らないまま、さまよい続けてるんだって。
なんでかって? 出たからだよ、赤ちゃんの幽霊が。
ある日、大工さんは夜までかかる仕事を頼まれてさ。まだ柱しか立ててない家に一人で残って作業をしていたんだって。そしたらね、ちょうど丑三つ時、午前二時をまわった頃に赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたの。最初はもちろん、幽霊だなんて思わなかった。どこか別の家で泣いてるんだろうって思ったの。だけど、そう思って作業を続けているうちに妙な音が聞こえてきてさ。ずずっ、ずずって。二階で小さななにかが這いずりまわる音だったんだって。柱しか立ってない家でだよ? 床もまだなかったのに、明らかにそれはないはずの床を這い回ってたの。正体がなにかなんて、言うまでもないでしょ?
大工さんは悲鳴をあげて逃げだして。もちろんほかの大工さんや棟梁に話をしたんだけど、それは相手にされなくて。結局、家は完成しちゃったってわけ。
赤ちゃんは今もあの家を這い回ってるはずだよ。自分を殺したのがお母さんだったなんて知りもせずに、お母さんが恋しくて探しまわってる。
それでね、これがまた怖い話なんだけど。あの家を買ったのは二十代くらいの女の人なんだって。大工さん、こう言ってたらしいよ。赤ちゃんはきっと『お母さん』を見つけるはずだって。その時なにが起こるのか、自分は想像したくないってさ。
――私の話はこれで終わり。じゃあ、ロウソク消すね。