声に被さるように、さりさりさり、と耳障りな音が聞こえる。それは古いテレビを思わせる砂嵐の音に聞こえた。この部屋に唯一ある大型テレビを見たがそこに変化はない。真っ黒い鏡面のようになったパネルに、セットアップジャケットの男と耳を塞いでうずくまる女――フラミンゴと柴家素子が映り込んでいるきりだ。当然だ、そもそも電源が入っていないし、右の角にプラズマテレビであることを示すシールが貼ってある。砂嵐が生じるのはアナログ放送だから、デジタル放送を受信するこのテレビにそんなものは生じえない。
テーブルを回り込む余裕もなく、フラミンゴは飛ぶようにしてそれを跨ぎ越した。体を丸めている柴家素子の肩に手を置く。
「いや! いやいや!」
途端に彼女は爪を立ててフラミンゴを振り払おうとしてきた。
「大丈夫です。落ち着いてください」
力の差を利用し、闇雲に振り動かされる両手を掴んでから彼女の身とひとまとめにして片脇に抱え込んだ。ともかくも動きにくいこの場から移動しなければなるまい。己を抱えているのが味方であるとわかっているのかどうか、今度は全力でしがみついてくる柴家素子をほとんど抱え上げるようにしながらソファセットから脱し、ゆっくりと背後に下がった。ほどなく背中に冷たい感触が当たる。大窓に行き当たったのだ。
その間にも赤ん坊の声と砂嵐は四方から聞こえていた。どこからというわけでもない。右手で笑うような声が聞こえたと思ってそちらを見ると、間髪入れずに天井の方からだああという意味をなさない声が聞こえてくる。砂嵐はその全てを押し包みながら次第に激しくなり、今やざあああという
ふと先ほどケイレブが言ったことが頭をよぎった。彼はキッチンから出る前に『それと』となにかを伝えようとしていた。このことだったか、声の聞こえる方へ目を配りながら思い至ったが、だからといって解決策が浮かぶわけでもない。
フラミンゴの能力はあくまで周囲の物体や気温を操作することである。音に対しては無力であるし、そもそも周囲を熱しても冷やしても状況を変えることはできないだろう。
せめて相手の姿が見えていれば発火点を探ってみることくらいはできようが、相変わらずただ声と音が聞こえるばかりである。声は自在にその出所を変えながら、徐々にこちらに近づいてきているように思えた。砂嵐との距離は変わってないように思えるが、一定の調子で聞こえるその音はまるで耳殻を伝って耳の穴に潜り込み、脳の奥にまで詰まっていくようだ。
感覚が狂う。己の足が本当に地面を捉えているのかわからなくなる。なんとか柴家素子を抱え続けてはいるが、自分が彼女を支えているのか、彼女に自分がすがっているのか、徐々にそれすら曖昧になり始めていた。
バタン、とそこで新たな音が破裂した。正面で扉が開かれ、背の低い影が飛び込んでくる。
「フラミンゴ! 後ろ!!」
小夜だとフラミンゴが判じると同時に彼女は叫んだ。とっさに飛び退こうとしたが、片腕に抱えた重みが死に物狂いでしがみついてきている。不格好によろめいたフラミンゴはそれでも体をよじって、そして見た。
赤ん坊だ。ガラスのすぐ前、ぬらぬらと体の表面を光らせながら空中に浮かんでいる。その両手はまさになにかを掴もうとして失敗したように前へ伸びており、にもかかわらず満面の笑みを浮かべていた。らああ、ああ――ぽっかりと開いた口からそんな声が漏れ出している。真っ暗なその空洞の奥には歯の一本すら見当たらない。脇腹の下からつんざくような悲鳴があがり、フラミンゴはその圧力に押されるようにして床に転がった。かろうじて依頼主を守るよう自分を下敷きにしたが、かえってそれで身動きが取れなくなる。とっさに空いている手を突き出した。
心臓の中心から炎が駆け上がり、腕を伝い、解き放たれる感覚――ほとんど同時にガラスが燃える。一点が急速に赤く染まったかと思うと転瞬、白い炎がぼっと吹き上がった。炎は丸くガラスを舐め、速やかにそこへ穴を穿つ。ゆらり、高熱を浴びたカーテンとレースが煙を噴き上げながらめくれ上がった。硬い滴を垂らすガラスを背後に、けれども赤ん坊は笑ったままでいる。熱の影響を受けていない。
「そいつ幽霊じゃない!」
再び小夜の声が耳を打った。途端に脳があらゆる情報を吐き出し始める。赤ん坊は――いや透けていない。足もある。だが、幽霊に足がないのは江戸時代の影響で、そうたしか
赤ん坊の体を覆う液体が、その丸みのある肌を伝わって指先にわだかまっていくのが妙にゆっくりと見えた。液体は透明な縁に乳白色を帯びながら半円形に膨らんでいく。その形が伸びて楕円を描き、ついと赤みのある――まるで生きているようだ――皮膚の間近でくびれる。だああ、嬉しげな声が間延びして聞こえた。くびれがどんどん細くなる。楕円が重力をまとって再び円に近づいていく。落ちる。落ちてしまう。落ちたら、どうなるのだ。いったい。
パチンと鋭い音がしたのはその時だった。直後にくびれが断ち切れ、先端が丸くなった滴が落ちてくる。本物の雨粒はイラストみたいな形をしていないんだよ、どこかで聞いた知識が頭をよぎった。そうだ、重力にひかれて落ちながら、一方で空気の抵抗を受けるから先端はハンバーグのタネみたいに凹んでいる。その形がありありと目に焼き付いて、そして、消えた。
ふっと、ロウソクの炎を吹き消すように消えてしまったのである。
しばし硬直して事態を理解しようと努めていると、視界に丸いデニムの裾が割り込んできた。
「大丈夫?」
こちらを覗きこんできたのは小夜である。瞬きを繰り返して脳にその事実を浸透させ、それからフラミンゴは慌てて目を逸らした。白いソックスの先、健康的な肌の色が天井に向かって伸びていて、しかし途中からブラックデニムの暗闇に呑み込まれていたのだ。
「柴家さん。もう大丈夫です」
そう言ってから気付いたが、柴家素子はフラミンゴのジャケットに全身でしがみついて、関節という関節をわななかせていた。出がけにスチームを当ててきたズボンには、ものの見事に皺が寄っている。気のせいでなければ思いっきり尻肉を掴まれていると思うのだが、それは指摘しない方がいいだろう。
下敷きになっている依頼人の腕を痛めないよう気を遣いながらフラミンゴは体を起こし、吊られて伸び上がってきた肩にそっと触れた。
「大丈夫です。奴はいなくなりました。大丈夫ですよ、俺たちがついていますから」
とはいえ、己がなにかできたかというと単に依頼人の家を破壊しただけである。大窓に丸く空いた穴は差し渡しが二十センチほどはあろうか。ほとんど思考する余裕がなかったもので、家丸ごと焼き尽くすようなことにならなくて良かったと今さら人ごとのように思った。アパート火災の上に住宅火災を重ねて、依頼人に大打撃を与えたのでは申し訳が立たない。
小夜が膝を折って柴家素子の両首筋に腕を差し入れた。背後から肩を抱いて、とんとんと手のひらでその胸元を叩いている。同じ真似はさすがにできないので、有り難く任せておくことにしてフラミンゴは肩越しに振り返った。
「助かった。すまない」
開け放たれた扉の向こう、その枠の中に黒衣の親友が立っていた。指を鳴らしたまま静止して、駆けつけた気配など微塵も滲ませぬその立ち姿は、四角い外枠も相まって占いかなにかのカードのようである。題するなら、と考えてフラミンゴは笑った。いい加減、冷静になるべきであろう。