客用寝室で支度をしている間、ケイレブは壁にもたれて俯いていた。相応の痛手はこうむったらしい、そう考えるとますます怒りが煮え立つようで、フラミンゴは意識して己の感情から目を背けようとした。うずくまった背中を見た瞬間、わずかにでも柴家素子への怒りが湧かなかったと言えば嘘になる。
――彼女は知らなかった。俺が言わなかったからだ。俺の責任だろう。
遮光カーテンの件を小夜に告げた時、一緒に説明していればよかったのだ。その流れが断ち切られた原因を思い出してフラミンゴは頭を振り、ケイレブに声をかけた。
「布団、敷いたぞ。いったん横になった方がいい」
「問題ない。ここでいい」
冷静な声が返ってきたが、構わずフラミンゴは長身を引っ張り上げて布団に転がした。ジャケットを脱ぎたそうに身じろぐので手伝ってやり、毛布を頭までかけてから失敗に気付いてすぐにめくる。サングラスを握った手が無言で伸びてきたので受け取って、周囲を見渡した末にアルミケースのひとつの上に置くことにした。
「あのう」とそこで柴家素子の細い声が聞こえた。振り返ると彼女は顔だけを部屋に突き入れて、恐る恐るといった様子でこちらを伺っているようだった。
「ごめんなさい。氷は全部蒸発してしまっていて。保冷剤しかなくって」
朗らかであれ――己に命じてからフラミンゴは答えた。
「構いません。ありがとうございます」
開いた扉から差し入る光はない。別れ際に頼んだとおり、廊下の電灯は点けずに来てくれたようだ。つま先で畳の目を探るようにしながら柴家素子は部屋へ入ってきて、細く畳んだタオルを差しだしてきた。受け取ると冷気がやわらかに伝わってきて、なるほど女性らしい気遣いである。毛布の中にタオルを差し入れると、すぐに持って行かれた。ひとまず息をつく。
「柴家さんはリビングに戻っていてください。リビングの電気なら点けても構いません。すぐに伺いますのでもう少しだけお待ちを」
怯えきっている様子の依頼人をこれ以上に刺激することのないよう気をつけながらフラミンゴは声をかけ、それからぴくりともしない毛布を叩いてやった。
「一時間くらいで戻るよ。サングラスは荷物の上。遮光カーテンは引いてるし、部屋も廊下も電気は点けないから、自分のタイミングで出てくるといい」
返答らしきものはやはりない。もう一度毛布を叩いてから柴家素子の後を追ってみると、彼女は灯りも点けずソファに座っていた。
「親友なんです」
スイッチパネルを操作してリビングを光で満たし、自身もソファに腰を落ち着けてから飛び出てきたのはそんな言葉だった。久しくなかったことに、どうやら動揺しているらしい。そんな自己分析を下してフラミンゴは頭を振った。
「いえ、すみません。こちらのことでした」
柴家素子は唇を噛んでいるばかりだ。責める色と求める色をその両眼から見て取ってフラミンゴは続けた。
「最初にご説明すべきでした。わたくしの手落ちです。申し訳ありません。ケイレブの能力については簡単にお伝えしたと思います。可能性を見る超能力、彼は生まれついてそれを持っていました。同時に不都合も持って生まれてきた。人間が持つ社会性を、彼は生まれながらに剥奪されていたと言っても過言ではないとわたくしは思います。彼にとっての世界とは光に満ちあふれた場所なんです。いえ、満ちあふれすぎたというべきでしょうか」
柴家素子はそこでひとつ頷いた。なにかを理解したのではなく、先を促す動作だと受け取ってフラミンゴは続けた。
「そもそもの話をします。わたくしは、超能力者とは実は不具者ではないかと疑っているんです。フィクションが物語る超越者などではけっしてない。超能力とはアレルギーや持病といった不都合な特性、その一種ではないかと思うんです。
さきほどケイレブとは親友だと申し上げましたね。わたくしと彼は高校の同級生でした。しかし、わたくしの年齢は彼のふたつ上です。高校を休学しているんです、わたくしは。高校一年の時でした。それまでまったくの一般人として生きてきたわたくしに突如として超能力が目覚めました。マンガなら、見開きのコマになったことでしょうね。なにしろ、わたくしは周囲を焼き尽くし……同級生を殺しかけるほどの高熱を体から発したのですから。休学したのは目覚めた能力に悩まされたからです。熱したり冷やしたり、言葉にしてみると軽いものですが制御のできない能力とは災害そのものでした。それを押さえ込み、自分の意志で出したり引っ込めたりできるようになり、ごく普通の学生を取り繕えるようになるまで二年を要しました。それでもわたくしの経験したことなど軽い方です。ケイレブの場合、普通の人間らしく振る舞うことなんて、はなからできなかったのですから。
彼が夜でもサングラスを着けているのは、そうでなければ周囲が眩しすぎるからです。日中出歩く時にはサングラスのほかに、遮光率が高く反射光や散乱光を防ぐ特殊な日傘が欠かせません。夜なら自由に行動できますが、それにも比較的という但し書きがつきます。条件次第では先ほどのように行動できなくなってしまいますし、あまりにも眩しいもの、例えば投光器やレーザーが使われている場所では不便が生じます。それというのも、彼の目に映る可能性とは光だからです。本人が言うには青い光らしいのですが、世界はその光で満ちていて、どこに行っても逃げられないのだそうです。人間、動植物、建築物、天体に至るまで、あらゆるものが可能性の輝きを帯びている。それは誰かが喋る場面であり、なにかする場面であり、なにかの喜劇であり悲劇であり、私たちにとってはなんでもないただの日常だったりする。彼の目にはそれら全ての光が見えるんです。
例えば、想像してください。放課後の学校のグラウンドです。部活をしていた生徒たちも帰ってしまって、昼からの曇天で空には月も星も見えない。遠くから教師の下校を促す声が聞こえるかもしれません。あるいはすでに門扉は全て閉まっていて、教師たちの車だって一台もないのかもしれません。唯一、宿直室や誘導灯が光っていて、けれどもそれらの光は闇を駆逐するほどではありません。そんな状況下においても、彼の目に映るグラウンドは真昼の明るさで照り輝いて見えるんです。トラックを走る生徒たち、サッカーボールが描くはずのいくつもの軌跡、体育祭のパネルやテントや保護者たち、あらゆる全てが時刻も季節も関係なくいちどきに見えてしまう。そしてその全てが、青く眩しく輝いているんです。
同時にもうひとつ、彼は能力を持っています。可能性を破壊する力です。それは当初、ケイレブが青い光にわずかでも触れると発動していたそうです。彼の体が触れると、光はまるで最初からなかったかのように消えてしまう――ご安心ください。今の彼はその能力を制御するすべを身につけています。柴家さんに不利益をもたらすことはけっしてございません。けれども、彼がそのすべを身につけたのは物心ついた時でした。その意味が、おわかりになりますか。私は彼の両親だという人に会ったことがありますが、とてもいい人たちでした。わたくしが約束もなしに訪ねていっても、それが深夜であってもにこにこして、どんっと高校男子が好きそうな菓子だの夜食だのを置いてくれるんです。絶対に怒りませんでしたよ。驚きもしませんでした。たとえ、ケイレブが頭から血をかぶって帰ってこようともです。
先ほども申し上げたように、今の彼は能力を完全に制御できています。指を鳴らす、緊急時は除きますが、その動作を挟むことで可能性を意図的に操れるのです。サングラスや日傘を手に入れたことで、ある程度、普通の人間のように生活することもできるようになりました。しかし、柴家さん、ご想像ください。ケイレブ曰く、彼が絶対に見ることができないものはあらゆるものが必ず持つ特性、すなわち滅びだけであるそうです。逆に言えば、それを除いたほとんど全ての可能性が見えるのです。そして、自らの手でその可能性を壊してしまうことができる。
誰もが予見したとおりのことを言うし、するのです。誰もに都合の良いことだけをさせられるのです。彼の目には黒板は文字が折り重なって青く発光している板にしか映らなかったそうですが、学生時代の彼はそれでも優秀な成績を収めていました。しかし、蓋を開ければなんのことはありません、答えなんて全て最初から見えていたのです。日常のちょっとした動作にしても鬼ごっこのような遊びにしても、誰がどう動くのか、自分がどう動けばもっとも得をするか、全て把握できる。そして、それを制御できる。先ほどのように視界の外から不意さえ突かれなければ、彼に失敗は起こりえません。本など開くまでもなく結末が知れます。睡眠、食事、金ですら指を鳴らすだけで充足を得られる。どんなにおもしろい話をしても最初に笑いどころがわかってしまう。誰もが驚くようなことでも、痛みが生じるようなことでも、最初から把握していればわざわざ騒ぐほどのことではないのです。
柴家さん、断言しますが、彼にはすでにこの事態の結末が見えています。完全に把握しているとは申しません。結末の一部かもしれないし、決定的な証拠かもしれません。それでも沈黙を貫く彼をどうか許してやってください。彼にはそうする以外に、この事態の解決に
自分でも喋りすぎだと思ったが、言葉はあとからあとから溢れて止まらなかった。感情的になっている、それだけは把握してなんとか綺麗に締めくくったが、はたして柴家素子はどう反応するのだろうか。固唾をのんで見つめていると、彼女はひとつ息を吐き出して片手で顔を覆った。
「可能性を壊すことができるんですよね? それじゃあ、水漏れの可能性を全部壊してもらうことってできないんですか」
少し低い声で柴家素子は言った。考えることが難しいと以前に自身を評していたが、はたして今はどうなのだろう。フラミンゴが言ったことのうち、ともかく己に利があるところだけは掻い摘まむことができている、そんな印象を受けた。
「今現在、可能性として存在していれば対応可能です。しかし、可能性とは木から枝が生えるように次々に生まれては分岐していくものなのだそうで。彼の能力が有効打となり得るのは一ヶ月先、多く見積もっても二ヶ月先までかと存じます」
「定期的に来てもらうとしたら、どのくらいになりますか」
「この場での返答は控えさせてください。ケイレブのみ実働一日と考えまして、それほどの金額にはならないとだけ。ただし、根本原因を除くわけではありませんから、絶対に水漏れが起きない、あるいは怪現象が起こらない保証はできかねます。先にも申し上げたとおり、ケイレブの能力が及ぶのは可能性に対してのみです。すでに確定している未来については彼の目には映りませんし、対応もまた不可能です。いかがなさいますか?」
柴家素子は拳で膝を打った。まるでそこに憎むべき敵がいるように一度、二度と拳を叩きつける。強く噛みしめられた彼女の唇が口内へと巻き込まれ、フラミンゴがなにか取りなすべきか考えていた時だ。
猫の声が聞こえたと思った。発情期の、つがいを求める甘い声だ。伏せていた顔を柴家素子がガバリと上げ、宙空を見つめて凍り付く。
「いや……」
彼女は耳を塞いで言った。声の出所を探して立ち上がり、そこでフラミンゴは気付いた。発情期の猫の声は赤ん坊の声に似ているという。つまり、出たのだ。