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 浴場は薄い闇に満たされていた。少なくとも脱衣所から覗いているフラミンゴの目には洗面台のほの白い陰影や収納棚らしき四角い影、その向こうに見える浴槽や洗い場のノイズがかかったような灰色しか映らない。水漏れは今のところは起きていないらしく、耳をすましてみてもどこか遠くからのエンジン音しか聞こえなかった。


「どうだい、ケイレブ」


 コートを脱いでも変わらず闇と同化しているジャケットの背に向けてフラミンゴは言った。背の高さも手伝って、その後ろ姿はほとんど壁と化している。なにも着けていない首裏と両手だけが薄灰色に浮かび上がっているのが、それこそ新手の幽霊か妖怪のようだった。


「たしかに。水が漏れることがあるようだ」


 今晩、お初となるケイレブの声は実に頼もしいものである。事務所に来てからも、車の後部座席に乗り込んでからも、そもそもこの案件について説明した時ですら口を閉ざし、必要がなければてこでも動かない構えだったが、能力を使う要さえあればこの通りだ。


「侵入者の可能性はないかい? あとは細工の形跡があるとか」

「これから先において水栓を操作する人物は依頼人、俺、お前、小夜、明石だけだ」

「なるほど。それでも水は漏れている、と」


「ああ」と短くケイレブがうべなった。


「水が漏れる時間帯はわかるかな?」

「夜間。深夜が中心。だが、日中に落ちないわけではない。水滴が落ち始める時、周囲に人影が見えない。条件はこちらだと考える」

「じゃあ、観察するにはカメラを仕掛けるしかないわけか」


 フラミンゴが唸ると広い闇が振り返った。その鼻先から上は常とは違ってさらされたままである。いつの間にかサングラスを外していたものらしい。フラミンゴは数歩下がって、おそらくカメラを置くであろう場所を空けてやった。薄灰色の顔面がしばらく現われたり消えたりし、何度目かの後に返事があった。


「カメラなら問題ないようだ」

「わかった。じゃあ、ここに一台置いてみよう。ほかの場所でも水滴が見えたら教えてくれ。そこにも置きたい」

「了解した」

「それで、細工についてはどうだい? 考えられる可能性としては、そうだな……なにかタイマーのようなものとか。それで水を出しているっていうのはどうだ?」

「外見上はなにも見当たらないが」

「いやいや、それに関しては俺でも調べられるよ。例えば誰かがなにかを仕掛けたとか」

「過去について俺に訊くのか」


「すまない。そうだった。じゃあ、確定した未来があるという線はどうだ? 君の目には可能性しか映らない。全ての可能性がなくなれば、なにも見えなくなるだろ? 水が漏れる前後に怪しい空白の時間があるとか」

「それはない。水滴が落ちる直前、水栓を操作する者はいないし、水栓自体も動いていない。誰もなにもしていない状態が続いた後、唐突に水滴が落ちている」


 そうか、と答える間にケイレブの右手が上がっていくのが見えた。すぐに顔の上半分が闇と同化したから、外していたサングラスをつけたのだろう。これ以上、ここに留まってもなにも得られないらしい。


「じゃあ、次へ行こう」


 あまりにも急な依頼だったもので、間取り図を用意してもらえていない。脱衣所を出てすぐ、斜め前方に現われた扉をとりあえず開けてみると、どうやらそこが霊が出たというリビングダイニングのようだった。ずいぶんと広い空間は、遠くに白く浮かんでいるカウンターキッチンの手前まででも十六畳はあるのではなかろうか。到着した時にも思ったが、一人暮らしでずいぶんと思い切った買い物をしたものである。


 入って正面に大きな窓硝子が二枚、その左にそれよりは小さいのが一枚、カウンターの向こうにもう一枚が見える。仮称赤ん坊の霊に遭遇して家を出たきり本当に立ち入っていないのだろう、雨戸やシャッターは降りておらず、窓からは青白い光が斜めに差し込んで家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。


「平気かい?」と、念の為にフラミンゴは背後へ問いかけた。応えは特にない。ということは万事オーケーだと判じて中へ踏み入った。


 大窓の側に人一人が歩けるほどの幅を確保して応接セットが一組、そのすぐ右手の壁には立派なテレビが架けられている。テレビの下には壁に沿う形で背の低い収納が置かれていて、その後ろからケーブルが伸びているところを見ると、中に録画再生用の機器を収めてあるらしかった。


「なにか見えるかい?」


 ソファに挟まれたローテーブルを指差すも反応がない。ちらりと振り返ってご面相を確認してみると、ケイレブはサングラスに手をかける様子もなく突っ立っているだけだった。口は真一文字に結ばれたまま、開く気配は欠片もない。仕方なくフラミンゴは這いつくばってテーブルの下を覗いてみることにした。天板とカーペットの間には、ややほこりっぽいことを除けばこれと言って気になることはなかった。赤ん坊が這っていたと柴家素子は言っていたが、指の跡ひとつ見当たらない。


 その旨を告げながら顔を上げてみると、ケイレブは明後日の方向を向いていた。ちょうど入ってきた方向、顎が上がっているので扉の上付近であろうか。


「カビだ」


 短くそう言うので立ち上がって同じ方を見てみたが、白いクロスが広がっているばかりだった。扉の右にも左にもなにも見えない。あえて言うならキッチン寄りとなる右側に硝子の額縁に収められた絵が一枚飾ってあるきりだ。


「俺には見えないな。どの辺りだい?」


 ケイレブが指差したのは扉の左側、天井と壁のちょうど境目辺りである。念の為に手のひらでケイレブがいる方に盾を作りながらペンライトを点けてみたが、やはりそこには真新しい白が広がっているばかりだった。


「いや」と、珍しく迷う声色でケイレブが言った。「手形かもしれない」

「それはあれかい? 力士の色紙みたいな」

「ひとつひとつはそれほど大きくない」


 ケイレブがサングラスを外しながら壁に近づいていったので、フラミンゴは慌ててペンライトを消した。どうも広範囲に広がっているらしい。短髪の頭を右に左に転がすようにしてから、ケイレブは外したサングラスをなにかに宛がうように動かしている。


「サイズは最も大きいところでこいつの半分。小さいところで四分の一以下」

「手形とカビ、どっちなんだ」

「不明だ。カビが手の形に浮き上がっている可能性はある」

「そいつはいつ頃現われる?」

「最初は小さな点だ。それが少なくとも三日以内。二週もすれば」言いながらケイレブは顎で壁面を示した。「この全面に浮かぶ」


 腕を組んでフラミンゴは唸った。カビだとすれば原因は湿気だろうか。しかし、肌感覚では湿った空気が漂っている感じはしない。湿度計はたしか持ってこなかったな、と積んだ荷物を頭の中で数えている間にケイレブはキッチンに興味を惹かれたらしく、さっさと歩いて行ってしまった。


 放っておいても仕事をしてくれるのはわかっているので、フラミンゴは携帯電話を取りだして明石のメールアドレスを呼び出した。湿度計と、ほかに足りないものはないだろうか。ここへ来る前に事務所に寄ってもらい、持ってきてもらうつもりだった。とすると、事務員にも連絡をしておかねばならない。時刻を確認してみると九時を回ったところだ。事務所の鍵を適当なところに隠しておいてくれ、と頼むには遅すぎる。事務員に頼み込んで早出をしてもらうか、明石に遅めの時間を指定するか、どちらかしかないのだが、さて。


 どちらがいいか迷っていた時だ。唐突に目の前が明るくなった。寸の間、思考が停止する。我に返った時には遠くでうめき声が聞こえていた。携帯電話の画面から顔を上げると、扉から柴家素子が顔を覗かせている。フラミンゴを見て不思議そうに首を傾げて、その右手はパネルスイッチへとまっすぐに伸びていた。


「ケイレブ!」


 とっさにカウンターのほうを見てもそこに求めた長身はない。弾かれたようにフラミンゴは短い距離を駆けてカウンターを回り込んだ。シンクに片手をかけ、ケイレブは立ち上がろうとしているようだった。うずくまった黒い背中が微かに震えている。空いた片腕で目元を覆っているところを見ると、まともに光を見たらしかった。


「柴家さん! 電気を消してください!」


 振り返る余裕もなく叫び、フラミンゴはケイレブの背に手を置いた。戸惑う声が聞こえ、すぐに闇が戻ってくる。光に慣れた目ではなかなか状況を捉えられない。指先に伝わってくる震える感覚だけがはっきりとしていて、なおさらもどかしかった。


「痛みは?」


 返事はない。焦れている間に薄闇がゆるりと戻ってきて、フラミンゴはともかくケイレブの様子を伺った。


「頭痛はあるかい? 吐き気は?」


 声もなくケイレブは頭を振った。反対の手がからであることを認めて周囲を見渡すと、少し離れた冷蔵庫の前にサングラスが落ちている。ともかく拾い上げてから、もう電気が消えたことを伝えるとシンクを掴む手に力を込める様子がおぼろげながら見えた。脇腹に手を差し込んで支えてやる。ケイレブはふらつきはしたものの、何度か呼吸を繰り返してから自分の足で立ち上がった。その手にサングラスを押しつけてやると、素早くつるを開いて目元に押し込む。何度か頭を振り、それで取り繕ったようだった。


「大丈夫かい?」

「問題ない。水漏れはここでも起きるようだ。それと」

「いいから。来い」


 落ち着いた声で答えるあたりは見上げた根性だが、これは一度休ませた方がいい。フラミンゴは強引にケイレブの腕を取ってキッチンを出た。


「な、なにか出たんですか」


 柴家素子は壁際に張り付くようにして立っている。


「いえ、そういうことでは。すぐにご説明に上がりますので」


 あくまでにこやかな声で告げつつもフラミンゴは内心で毒ついた。


 ――完全に己の失策だ。時間がなかったなんて言い訳だろう。腹の立つ。

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