先ほどの気安い態度はどこへやら、二階の寝室に招くと小夜は途端に借りてきた猫のようになった。布団と毛布を抱えたまま、素子がどうぞと言っても両足の爪先をもじもじと動かしているばかりである。
「おばさんの寝てるとこなんていやかしら」
あえてそんなふうに言ってみると、小夜はびくっと肩を動かして素子を見上げた。
「いえ! そんな!」
改めて見てみるとずいぶんと小柄だ。今どきの子は背が高いと聞いていたが、小夜の目線は百六十七ある素子より十センチは低いところにあった。まだカラーを入れたこともないだろうつむじからは艶やかな黒髪が生えていて白髪の一本も見当たらない。その下にある頬の張りなど言うまでもなく、若いっていいなあと素子は笑んだ。きっとリフトアップやほうれい線なんて考えたこともないだろう。自分も若い頃はそうだった。ひたすらに毎日が楽しくて、友達と可愛い小物を交換するだけでも面白くて、退屈なのは授業だけだと思っていたが、今になってみればあくびをこらえながらのそれも良い思い出である。
「お邪魔しまーす」
「どうぞどうぞ」
怯える子鹿のような足取りで小夜は寝室に入り、素子もそれに続いた。
「ふわー」といきなり小夜が呟くのでなにが気になったのだろうと視線を追ってみると、ドレッサーに釘付けになっているようだ。布団を置くように伝えるとその通りにはしたものの、置くとすぐにまた顔を上げてドレッサーの方を見つめている。
「可愛いでしょ。アンティークに見えるけど、実はふうなのよ」
「はい。ドレッサーも猫足が素敵ですけど。これ、春限定の奴ですよね」
どうしてか囁くような声になっている小夜が可愛らしくて素子は吹き出した。
「どれのこと?」
「これですこれ、ラベンダーのクレンジング。たしかこのブランドは春に摘んだ新鮮なやつしか出さないって言って、期間も本数も限定で出してるんじゃありませんでしたっけ」
「気になるなら今夜使ってみる? 同じブランドのボディソープもミルクもシャンプーもあるわよ。良ければお風呂の時、出しておくけど」
「いいんですか!?」
「もちろん。私もここのラベンダーが好きなの。ほら、ほかのブランドだと混ぜ物がしてあるじゃない? ここは百パーセントだから」
「ですよね、ですよね! 私もハンドクリーム使ってますもん。テクスチャがさらっとしてるし、香りをかぐとよく眠れる気がするんですよねえ」
うっとりしている小夜に、実は同じブランドのラベンダーアロマも在庫があるのだと明かしてみたらどんなにか喜ぶだろう。
「お布団は私が使うから、あなたはそこのベッドを使ってくれる?」
えっ、と小夜が驚いた顔で振り返った。素子はにっこりと続けた。
「可愛いお嬢さんを床で眠らせたら親御さんに怒られちゃうわ。私を助けると思って。ね? いいわよね?」
小夜は途端に神妙な顔になった。素子が首を傾げてみせると慌てたように手を振り始める。
「依頼者を床で寝かせたら、私こそフラミンゴに怒られちゃいますよ。大丈夫です。お布団で寝たことは合宿とかでもありますし、そもそもこのバイト、いっつもこうですし」
「駄目よ。良い仕事は良い睡眠から。フラミンゴさんに伺ったんだけど、あなたが幽霊退治の主役なんでしょう? だったら、頑張ってもらわなきゃ。その為にも、ね?」
「あーいや、それは幽霊だった場合といいますか。これが映画だった場合、主役はどっちかっていうとケイレブだといいますか。って、そうじゃない。とにかく駄目です」
「どうしても?」
「どうしてもです!」
「困ったわねえ」と、素子はわざとらしく片頬を押さえた。「この部屋にも幽霊が出たでしょう? それってそのベッドで寝てた時なのよ。正直なところ、そこで寝るのはさすがに怖くって。ねえ、お布団を譲ってくれないかしら?」
うぐっとわかりやすく小夜は詰まり、マンガのキャラみたいに唸りながら室内を見渡した。それでヒントが見つかるわけもないのにと微笑ましく思いながら、素子は布団を確認させてもらうことにした。真新しいとは言えないが布団はふかふか、毛布は急いで乾燥機にでもかけたのだろうか、折りたたまれた端の方にまだほんのりとぬくもりが残っている。
「あのう。これは?」
これならよく寝られそうだと思っていたところに声がかかって、見てみると小夜が部屋の隅に佇んでいる。彼女が気にしているのは、やはりアンティーク風にこだわって選んだローチェスト、その上に並べてある置物であろう。
「みつかっちゃった?」
そんなふうに答えながら素子は立ち上がった。ウォールナッツカラーの天板に大きな黄色の布を敷いて、さらにぴかぴかの魚だの右手を頭より高く挙げた招き猫だの置いているのだからみつかるもなにもないのだが、他人にこうして見られるとなんとも気恥ずかしいものだ。こだわって北西の角に置いていることまで見抜かれていたらどうしよう、そんなことを考えながら小夜の隣に並んだ。
「見ての通り、金運コレクションよ。フリーのイラストレーターなんて明日をも知れないことしてるでしょ? なんだか不安でしょうがなくなる夜があってね。そういう時についポチッと通販しちゃうの。小心者なのよ、根本的に私は」
「これ全部、金運関係なんですか?」
「そうよ。黄色い布を敷いているのは風水。この龍が刺さってる亀は中国の……ロンなんとかっていう神様で、こっちの象はガネーシャ。インドの神様ね。これは三国志で有名な関羽、こっちはおなじみ七福神。最初は金運に効くっていう弁財様と大黒様だけ買ったんだけど、それじゃ据わりが悪い気がして。結局、七人揃えちゃったのよね」
「柴家さん、こういうの信じる感じなんですね。効果はありました?」
「素子って呼んでちょうだい。そうねえ、信じてるっていうと微妙かな。なにか良いことがあるかもとは思ってるけど、それだけよ。効果のほうはよくわからないわ。これのおかげで案件が途切れてないのかもしれないし、でも億万長者になれたわけじゃないし。当然だけどね。難しい案件に取り組む時に手を合せるくらいで、あとは基本的に忘れてるもの。本当なら定期的に買い換えた方がいいんだろうけど、それも面倒だし」
「買い換え?」と小夜は素子を見上げて首を捻った。
「そうよ。風水では三年でお財布を買い換えるって聞いたことない? 厄除けのお札なんかも一年経ったら神社にお返しするでしょ? だから多分、こういうのも定期的に替えないといけないんじゃないかと思うんだけど。そこまでする気にはなれないのよね」
寝床の話を切り出した時に似た神妙な顔で小夜はきらびやかな一角に向き直った。なにか迷っている気配がする。素子が待っていると、やがて彼女はぽつりと言った。
「私の友達も金運のお札を信じてて」
素子の感想はふうん、とそれだけだった。金運のなんとやらにあやかる人間なんて、どこにでもいるからだ。男性の中には年々信心深くなる人が一定数いると見えて、ある日を境に手首にタイガーアイやシトリンといった天然石のブレスレットをじゃらじゃら言わせだす、なんてのはよく見かける光景だ。女性の芸人にだって金運をもたらす財布とやらに一家言あるので有名な人がいる。大物芸能人や政治家が占い師の元を足繁く訪ねたり、ワニ革やエイ革をこだわって使ったりなんていうのもよく聞くし、なにも珍しいことではない。
「それは結局、いろいろ調べたけど詐欺で」
「そうなの。それは残念だったわねえ」と素子は思案しながら言った。「だけど、それは本当に詐欺だったのかしら」
「どういう意味ですか?」
「だからね、こういうのは気の持ちよう。詐欺と思えば詐欺なのよ。効果がないって信じてしまえばそれで終わりなの。大事なのは期待すること、そして期待しすぎないこと。良いことがあったらきっと神様のおかげって思うの。悪いことがあった時だって、もっと悪いことにならなかったのは神様のおかげって、そう考えておくのよ。なかなか芽が出ない時だって、これより悪くならないのは神様が助けてくれてるから、今は神様も充電期間でこれからもっと良くなるって思っておくの。なーんて、これ、受け売りなんだけどね」
冗談めかして締めくくると、小夜は微かに笑ってくれた。
「その考え方、良いですね」
「良ければお友達にも教えてあげて」
「うーん。機会があったら言ってみます。今は触らないでって感じなんで」
それはお年頃にはありがちなトゲであろう。そのお友達にしろ、小夜にしろ、友情を確かめてみたり壊してみたりして少しずつ大人になっていくのだ。なんだか昔のことがひどく懐かしくなってしまって、その気持ちを置くように素子はそっと小夜の肩を励ました。