店員がコーヒーとシフォンケーキを小夜の前に、レトロプリンを明石の前にサーブして、胸に手を当てて一礼して去って行くまで、明石は携帯電話の画面を見つめて動かなかった。いかにも興味深いことに熱中しているといった圧を全身で表わして、しかし一方で彼の目は抜け目なく店員の動きを追っていた。注文を取りに来た時と同じく店員が去って行く後ろ姿をしっかりと確かめてから、明石はまるで今し方目が覚めたように笑った。
「さ、食べて食べて。本当に美味しいんだから」
小夜は少し頭を下げながらノートをテーブルの端に寄せ、コーヒーカップとケーキ皿を引き寄せた。そこにコツンと陶器の音が重なって、見れば明石の前に置かれたはずのプリンが目の前にある。
「実はこっちも気になってたよね?」
たしかにそうだが、人様の注文した物を奪うのは気が引ける。しばし小夜は断りの文句を並べたが明石は笑顔だけでその全てを跳ね返してしまった。仕方なくプリンの端っこをフォークですくいながら小夜は尋ねた。
「TIPSって、そんなにいろいろ書いてあるんですか?」
「そう警戒されるとつらいなあ。大丈夫だよ。プリンの件は君のTIPSを読んだんじゃない。メニューを見てた時に君の視線が行ったり来たりしてたから、そこからの推測」
「いえ、そういう意味じゃなくて」それだけは言い置いてから、小夜はプリンを食べた。途端にバニラの香りが口いっぱいに広がる。硬いというからゼラチンを多めに入れたゼリーのような食感かと思っていたら、噛むまでもなく舌の上でとろけるので驚いた。呑み込んだあとに残ったのは甘さというより、牛乳と卵がもたらす濃厚な味わいである。
滋養、という言葉が頭に浮かんだ。古い映画で男の人が言っていた言葉だ。おっかさんに食べさせてあげるといい、卵には滋養があるから。映画を見た時はピンとこなかった言葉だが今まさに理解が及んだ。栄養たっぷりの古き良き味――掛け値なしの心遣いがあって始めて成立する深い味わい、それはこれまでレトロやノスタルジーといった言葉に揺れることのなかった心に穏やかなささなみを立てた。
「すごい! なんて言うんでしょう、こんなプリンを食べたのは初めてです」
後味はまだ口の中でふわふわと広がり、コーヒーの匂いさえ覆い隠してしまうほどだ。明石は「だろう?」と自分が作ったかのように得意げである。
「気に入ったなら全部食べちゃってよ」
「いえいえ、それは申し訳ないので」
固辞して小夜はシフォンケーキにフォークを刺した。切り分けるとふわりと紅茶の匂いが広がって、嫌が応にも期待が高まる。
「美味しい!」
再び声をあげてしまった小夜をにこにこと明石は見ていた。その様は優しいお兄さんが近所の小さな子どもを見守っているかのようである。もっとも、こんなにイケているお兄さんなんてそうそう身近にいるものではないと思うが。
「ええっと。話を戻しますけど。私が気になったのは、明石さんの目にはなにがどんなふうに見えているのかなってことです。私の能力はそういうんじゃないので純粋な興味っていうか」
想像するのはSF映画に登場する透明パソコンのようなものだ。腕のバングルなんかをタップすると空中に青や緑の透明な画面が浮かび上がるアレである。
「へえ、ということは、君のって使える能力なんだ? ああいや、言い方がマズいな。なにかを見る能力か、なにかを使う能力かで言うと使う方なのかって意味なんだけど」と明石は小夜が返したプリンの皿を引き寄せながら言った。
スプーンで大きくひとすくい、それから口に運んでもごもごやってから飲み下す。尖った喉仏が上下するのを間近で見てしまい、小夜はうわあと思った。自分でも色のわからなかった心の声は、大人っぽくてしかもキラキラした男の人が間近で物を食べるのを初めて見た為に漏れたものである。思えば父親以外の男性と向き合って食事する機会なんてこれまでなかった。まじまじとその男性の印を見つめられていたことに気づいたのだろうか、明石はちょっと首を傾げた。
「もっと食べるかい? もう口を付けちゃったけど」
「いえいえ!」
慌てて手を振ってから、小夜は自分がフォークを握ったままであることに気づいた。慌てて皿の端に乗せて、これは行儀が悪かったと反省する。話を聞くうちに失せた熱が再び顔に集まってきた気配がしていた。小さくなった小夜をどう思ったのかは不明だが、明石はくすくすと笑い声をこぼした。
「小夜ちゃんってさ、よく面白いねって言われない?」
「……言われたことは、ないです」
ますます小さくなって小夜はコーヒーカップに手を伸ばした。苦いコーヒーを飲めば気持ちが落ち着くと思ったのに、熱い湯気にあぶられて顔の熱はますます上がっていくようだった。
「僕の能力は君が想像するよりずっと地味だよ、たぶんだけどね。僕が人や物に興味を持つと空中にウィンドウが現われるんだ。パソコンのウィンドウ、あれよりもうちょっと洒落た黒縁の奴がね。ウィンドウの中にはイラストとか写真とか、あとは文字が並んでる。まるっきり百科事典みたいな感じだよ」
「それで、文字の一部が光っているんですよね」
「大抵は、と但し書きを付けるべきかな。どの文字も光っていないこともあるんだ。そういう時はそれ以上の深掘りはできない。光るルールはまったくの不明さ。全然興味のないことが光ってるなんてしょっちゅうだし、知りたいことに限って光ってないなんてこともたまにある。ちなみにね」
言いながら、明石は携帯を小夜の方へ差し出して操作した。検索エンジンを呼び出して、検索窓に『ネットショップ』『金運』と入力する。すぐに表示されたいくつかのリンクの中から明石はひとつを選んだ。
「幸運の店、ラッキーアイドル」と、小夜はリンクの文字を読み上げた。ほどなくしてまったくの同名をトップに掲げた白っぽいホームページが表示される。画面がスクロールされると『開運』だの『寅の日』だのといった文字が賑やかに表示され、そのあとに商品リストが現われた。
「統一感、ないですね」
思わず小夜は言った。ふふっと明石が吹き出す。
金色の招き猫はまだわかる。だるまの置物も縁起がよさそうな気がする。しかし、赤い紐の付いたストラップや空想上の生き物を描いたと思しき掛け軸、なんとかいう神社でお祓いしてきたという塩というラインナップにはまるで理解が及ばない。
「すごいのはここからさ」と、明石はそれらの商品を素通りして、ホームページの一番下を表示させた。支払い方法やサイトマップ、連絡先のアドレスのさらに下、そこにも商品があると知らなければたどり着けないようなところに小さな文字で『呪具はこちら』と書かれている。
明石が文字を選択すると、途端に画面が真っ黒になった。商品リストも一変している。リストの形式そのものは同じだが、こちらは黒っぽいカビの浮いたこけし、髪がボサボサになった日本人形、錆の浮いた看板かなにかといった、見るだけで不安になる写真がいくつも並んでいた。
「甲一級呪具というらしいよ」