渋谷の改札を出て指定されたエレベータまで歩いている間はたいしたことなかったのに、地上へ出てみるとそこは人であふれかえっていた。ニュース映像でおなじみの、あの巨大な交差点に比べればたいした人混みではないのだが、生まれも育ちも大分の田舎である小夜にとっては十分にたいしたものである。
これが苦手で人が多いと聞く街にはなるべく近づかないことにしているのだが、今回は二子玉川のライター――明石と名乗っていた――が指定してきたのだから仕方ない。メールに添付された手書きの地図を頼りに歩いていくと、ほどなくして三角屋根が印象的な喫茶店にたどり着いた。白い壁と黒っぽい木組みの飾りがレトロで可愛いお店である。
入店してすぐのところに立っていた男性店員に、これも指示されたとおりに明石の予約だと告げると、ワイシャツを腕まくりした彼はすぐに店の中央へと歩を進めた。あとについて歩きながら見回してみたが、外観同様に明治か大正をイメージしたらしい素敵なお店である。蓄音機は花びらのように大きく開いた――ホーンというのだろうか、口が付いているタイプだし、全ての窓にはステンドグラスがはめ込まれて、幾何学模様の青や緑の光がやわらかに店内を照らし出していた。客席のちょうど中央で華やかに枝を広げているのは、たしかマユミとかいっただろうか、絵に描いたような小桃の形をした果実が可愛らしい冬の木だ。ひな祭りを思わせるその賑わいの下に金色の頭が覗いていて、男性店員はその方向を手のひらで示した。
「やあ、本当に女子高生さんだ!」
足音で気づいたのか、金髪の主はくるりと頭をまわして声をあげた。こちらへ身を乗り出してきた拍子に、大胆なチェック模様が入ったシャツが覗く。
「どうも、初めまして。メールを送った池田小夜です。今日はよろしくお願いします」
小夜が頭を下げると、金髪の彼は正面の席に座るよう身振りで促してきた。
「丁寧な挨拶をどうもね。こちらこそ初めまして。僕が
と、朗らかに言いかけたところで店員が小夜にメニューを手渡してきたので彼は口を閉じた。ごゆっくりと言い置いて去っていくワイシャツの背中をつり上がり気味の目が見送る。
とりあえずは普通の人かな、と内心で小夜は明石にラベルを付けた。きんきらの頭に派手なシャツなんて合わせているから、もしかして遊んでいる感じの人かなと引いてしまったのだが、きちんとした自己紹介を鑑みるに、ただそういう格好が好きなだけという可能性が高そうだ。顔立ちはどちらかと言えば女顔で、男の人にありがちな怖さは微塵もない。それというのも、表情がどこまでも明るいからだろう。店員を見送り終わってから周囲を確認し、それから小夜に向かってにっこりと笑いかけた顔なんてキラキラと星が舞うようであった。
「ここはね、レトロプリンがおすすめなんだ。知ってるかな? 僕らが生まれる前に流行った硬いプリンさ。あとはシフォンケーキもおすすめ。フレーバーが八種類もあってね、僕が好きなのはバナナだけど、初めての人にはまず紅茶を味わってほしいな。お腹がすいてるならオープンサンドがぴったりだよ。バゲットにハムとたっぷりのチーズと、あとなんだったかな、ああそうだコーンがチーズに混ぜてあるんだった」
そこまでを流れるように言って、明石はテーブルに置かれた小さなメニューを指差した。
「ちなみに飲み物はコーヒーのほうがおすすめかな。ここは珍しいものがたくさんあってねえ。コピ・アルクって知ってる? 別名はジャコウネコのコーヒーっていうんだけど、これが――と、これは女子高生さんに言うことじゃないか。ともかく良い匂いがするからおすすめだよ」
まだ喋りたそうにしながら小首を傾げる、その様に小夜はちょっと心が揺れてしまった。どうしよう、この人可愛いぞ。あるいはあざといとでも言おうか。輝くような笑顔にお洒落な服装――シャツの胸元をゆるく結んだストールで飾って、シャツ自体もよく見てみれば大胆な柄が入っているだけではなく、肩口から二重三重に生地が垂れ下がっている――その姿はまさに王子様系アイドルのそれである。
田舎者の小夜など若者が多い街と聞いただけで気後れしてしまうのだが、このいかにも楽しそうな人に渋谷は似合いの街だった。
「どうしたの? 遠慮しなくていいんだよ。ここは僕が持つから」
「いいえ!」慌てて小夜は手を振った。「自分の分は自分で払います」
「いいからいいから。学生はおとなしくお兄さんに奢られてなさい。って、僕も学生なんだけどね。あはは」
実に、と拳を握って小夜は噛みしめた。ケイレブと対照的――いやそれでは足りない、ケイレブはこの彼を見習うべきである。
「ええっと。もしもし? 聞いてるかい?」
高校生の少ない小遣いから三千円をむしり取っていった涼しい顔に脳内で靴跡を付けていたので反応が遅れた。
「はい! なんでしょう」
「呼び名のことだけど。小夜ちゃんって呼んでいいかな? それとも苗字のほうがいい?」
「小夜でいいです。ちゃんは要りません」
「そんなわけにはいかないよ。こんな可愛い女子高生さん相手なんだから、せめてその気持ちを言葉で表わすくらい許してほしいな」
本当に、ケイレブはこの男を人生の師にすべきである。
「おすすめはプリンとシフォンケーキでしたよね」
なんだか熱くなってきた顔を隠そうと小夜はメニューを開いた。
「両方頼んでもいいよ。なんなら片方は僕が頼んで分けっこっていうのはどう? もちろん、初対面の男と半分こするのが嫌じゃなければだけど」
ばちんっと音がしそうな勢いで明石は片目を閉じた。黒いまつげどうしがふわりと合わさったのがメニューの端から見えてしまい、小夜はついに下を向いた。絶対に頬や耳が真っ赤になっている。きちんと手入れしてないとそうはならない、長くて密な睫毛は眼福であった。ケイレブが俳優に向いているなんて撤回だ撤回、真に俳優に向いているのはこういう男であろう。
「いえいえ。それじゃ悪いです」
明石の前に置かれているのがコーヒーカップとケーキ皿であることを確かめてから小夜は言った。
「いいとか悪いとか、今日は考えないでよ。ほら、財布がいるんだからさ」
「本当に! 悪いので!」
必死に言いつのって小夜は店員を呼ぶと、明石がおすすめしていたコーヒーと紅茶味のシフォンケーキを素早く頼んだ。
「かしこまりました」
「追加いいかな。レトロプリンをひとつ」
そこでするりと口を挟んでくるのができる男の証である。思わず顔を見た小夜に再びウインクを送って明石は「それで」と切りだした。
「メールにあったお札だけど。見せてくれるかい?」
「あっはい」
一瞬、こんなにお洒落な店で怪しいお札を披露するのはいかがなものかという考えが頭をかすめたが、今日はその為に来たのである。学生カバンからお札を取り出して明石に差し出すと、彼はふう~んと言いながらそれを取り上げた。
「明石さんも」と、そこで小夜は声を潜めた。「超能力者だって聞きました。その力でなにかわかりませんか?」
「ケイレブから紹介されたんだっけ。じゃあ、僕の力については聞いてない感じだよね?」
「はい。まったく」
「うんうん、そうだろうと思ったよ。あの朴念仁がやりそうなことだ。あいつったら、絶対に面倒くさくて僕に押しつけたんだよ」
「……三千円も払ったのに」
思わず小夜がぼそりと言うと、明石は手を叩いて笑いだした。
「あいつにお金を払ったの? それってこの世で一番もったいないお金の使い方だよ。あいつときたら正直には話すけど、正しいことはなにひとつ話さないんだから。って、失礼。気分を悪くしないでくれ。君を笑ったんじゃないんだ」
「わかってます。もったいなかったなって自分でも思ってますから」