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 素子はその日、家に帰ることにした。


 なんだかスッキリしてしまったのだ。泣けるだけ泣いたからか、なにもかも打ち明けたのが良かったのか、探偵事務所を訪れる前のどんよりとした気分は今や綺麗に上を向いていた。行きは文字通り飛び出してきた家も、改めて見上げてみるとただの一戸建てにしか見えない。


 素子の家もその周囲に新しく建った家々も建て売りである。とはいっても、強引に敷地を分割して双子か三つ子のような家を建てたという感じではない。敷地は広々としていて駐車場も二台を停められる広い屋根付きであるし、庭もちゃんと確保されていて、その趣味があるならガーデニングや、簡単な畑だって作れるほどだ。東京にありがちな、狭小住宅がほとんどくっつくように並んでいるなんてこともなく、家々の住人はその開放的な空気に誘われるように、バーベキューだキャンプごっこだと休日のたびに道具を持ち出すのが常だった。


 購入前はきわめてにこやかだった不動産屋曰く、そういうプロジェクトだったのだそうだ。様々な設計士にデザインしてもらった家を並べて住宅展示場のようにし、それで人を集めて一気に売ってしまおうという計画で、実際にそれは上手くいった。不動産屋に行くたびに売約済みの文字とリボンで作った花飾りが増えていくのを見たから確かなことだ。


 素子の家はその中でも角地、ほかの家の倍はあろうかという敷地、そして黒に近いグレーをベースにしたナチュラルモダンの作りである。不動産屋に案内された時はここだけは無理だなと思ったものであるが、価格を見せてもらうと案外に手が届く範囲で――少し背伸びは必要だった――それで素子はこの家を検討リストに加えることにしたのである。


「買って良かった、のよね」


 藍色の空を支える扁平な屋根を見上げながら素子は呟いた。


 家に入ってみると案の定、とたりぱたりと音がしている。片方は金属を打つ音、もう片方は陶器を打つ音だったので――連日対応したおかげで今や水がどこで滴っているのかわかるようになってしまった――素子はまず玄関から近い洗面所へ向かってからキッチンへ向かい、思った通り落ちていた水滴をそれぞれ止めた。


 ひとつ息をついてから考えてみる。赤ん坊のことは思い込みに過ぎない。言われてみればそうだった。素子自身の目でなにかを見たわけではない。世に出ている記事はどれもその存在はともかく、死は否定している。あくまであの老女が『死んだ』と言っていた、それだけだ。周囲の家々に住む人からも赤ん坊の話なんて聞いたことがない。


 水のことにしてもそうだ。赤ん坊が水を求めているから水漏れが起こるというのは、もとを正せば老女の想像である。彼女の話があまりに真に迫っていたから素子も真に受けてしまって思考が流された――そう、それで説明がつく。そもそもの水漏れだって全部の可能性を潰してみたわけではなかった。探偵事務所の人が言っていたように、家が歪んでいるせいで不具合が起きているのだとすれば水道屋を呼んだところで無意味である――もっとも、それはそれで新たな問題が出てくるのだが。建て直しなんてことになったらどうすればいいのだろう。大工だか設計事務所だかが保証してくれるとは思うが不安である。


 今日のところは早く寝ようと素子は思った。気持ちは晴れたが、歩くのも面倒なくらい腰から下が重くて、たくさん泣いた目元が熱いし頭だって重い。すっかりすいてしまったお腹には手抜き料理で我慢してもらおう。


 パスタを電子レンジにかけてソファに座って――そこまでは憶えている。電子レンジで茹でると普通に茹でるより時間がかかるので携帯をいじっていることにした、のだろう。気づいてみれば素子はソファに横倒しになっていた。肘置きに捻じ込むように食い込んでいた肩が痛い。体勢を仰向けにして、座面に落ちていた携帯電話を取り上げる。時間を確認するともう夜中の二時を回っていた。


 起き上がって寝室に行くのも面倒である。それに放置してしまったパスタ、あれも始末をつけないといけないと思うとなおさら面倒であった。しかし、なにもかけずに寝落ちしていた体は芯から冷えている。冷え性なもので、足先など冷たすぎて痛いほどだ。


 どうしようかと悩みながら素子は携帯電話を弄ろうとし、その手が滑った。携帯電話は座面で一度跳ね、それから床に落ちていった。ああもう、と素子は苛立って頭を掻いた。全てが面倒くさいのに携帯電話を拾わねばならなくなってしまった。それすら面倒だっていうのに、私ときたら。


 仕方ない。携帯電話を拾って寝室へ行こう。パスタのことはまた明日考えればいい。そう決めた素子は体を転がして床に手を伸ばした。携帯電話が落ちている場所はその画面が放つ光でわかる。指で光の辺りを何度か掻いて、指先に堅いものが触れたと思ったらどうやら弾いてしまったらしい。光が視界から消えてしまって素子は再度言った。ああもう。


 面倒くさすぎて寝っ転がった体勢から身を乗り出してみると、ローテーブルの下に光はあった。こちらに背を向けて、反対にあるテレビのほうを照らしている。これはこの体勢からは取れないなあと思いつつ、なんとか指が届かないかと無駄な努力をしていたら目が合った。


 ――目が、あったのだ。


 それは携帯電話の光に下から照らされて、半球の下半分を白く光らせていた。目の下には当然のことだが睫毛が生えていて、さらに下にはなにか食んでいるように丸い頬、よだれを垂らした唇がある。むっちりとした、短いソーセージのような指。それがはっきりとカーペットを掻いて素子のほうへ近づこうとしていた。


 そう、指がカーペットを掻いている。そこにいる。幻でも夢を見ているのでもない。赤ん坊がそこにいて、素子をじっと見上げている。はいはいしている。


 あう、ああー。血色のいい唇が動いてそんな音を吐き出した。


 幻聴じゃない。これが嘘であるはずがない。だってそこにいる。でもあの人は。そう、フラミンゴ。あの変な名前の人。幽霊じゃないって。そう言ったはずだ。なにか原因があるはずって。だって。でも。こんなの嘘だ。嘘に違いない。嘘でないといけない。だって、赤ん坊が、今、すぐそこに――。


 ぺたりと触れられた感触は暖かくやわらかだった。粘り気のある水の感触がべったりと頬を伝う。絶叫、それ以外に素子にできることはなかった。


× × ×


都内の葡萄園が閉園 ファンら別れ惜しむ


 都内でアクアヴィテなどを運営するヤマサトは17日、東京都八王子市にある小出葡萄園をはじめとする葡萄園や畑を閉園、閉鎖することを発表した。産学連携プロジェクトの見直し、および生産拠点の整理により収益増を目指す。


 小出葡萄園の葡萄はその多くがワインに加工されていた。愛好家たちは東京ワインと呼んで親しんでいたが、このたびの閉園をもって同ワインも生産終了となる見通し。小出葡萄園では葡萄の収穫体験、葡萄棚の下で東京ワインを楽しむイベントなどが人気だったが、これらも今年かぎりで終了となり、ファンたちは別れを惜しんでいる。


                     ――日刊リードオフ 

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