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 家の中にいては頭がどうにかなってしまう。せめて日中だけでも水のことを考えずにいたい。さりとて仕事をこなさなければ生きていけない。イラストレーターの仕事と守秘義務はセットのようなものだから、作業を外へ持ち出してというのはできそうになかった。


 悩みながら調整した結果、日中は近くの公園へスケッチブックを持っていってラフ画やアイデアを描きためることになった。取引先との連絡は携帯電話があるので一応できる。ただ、即座に資料を確認してくれなんて要望には対応できないので、ノートパソコンの購入を検討していた。痛い出費ではあるが、そのパソコンでイラスト作業はしないのでスペックはそう必要ない。唯一の幸い、そう言って良いのかどうか、ここまで来るともはや素子にはわからなかった。


 どうやらおかしいのは自分のほうらしい。もっとも堪えたのはこれであった。これまで自身を常識人だと思ってきたのに、誰も彼もが素子のほうがおかしいように扱ってくる。素子は常識人の自覚を持つと同時に、また世間の常識を信じてもきた。常識というのはつまりこれまでの人生と同義だ。早晩覆すことなんて、少なくとも素子にはできなかった。世間が言うならそうなのだろう、飲み込めなかったが認識するしかなかった。それでも素子の現実はどこまでも世間様と相克する。


 せめて水漏れが水道屋の目の前で起こればいいのに。腹立ちを込めてザカザカと色鉛筆を動かしていたときのことだ。あのう、という声が自分に向けられたものだと素子は最初思わなかった。


「あのう、突然ごめんなさいね。あなた、アパートのとこの人じゃない?」


 顔を上げると、手編みと思われるセーターを着た老女が両手を杖に置いてこちらを見ていた。私ですか、と素子は仕草で答えた。


「ええ。あなた。間違ってたらごめんなさいね。アパートのところに越してきた人じゃないかと思って。お節介かとは思ったんだけど」

「どうも初めまして。うちの近所にアパートはありませんよ」


 老女の顔立ちを確認してから素子は頭を下げた。見たところ、嫌な顔つきはしていない。歳の取り方は顔に出ると言うが、老女はいかにも優しそうな口元をしていて、歳月に洗われた両眼は凪の海のように穏やかである。


「ああ、そうじゃないのよ。私ったら昔から説明下手で。アパートは今はないの。火事で焼けてしまったのよ。あなたがそのあとに建った家に住んでるんじゃないかと思って。それで声をかけたのよ」


「はあ」と素子は間抜けな声をあげた。家が建つ前に火事があった、そんな話は不動産屋から聞いていない。


「すみません。越してきたばかりで昔のことはわからなくて。火事ってどういうことでしょうか」

「アパートがね、燃えたのよ。それはもうすごい火事でね、夫が見に行ったんだけど、火の粉がそこら中を飛び回っていて、人がたくさん集まっていて、なにかのお祭りみたいだったそうよ。あら、ごめんなさいね。私ったら嫌な言い方をしてしまったかしら」


「いえ」と素子は答えた。家を焼かれた本人でもあるまいに、ニュースで時々みかける火事の現場映像をほんの少し脳裏に思い浮かべただけである。火事があった場所に住んでいるのだと言われたことに関しても、ふうんとしか思わなかった。


「その火事がどうかしたんですか」


 そこになって老女はためらいを見せた。いかにも言いにくいことがあると言わんばかりで、むしろその様子に興味を惹かれて素子は続きをせがんだ。老女は困ったように優しい笑みを浮かべている。


「いえ。でも。ごめんなさい。一方的に話しかけたのにこう言うのは変かもしれないけど。知らないほうが良いことって、この世にはあると思うの」


 いやそこまで言ってなによ、気になるじゃない、という言葉を呑み込んで素子は身を乗り出した。


「お願いします。聞かせてください。実は今、悩んでいることがあるんです。家のことなんですが、なんだか妙だなって思うことがあって」

「あら、そうなの。私でよければ話を聞くけれど」

「水漏れするんです。それも一個所じゃなくて。いろんなところからなんです。水道屋さんに何度来てもらっても直らなくって。しかもおかしいところなんてないって言われるんですよ。なにかおかしいって思ってたんですけど、なにがおかしいのか私にはわからなくて」


 そう、と老女は言ってゆっくりとした動きで空を見た。瞼をぱちぱちさせて必死にこみ上げるものをこらえている、そういう仕草だった。


「そうなのねえ。可哀想に。お水が欲しかったのねえ」

「可哀想? 誰が可哀想なんです?」

「実はねえ、あのアパートの火事で亡くなった子がいたの。まだ赤ちゃんでね。親御さんもいろいろあったのかもしれないけど、一人きりで留守番させてるところに火事が起こって。住民同士、助け合って逃げたって言うけど、赤ちゃんがいるなんて誰も思わないじゃない」


「じゃあ、誰にも見つけてもらえないまま?」

「そうなのよ。苦しかったでしょうねえ。お水が欲しかったんでしょうねえ。私ね、火事のあとからずっとお花やお菓子を供えに行っていたの。そうしたら、工事の人に迷惑だって怒られてしまって。それで思ったのね。ああ、この人たちは赤ちゃんのことをなかったことにするつもりなんだって。あなた、このことを知らなかったでしょう?」

「ええ。火事があったということ自体、今初めて知りました。その上――」


 言いかけて素子は口を押さえた。なにかが胃の中で沸騰して、喉を突き上げてきたように思った。吐き気がした、素子の頭はそう判断したが真実はわからない。もしかすると叫び声が飛び出そうになったのかもしれなかった。


「不動産屋さんかどこかにちゃんと確認したほうがいいわ。だって人様が、しかも赤ちゃんがなくなった場所の上で暮らすなんてとんでもないことでしょう?」


 親切そうな老女が立ち去るまで、素子は口を押さえてほとんど声を発せなかった。そうしていなければなにが飛び出るか自分でもわからなかった。


 ――赤ん坊。


 頭の中で呟いてみると動悸すらしてくるようで、いてもたってもいられず素子は家へ飛んで帰った。またどこかで水の音がしているように思ったが、この時だけは全てを凌駕する怒りが全身を支配していた。弁護士に連絡した時と同じく、もしかするとそれより激しい勢いだったかもしれない。素子は不動産屋に連絡するなり怒鳴りつけた。


「どういうことですか! ここ、事故物件だったんですか!」


 しばらく電話を取った若そうなのとああだこうだやり合ったが話がつかず、向こうからの申し出で担当者という人と話すことになった。担当者は迷惑そうに言った。


「あのですねえ、うちも迷惑してるんですよ。変な噂をする人がいて」


 カッと来ているところに油をぶちまけられた気分になって素子は怒鳴った。


「噂!? そんなことないでしょ! 隠さないでよ!」

「奥さん、落ち着いてください。あのね、そこで火事があったのは事実です。だけど、事故物件だなんてそんな。私も聞いた話なんですけどね、消火活動と火事のダメージでアパートが住めなくなってしまったそうなんです。そこでアパートを取り壊して。更地にして。土地だけを売りに出した。それをうちが買い上げて家を建てた。それだけなんです。もし本当に事故物件だったとしたら、うちだって手を出していませんよ」


「だって、赤ん坊が死んだんでしょ!?」

「いやですから、そんな事実はないんですって。嘘だと思うなら新聞を調べてみてください。記事になったって聞いてますから。時期はええと、いつだったかなあ。ともかくそこの住所と火事をキーワードにネット検索してみたらいいですよ。うちが嘘を言ってないことはそこに書いてありますんで」


 ほとんど言い捨てるようにして担当者は電話を切った。呆然と素子は立ち尽くして、それからどうしようと思った。どうしよう、赤ん坊なんて。


 ネットで検索してみると、たしかに火事はあったようだった。しかし、書いてあるのは高齢男性が軽傷を負ったことばかりである。死者が出たとは、赤ん坊がいたとは、どこにも書いていなかった。そんなはずはないとブログの端まで読みあさり、図書館にまで行って過去の新聞記事を読んでみたが結果は同じだ。世間は、ここでも素子を裏切るようだった。


 不動産屋もネットニュースも新聞記事も、誰もがおかしいのは素子のほうだと言っていた。けれど、本当にそうだろうか。世間のほうがなにか隠し事をしていて、それを知られると都合が悪い為に素子を悪者に仕立てているのではないだろうか。


 いつの間にか、素子の頭の中にはあるイメージが棲みついていた。誰にも知られず死んだ赤ん坊、それが水を求めて徘徊している。手に取るようにわかる、赤ん坊はまだ生まれて間もなくて、なにがあったのかもわかっていない。熱い。喉が渇いた。ただそれだけの、本能に似た一念に突き動かされて這っている。素子の家を、かつての家だと信じて徘徊している。

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