目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

3

 もっとも、新生活に瑕瑾が一切なかったと言えば、それは嘘になる。ひとつだけ、気になることがあった。新築の家を購入したというのに、なぜだか水漏れがひどいのである。


 台所の蛇口も、風呂場の蛇口やシャワーヘッドも、気づけばポタポタと水滴を落としている。まさかパッキンが早々に劣化したなんてことはないだろうし、もしや水道屋が手抜き工事でもしたのだろうか。そう思ってそれとなく不動産屋に探りの電話をかけてみると、工事を手がけたのは地元でも有名な会社だということだった。教えてもらった社名をネットで検索してみると、信頼の置ける会社だとかサービスしてくれただとか、好意的な口コミばかりが引っかかってくる。とりあえず様子を見てみようと考えて、自分にできることとして水栓をきちんと閉めたかどうかよく確認してみることにした。


 ところが、それでも水漏れは収まらなかった。部材のちょっとした噛み合わせが問題になって水が漏れることがある、水栓を何度か開け閉めしたら上手く噛みあって水が止まるようになる、とネットにあったので試してみたがどうにもならない。どころか、最初はぴたんぴたんと水滴が落ちるばかりだったのが、ちょろちょろと細い水の流れができるほどになってしまい、これはもう仕方ないと諦めて素子は不動産屋を通じてくだんの水道屋に連絡した。


 水道屋はすぐに飛んできた。すみませんを連呼する作業着の男に、直してくれればそれでいいですからと素子は優しく聞こえるよう気をつけながら声をかけた。実際にそれは心からの言葉だったし、引き渡し直後に呼びつけたことを申し訳なく思う気持ちもあって、事前に缶コーヒーを買って感謝を伝える準備までしていたほどだ。


 ところがである。家中をひととおり巡った水道屋は首を傾げながら言ったのだ。


「悪いところはありませんね。パッキンの劣化やずれもありませんでした」

「でも、本当にひどいんですよ。この前も水道を閉めた直後に水滴が落ちて。例えば配管の直径が違うとかいうことはないんですか」

「ううーん。それでパイプから水漏れってことならわかりますよ。でも、あくまで蛇口からでしょう? いろいろ可能性も考えましてね、分解清掃までしてみたんですが。すみません、これ以上できることは何もなくて」


 素子があからさまに不満そうな顔をしたからだろう、水道屋はまたすみませんを繰り返してから帰りしなにこう言い置いた。


「とりあえず様子を見てください。なにかありましたら、またお申し付けくださいね」


 悪いところがないなんてと素子は困り果てたが、専門家の言うことである。なにもできないと言われてしまえば、そうですかと答えるしかない。出張料を取られなかっただけ良しとするほかなかった。


 ところがその夜のことである。寝室にしている二階の八畳間で寝ていた素子はふと目を覚ました。寝起きのぼうっとした頭で天井を見上げて、どうして目が覚めたのか考えてみてもよくわからなかった。悪い夢を見たわけではない。大きな声や物音がするわけでもない。枕元の携帯電話で時刻を見れば2時15分、ほとんど寝入りばなである。


 ため息をついて寝返りを打ち、そこで素子は気がついた。なにか、さーさーという音がするのである。枕に片耳をつけて体を静止させて、ようやく気づくほどの小さな音だ。耳鳴りではない。音はもっと低くて、例えるなら手で耳を押さえたときに聞こえる音、あのハウリングなのだか手を流れる血の音が聞こえているのだかわからない音によく似ていた。でなければ何年か前まで使っていたアナログテレビの砂嵐の音――そこまで連想して素子は急に不安に駆られた。


 怖い怪談を思い出したのだ。深夜2時22分22秒、テレビの砂嵐を見ているといきなり画面が真っ黒になって血文字で書かれた人の名前が流れ始める。テロップにはこれまでの犠牲者と出ていて、調べてみると本当にその人が死んでいることがわかる。名前が流れるのを最後まで見ると、突然画面に人の顔のようなものが出て『次はお前だ』と言うのだそうだ。


 そのあとはどうなるのだったか。テレビの中に引き込まれるのか、数日以内に死ぬのだったか。どちらにしても子供が好きそうな話である。素子は小さく笑ってみたが、明らかにそれは強がりだった。


 さーさーという小さな音は相変わらず続いていた。耳元で聞こえているのではない。どこか遠くのほう、おそらく寝室とほとんど変わらない高さのところから聞こえている。聞かずにおこうと目を強く瞑ってみても駄目だった。思えば思うほど意識してしまう。


 きっと二階のミニキッチンが水漏れを起こしてるんだ、素子は思った。ドアや壁越しに聞いているから音がくぐもって砂嵐みたいに聞こえるのよ。きっとそうよ。


 放っておいたら水が溢れてしまうかもしれない。そうしたら一階が水浸しになって、またぞろ不動産屋に連絡して、今度は内装屋か建具屋を呼ぶ羽目になるだろう。新しく買った家具だって駄目になるかもしれないし、そこまで言い訳を連ねてから素子は体を起こした。カーディガンを肩にかけながら扉を開け、そっと左右を伺ってから廊下に出る。扉を潜った途端にやはりさーさーという音は明らかな流水音に変わった。なんだと思った。やっぱり水が漏れてるだけじゃない。


 そう思うと腹立たしくなってきて、素子は乱暴にミニキッチンへ踏み入り――拍子抜けして思わず蛇口の上のレバーハンドルを上下させてしまった。上げると水が出る、下げると止まる。当然のことではある。下げたまましばらく観察してみたが、水滴も水流も落ちる様子がない。


 はて、と耳をすましてみると水音はまだ続いていた。あとはどんな可能性があるだろう。回らない頭で考えてみて、素子はハッとしてトイレに駆け込んだ。見ればタンクの上についた蛇口からすごい勢いで水が流れ落ちていた。止めようにも止め方がわからない。試しにタンク横のレバーを操作すると、タンクの中からカタカタと聞いたことのない音が聞こえた。便器の中を覗いてみると、明らかに水が流れ続けている。


 トイレの直し方なんて知らない。どうしよう、二十四時間の水道屋は料金がすごく高いんだっけ。ほかになにか方法は――そうだ、携帯。


 寝室へ走って戻って携帯電話で調べてみると、またパッキンの四文字である。素子は思わず携帯電話をベッドに投げつけて頭を抱えた。ともかく、蛇口からの水を止めないことにはどうにもならない。トイレ、蛇口、止め方で調べると配管のネジで止められるとあったので、深夜にマイナスドライバーの代わりになるものを探して部屋をひっくり返す羽目になり、散々探して包丁しかないかとキッチンで立ちすくんだとき、十円玉でも回るんじゃないかと気づいた。もう脱力である。


 そうして迎えた翌日、気持ちのいい朝でなかったことは言うまでもない。ドタマに来たとはこのことに違いなく、その勢いのまま素子は水道屋を呼びつけた。


「どこにも異常はありませんね」


 そうして言われたことは前日の再現である。


「そんなわけないでしょ。パッキンよ、絶対パッキンが壊れてるのよ」


 さすがに低い声が出た。だって、現に昨晩は水が流れ続けて止まらなかったのだ。おかげで二階のトイレは封鎖中である。


「そう仰いましても。確認しましたが新品同然でしたよ」

「じゃあ、これは。現に水が流れ続けてたんですよ。どう説明するの」


「レバーを下ろし忘れたとか」と言いかけて、水道屋はすぐに言葉を呑んだ。睨みつける素子を見てちらりと嫌そうな顔をして、思い直したように強ばった笑みを浮かべる。


「それではボールタップを少し曲げておきましょうか」

「ボールタップってなんですか」

「水量を調節する部品と言いますか、水を一定のところで止める部品と言いますか。これを曲げておくと、より少ない水量で流水が止まるようになるんです。あ、でも、タンクから水が溢れたわけじゃありませんでしたね、すみません」

「よくなるならなんでもいいです。やってください」


 水道屋はぺこりと一礼してから一応はあれこれやっていたが、最後に言ったことは前日とまったく同じだった。様子を見ろ、それだけである。様子を見た結果がこれなんだけど、と叫びたいのを我慢して素子はなんとか礼を口にした。


 水漏れはひどくなるばかりであった。仕舞いにはキッチンで閉めると洗面台でぴちょん、洗面台を閉めると風呂場でぴちょん、もしやと思って庭の水道を見に行ってみると当然のようにぴちょんぴちょんと水滴が落ちていることが日常と化してしまい、素子は頭を抱えた。


 水道屋には不動産屋を通じて何度も連絡している。が、向こうにはそれが悪いように見えるらしく、数週間もすればすっかりクレーマー扱いをされるようになってしまった。ネットで調べた別の水道屋にお願いしてみても結果は変わらない。一度など二十歳そこそこの若いのに「こぉんな新築で水漏れなんかないっすよ~」と笑われてしまった。挙げ句の果てには水音の幻聴が聞こえるようになり、一日の大半を蛇口と仕事部屋の行き来に費やすようにさえなって、素子はもう駄目だと思った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?