結局、元夫は最後までなにも知らなかったのだと思うと可笑しくてならず、素子は仕事机の下に潜り込んでパソコンの配線を繋ぎながらにやついた。
結婚前に素子がどんな仕事をしていたか、不倫に勤しむ間に忘れてしまったのだろうか。元夫は最後までレジ打ちだの非正規だのと並べ立てて素子を脅してきた。まったく、不倫をすると頭が悪くなるとはよく言ったものである。それで素子がやっぱり離婚なんかしたくない、あなたがいないと生きていけない、とすがってくるとでも思ったのだろうか。それとも、偉大な俺様に生意気にも反抗してきた女に現実――現実! 器も肝もごま粒ほどに小さい上に常識も良識も備わってない男の現実!――を教えてやろうと思ったのか。
そもそもからして、素子はなりたくて専業主婦になったのではない。絵を仕事にしたくて数十社にポートフォリオを提出し、ようやく入社できたデザイン事務所を誰が好き好んで辞めるというのか。辞めることになったのは元夫と義母のせいだ。
顔合わせの時に義母は言った。
「あらあ、お仕事をしてらっしゃるのぉ!」
女が仕事をするのは悪いことだと言わんばかりであった。その時は愛想笑いで受け流したのだが、結婚式の後にまた義母は言った。今後は旦那様のお世話をきっちりするんですよ、手抜きなんかしたら私が許しませんからね、と。それも頑張りますの一言で素子はかわしたが義母は諦めなかった。素子が家にいる週末を狙ってやってきては、やれ掃除が行き届いてない、タオルのたたみ方が違う、我が家の味はこうじゃない、夫に家事を手伝わせるなんてあなたには感謝が足りない、とまくしたてたのだ。
辟易した素子が義母をなんとかしてくれと元夫に訴えたところ、彼は携帯電話のゲーム画面から目を離さないまま言った。
「前から言おうと思ってたんだけどさ。実はお前には専業主婦やってほしくて。やっぱ誰かが家を守るべきなんだよ。俺とお前ととじゃ、俺の方が収入は多いし。だったら、お前が家事するべきだろ?」
こうして義母と元夫に押し切られる形で素子は仕事を辞めることになった。
離婚に際して不安がなかったのは、なんのことはない、そうして辞めさせられた仕事を再開しただけのことだ。元夫の不倫が確実になった翌日、素子はかつて勤めていたデザイン事務所の社長にメールを打った。かくかくしかじか、ついては仕事を回してほしい。
本音を言うと、戻って正社員になりたかった。が、そうすると素子の仕事復帰が早々に明るみに出る。なぜ復帰したか、当然責められるだろうし問題にもなるだろう。話の成り行きによっては、離婚準備のことが夫や義実家に察知される可能性さえあった。そんな危ない橋は渡れないし、またぞろ義母に怒鳴り込まれるのも面倒くさい――余談ではあるが、最後の話し合いの席で義母はブチ切れていた。不倫するのは男の甲斐性、女の価値はそれを許すかどうかで決まる、というのが甲高い罵声の中からなんとか拾い上げた彼女の主張である。素子は思わず、さすがババアは価値基準からしてカビくさいんですねえ、と言ってしまって弁護士にたしなめられた。
デザイン事務所の社長はとても親身になってくれた。最初は簡単な仕事で様子見しながらだったが、それでも途切れることがないよう案件を回してくれたし、ずいぶんと人も紹介してもらった。幸いなことに夫は徹夜だ残業だと言って家に帰ってこなかったので、素子はそれらしく見えるようにだけ家事をこなし、残りの時間は全て仕事に注ぎ込んだ。
素子の必死さがイラストに現われたのかどうかは知れないが、仕事はゆっくりとだが確実に増えていった。素子のデザインに惹かれてという依頼者がちらほら現われるようになり、そうするとイラスト一枚あたりの単価が上がっていった。納期と修正依頼がかぶってしまって、しかもそんなときにかぎって夫が家でゴロゴロしていてつらい時もあったが、そんな時にはかつての母の言葉を思い出した。
――あのね、もとちゃん。芸術の神様は努力したからといって微笑んでくれるわけじゃないの。でも、努力しなければ絶対に微笑んでくれないのよ。いい? 神様に微笑んでもらう為には努力し続けるしかないの。なにがあっても努力し続けること。それが人間に許された唯一の抵抗なのよ。
頑張れ頑張れ頑張れ。折れてしまいそうになる心を何度もそうやって鼓舞した。依頼が増えて単価が上がっても、それなりの生活水準を望むにはまだ足りなかった。
仕事道具はそのまま持っていくからいいのだ。しかし、夫と浮気相手の指紋や、ひょっとすると体液までもがついているかもしれない家具家電は絶対に持っていきたくなかった。その上に家まで確保しなければならないとなると、予想される初期費用は大変な金額である。しかし、用立てるのは簡単なことではない。なにせ素子はフリーランスのイラストレーターなのである。まともなところでお金を借りるのは難しかろうし、家だって賃貸のオーナーには敬遠されるだろう。とすると、家具家電に一戸建てかマンションかを現金一括で購入するか、実績を積んでそれなりの収入を継続的に得ている証明をしてローンを組むか、ふたつにひとつであった。
いくらあっても足りないお金がなんとか目標額に近づいてきたのが不倫が発覚してから四年目の頭のこと、気づけば素子は三十二歳になっていた。元夫と浮気相手の動向だけが心配だったが――不倫の時効はされた側が気づいてから三年なのだ――馬鹿どもはなんにも気づかずホテルに旅行にとお楽しみを続行していた。そこで改めて素子は探偵に調査を依頼し、結果を見て爆発した。浮気相手が元夫の子どもを孕んでいることが判明したからである。
目標にあと少し足りない貯金額など、その事実の前ではどうでも良いことに思えた。臨月の腹を嬉しそうに撫でる元夫、退院してきた赤ん坊を出迎える元夫、ベビーカーを押す浮気相手と満面の笑みで赤ん坊を抱いている元夫。全てが許しがたく、素子は即座にかねてから相談していた弁護士に電話をかけた。
おかげで晴れの船出は少々苦しいものとなったが、まあ、今のところ仕事は右肩上がりである。取引先とは良好な関係を築けているし、新しく声がかかることも新しい仕事先を紹介されることもそれなりの頻度であって、実績だって着実に積み上がっていた。左うちわとまではいかないが、女ひとりが生活していくには十分である。
配線を終わらせてから腰を伸ばし、素子は新しい仕事環境を一歩引いて見てみた。
予算の都合でほかのものは多少ランクを落とさざるをえなかったが、仕事部屋に置くものだけは一切の妥協をしなかった。毎日数十時間を過ごす部屋である。それなりの快適性と利便性があるべきだと考えたのだ。真新しい硝子天板の机、有名メーカーのアーロンチェア、タブレットはそれまで使っていたペンタイプから二年前に発売されたばかりの大型液晶タイプに変更したし、パソコンだって最新ゲームを動かせるようなものを新たに組んだ。
ここにあるものは全てが素子の好むものだ。望んで、自らの力で手に入れたものだ。腹の奥でぐらぐらと実感が煮立つようだった。私は本当に自由になったのだ。新築の、まだ誰の色にも染められていない家の香りを胸いっぱいに吸い込んで素子は笑った。かつての自分、まだ不倫を知らなかった頃の、夫や義実家と上手くやっていこうと苦心していた頃の自分に言ってやりたかった。
くだらない人たちに噛みあう歯車になろうなんて、そんな馬鹿なことはおやめなさい。あなたは自分をすり減らさなくていいの。あなたはひとりでも生きていける。そのすべをちゃんと持ってる。誰かに頼らなくても、息を潜めなくても、ほら、ちゃんと息ができるのよ。
素子は鼻歌を歌いながら新しい部屋や家具を確認してまわった。気分は晴れ晴れとしていて、白い壁が今にもぱかんと外側に倒れてサウンド・オブ・ミュージックみたいな大草原が現われるのではないかとすら思うほどだった。かつてのマンションや弁護士事務所で浴びせられた言葉など、もはや古い歌のうろ覚えの一節みたいなものである。一生忘れないと思っていたあの衝撃――赤ん坊と夫が写った写真を見たときの怒りでさえ、ただの懐かしい情景として取り出すことができるほどだった。
きっと全てが上手くいく。明日は絶対に今日よりいい日。若い頃の全能感が蘇ったような気さえして、素子はこの新しい日々を全力で楽しんだ。