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 フラミンゴは表情筋を総動員して笑顔を作り続けていた。


 依頼にやってきたご婦人はぽろぽろと涙をこぼしながら三度目の離婚話を語り終えたところである。ご婦人が三回の離婚を経験したのではない。ご婦人が夫に離婚を告げた時のことを語るのがこれで三回目という意味だ。

 夫に出会った時のこと、告白された時のこと、初めてのデートやプロポーズでのこと、顔合わせ、結婚式、二人で笑い合いながら婚姻届に判をついたこと、それからの生活と夫の悪癖について、徐々に夫が見せた本性とその合間に見え隠れした女の影、探偵や弁護士の力を借りながら念入りに準備したこと、それから子供じみた夫との最終対決について――言葉の端々や表現に多少の変化はあれども結論はまったく同じである。


 夫と離婚して新しい生活を始めることにした。


 しかし、話はちっともその先に進まなかった。依頼内容ですら、来所してすぐに書いてもらった依頼書の『家のことで相談したいです』以上のことはわかっていない。その家というのは離婚後にご婦人が購入したものだということだけは話の流れからなんとなく察したが、そこを察せねばならなかったくらいには、話は前進の兆しを見せなかった。


 二度目のループが始まった時にフラミンゴが渡したティッシュケースを大事そうに抱えて、ご婦人はすんっと洟をすすりながら言った。


「私があんな言葉を信じたから。俺も子どもは嫌いだよなんて。まったく! 全然! 嘘だったのに!」


 三度目になる後悔を聞きながらフラミンゴは考えた。今後は相談料を取るべきだな。占い師の相場が三十分三千円から、弁護士なら一時間一万円くらいだと聞いたことがある。資格といったら自動車免許しか持たない自分なら弁護士よりは安い方がいいだろう。技術はあるつもりなので同じように技術を売っている占い師と同じくらいがいいだろうか。いや、場所代を考えるともう少し貰わないと割に合わないかもしれないな。


 夫に離婚話をした当時は泣かなかったらしいのに、今になって実感が湧いてきたのだろうか。ご婦人は声をあげて泣きながらティッシュを数枚むしった。ちんっと洟をかんだその手で目元を押さえるようにして拭う。もはや自分がなにをしているのかも理解していないに違いなかった。


 ぼやけたアイラインを眺めながら、フラミンゴは顔を洗ってくるよう勧めるかどうか迷った。こちらは男、あちらは女である。親切心から言ったとしても、ご婦人がセクハラだと思えばそれはセクハラなのだ。顔を洗えというのはすなわち素顔をさらせということで、仕事にかかりきりで恋愛らしい恋愛をしてこなかったフラミンゴにとってこれは難問であった。


 もっとも、素顔も綺麗だろうなとは思う。


 依頼書には三十二歳と書かれていたが、黙っていれば二十代で通じそうな顔立ちだ。女性らしいふっくらした輪郭にやや下がり気味の目尻、逆に口の端はやや上がり気味で、そのせいもあって自然にしていても優しく微笑んでいるように見える。二の腕の半ばまである髪は、濃い栗色のベースに明るいクリーム色を細く幾重にも流したようになっていて、いかにも腕利きの美容師によって染められたといった印象だった。着ているものは彼女を招き入れた時にちらりとタグを読んだかぎりでは――覗いたのでは断じてない――安価で知られた大量生産品だ。といっても、その中でもお高めのラインである上に本人のセンスがいいらしく、ぱっと見たかぎりではブランド品で身を固めているようにしか見えない。


 要するに表参道だの銀座だの歩いていても違和感がない女性ではあるのだが、しかしこれだけ泣いて化粧を崩していてはそれも台無しである。別段、フラミンゴ自身は化粧が崩れていようとなんとも思わないのだが、本人がそれに気付いた時のことを想像するとなんだか気の毒な気がした。


「大丈夫ですか?」とフラミンゴは尋ねてみた。ご婦人は洟をすするのと涙を押さえるので忙しいらしく、うんでもなければすんでもない。彼女が大量のティッシュを握り込んでいるのを見て、フラミンゴはそっとくずかごを押しやった。音で気づいたらしいご婦人が、ピンポン球より大きくなったティッシュのかたまりを捨てる。


「ありがとうございます。とにかく、それで離婚をしまして」

「ええ、慰謝料も問題なく振り込まれたんですよね」

「思えば、男なんか信じたのがいけなかったんです」


 フラミンゴも男なのだが、その辺りは考慮されてないらしい。ご婦人は肩を震わせながら手元に残したティッシュでまた目頭を押さえた。


「出会った当時の夫は優しくて。私をよく気にかけてくれましたし、あれこれと気を回してもくれました。私の言い分もしっかり聞いてくれて。それまでの自分勝手な彼氏とは違うと思ったんです。彼なら私と二人きりで生きてくれるって」

「ええと」と言いながら、フラミンゴは依頼書を確かめた。「柴家しばいえさん、その元ご主人とまたトラブルになったとか、そういったお話でしょうか」

「あの人は臆病だから。離婚届を書いた後は電話一本よこしませんでした。むしろお義母さんの方がひどくて。明け方の五時にメールを送ってきたりするんですよ。それも二十件近く」

「では、そのお母様とトラブルに?」

「いいえ。最後に弁護士さんの事務所で話し合った時、接近も連絡も禁止すると盛り込んでもらいましたから。弁護士さんを通じて、これ以上続くようなら取り決めた通り違約金を払ってもらうと伝えましたらぱったりと」

「奥様。私どもは探偵事務所を営んでおりまして」


 念の為にフラミンゴは言った。


「運命って残酷って言いますけど、本当ですね」


 返ってきたのはとんちんかんな言葉である。はたしてご婦人に己の存在は認識されているのか、フラミンゴは真剣に考察してみたくなってきた。


「巡り合わせというのはいろいろですよ。それで柴家さん、ご依頼についてなのですが」

「そのいろいろな中から、私ったら最悪のものを引き当てるんです。昔からそう」

「悪いばかりの人生なんてありませんよ。これから良くなればいいんです。ぜひ私どもにそのお手伝いをさせてください。つきましては、まずお話し頂きたいのですが」


 ご婦人はきょとんと目を瞠った。化粧の縒れたその顔には、まるで『私いっぱい話しましたけど?』との文字が墨痕鮮やかに書いてあるようだ。力強い落款まで見えた気がしてフラミンゴは思わず眉間を揉みほぐした。


「ええと、申し訳ありません。お話は伺いましたが」


 たくさんの部分に力が入ってしまったのは責められることではないと思う。


「ご記入頂いた依頼書には『家』と書かれていますね。こちらはいったい?」

「私、話しませんでしたっけ?」


 ええとも話しませんでしたとも、と言いたいのをこらえてフラミンゴは笑顔の維持に努めた。


「離婚されたあとにこちらは賃貸? それともご購入なさったのですか?」

「買いました。東京にも安い家ってあるんですね。上物はそこそこしたんですけど、とにかく土地がびっくりするほど安くて。角地なので北と西が道路に面しているんですが、北はうちと同時期に建った家専用の通路みたいなものでほとんど誰も通りませんし、西は古くからの住宅街に通じている道なんですけど、住宅街から駅方面に出るには東にずっと行ったところの道が便利らしくて、こちらもたいして使われていません。東と南はうちと同じような建て売りが数軒あるだけ。ちゃんと不動産屋さんに確認したんですけど、小さいお子さんがいるご家庭はほとんど入る予定じゃなくて。それでこの安さならってことで購入したんです」


「しかし、問題が起こったというわけですね」

「問題……いえ、問題といいますか」ご婦人はもごもごと言った。「正直に申し上げて、私にはもうわけがわからないんです。水音が止まらない。それだけといえばそれだけなんです。どう説明したらわかって頂けるのか、そこからわからないんですけど」

「話しやすいところからで構いません。聞かせて頂けますか」

「私、今はイラストレーターをやっています。名義は本名のまま、柴家素子です。ペンネームも考えたんですけど、なんだか違う気がして。今になってみると、誰かに見せつけたかったのかもしれません。私はちゃんとやってるぞって。それが誰かと言われるとわからないんですけど――少なくとも元夫ではありませんね」

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