何度も、何度も願った事がある。
誰もが願いそうな、単純で純粋、温かな願いとは真逆の願い。それは生きている事を否定する願いだ。
そして時に、その言葉を発するだけで精神が安定し、生きる事にやや前を向けたりする事もある。
――死にたい。
あなただって、気がついたら言っているでしょう。最近では不満や失敗したと思ったら口に出されてしまう、軽い言葉になったものだ。
失敗したら「死にたい」
恥ずかしくて「死にたい」
全てが嫌になって「死にたい」
様々な意味で、この言葉は今日も何処かで呟かれている。
今を生きている人間が生まれる前の遠い時代には、血を流して死ぬことが美学だった事もあった。
昔にそんな事があったのだから「そんな事は言ったらいけない」と強く強く叱られ、生きる事を全うする事に集中しろと言う人もいるが、それだって綺麗事の時がある。
「死」とは人間にとって最終地点であり、最終手段である。
どん詰まり、生きているのがしんどくなって命を絶つ奴はごまんと居る。まあそう思った所で、残念ながら人間はちょっとやそっとでは死ねやしない。
死にたいと思い、願い続ける人間には痛い程わわかる。
眠れば嫌でも朝が来る。生きてる証明に、朝日が眩しく刺し、寝ぼけ眼に不快感を与えてくるのだ。
ああ、今日も生きている。生まれてから何日目の朝かもわからない朝を。
誰か、死に方を教えて欲しい。
寿命や病死、自殺は試した。
なんでもいい。なんでもいいから、この心臓を止めてくれやしませんか。