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乙女侯爵とバラの園(1)

 よく分からないうちに借金問題が解決した。

 未だに呆然としているハインツは昨日の記憶が半分ない。なんか、一生分疲れた。


 大きなベッドの上、手触りのいいシルクのパジャマを着たハインツは上半身を起こしたまま呆けている。

 窓からは朝の爽やかな陽光が入り込み、鳥が美しい囀りを聞かせてくれる。心洗われる素敵な朝だ。


 そこに、ノックの音が響いた。


「失礼します、ハインツ様」


 カートを押して入ってきたのは二十代前半の、黒髪の青年だった。

 やや長めのショートに丸っぽい茶色の瞳。左の目尻にホクロのある細身の青年だ。

 ※彼も身長一七〇センチ前半で、決して小さくも細くもない。


「カミル」

「おはようございます、ハインツ様。昨日は眠れましたか?」

「あぁ……うん」


 本当はいつ眠ったのかすら覚えていないけれどね。


 この青年はカミル。ケンプフェルト家に唯一残った従者であり、ハインツとは幼馴染みのようなもの。

 元々彼の両親が仕えてくれていたこともあり、よくしてもらっている。今回の一件で家令は皆逃げてしまったが、彼だけは残ってくれた。


 カートに朝の準備用のあれこれがある。洗面器に水が張られ、カミルが指を鳴らすと瞬時に程よいぬるま湯になる。これが彼の持つ魔法だ。


 この世界には魔法が存在しているが、能力を持っているか、どのような属性と系統かは教会の儀式でしか分からない。また、魔法の力を全く持たない人も多くいる。

 カミルは火魔法が使える。中位程度までだが十分だ。


 顔を洗うとサッパリとする。手渡されたタオルで拭き上げ、化粧水とクリームも塗る。髪も綺麗に整えた。


「今日も大変素敵です」

「えへへ、ありがとうカミル」


 昔から一番の理解者であると同時に、ハインツの全てを肯定してくれる彼は無二の親友であった。


「朝食はいかが致しましょうか?」

「そうだね。先に花の水やりとかしたいから、もう少しゆっくりでいいよ」

「畏まりました」


 礼を取って出て行くカミルを見送り、ハインツは汚れてもいい格好をする。茶色のズボンに綿麻のチュニック。

 これで向かうのはタウンハウスの裏庭だ。


 王家タウンハウスの裏は昔からハインツの自由な場所だった。世話をしている花壇、植え込みのバラ、丁寧に世話された樹木は日の光を浴びてキラキラと輝いている。


「わぁぁ、可愛く咲いたねアンジェリカちゃん! 濃いピンク色のドレスを着ているみたいで素敵だよ。エーデルワイスちゃんは純白のお花が清楚で素敵だよ」


 手入れしているバラが美しく咲いている。小さなピンク色の花を沢山つけるアンジェリカと、中程度の白い花を咲かせるエーデルワイス。この清楚な白いバラは母が好きだったんだよな。


 丁寧に水をあげ、混んでしまっている花は申し訳ないけれど間引きしなければならない。特別な可愛らしいバスケットを持ってきて、落としてしまった花をそこへと丁寧に入れていく。


「うぅ、ごめんねぇ。痛いよね? でも、間引きをしないと次のお花が綺麗に咲かないし、蒸れて病気の原因にもなるから」


 こうして刈り取ってしまったお花は可哀想だから、他の事に使う事にしている。それなりの量があるんだ。


 籠一杯になったバラを持って数度倉庫へと運び込む。そこは手入れに必要な道具を置く場所であると同時に、ハインツの密かな工房となっている。


 こんなに厳つい顔面と巨体であるにも関わらず、ハインツの趣味は淑女も恥じらう乙女なものばかりだ。

 ここでは主に花や草を使った作業をしている。季節の花を使ったリースは勿論、寄せ植えを作ったりもする。


 今日は中央に置かれた木製の長机の上に蒸留用の釜を置いて、そこに水と一緒に綺麗に汚れを落としたバラの花びらを丁寧にガクから外して入れていく。

 この時点で既にとてもいい匂いがしている。一呼吸吸い込んだ後は釜を密閉し、長い管の先に瓶を置いて準備は完了。


 釜を熱するとバラのエッセンスを含んだ水が蒸発していく。それは細い硝子の管を通って徐々に冷やされ、置かれた瓶へと水滴となって溜まり始めた。


「沢山は取れないけれど、捨ててしまうのは勿体ないからね」


 これをジッと、微笑みながら見つめている時間が幸せだ。

 すると戸口に影がさして、バスケットを持ったカミルが苦笑して近付いてきた。


「やっぱり、庭の手入れをしたまま作業してましたね」

「わぁぁ! そうだった、朝ご飯! ごめん、カミル」

「いつもの事ではありませんか」


 笑うカミルもまた、蒸留用の釜を見つめている。下から炎の魔石を使ったランプで炙っているのでけっこう時間がかかる。


「今回はどのようなお花のオイルですか?」

「えっとね。ブルームーンとボレロ、それにアンジェリカかな。アンジェリカはあまり香りは強くないけれどこの季節は沢山咲くから、ポプリにしてもちょっと多いんだ」


 長身ガチムチ男が優しげな微笑みを浮かべてそのような事を言う姿はやや違和感が……いや、一周回って農家のおじさんみたいな雰囲気がある。


 徐々に花の香りが強くなる倉庫では食事の味が分からなくなる。

 手を綺麗に洗った後で二人は小さな東屋へと場所を移して遅めの朝食(既に昼食)を取り始めた。


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