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アーベル・シュタール(1)

 招かれた屋敷は貴族街の中でも新しい場所にある、手入れの行き届いた場所だった。

 明るく手入れされた前庭には白い石畳とそれを縁取るような刈り込みの低木。緑の芝生に適度な樹木も植わった過ごしやすそうな場所となっている。

 その石畳の先にある屋敷も中規模ながら綺麗なものだ。白壁に磨かれた窓。三角形の屋根のあるゴシック様式の屋敷に染みなどはない。


(凄く綺麗。タウンハウスはこの一件で人が辞めて荒れ放題だからな。うぅ、悲しい。お祖父様に申し訳ない)


 ぽかんと口を開けて見上げてしまうハインツをアーベルが促してくれて屋敷の中へ。従者が開けてくれたドアの先もまた、洗練された様子だった。

 エントランスは広く開放的で、正面の階段は途中から二股に分かれている。深い色の木材は高い位置からの陽光に照らされて表情が違って見える。


 そこにスッと進み出て一礼した執事服の青年が、二人に向かって穏やかな笑みを見せた。


「お帰りなさいませ、アーベル様。いらっしゃいませ、ハインツ様」

「え! え?」


 何故名前を……。

 だが執事はそれに気づいた様子なのに答える事はなく、全てを完璧な笑顔の中に隠してしまった。


「エッボ、案内を」

「はい」


 優雅な所作で先を行く執事に連れられて歩く廊下。それもまた上品だ。

 調度品が極端に多いわけでもない。だがさりげなく置かれている花瓶などは綺麗な色やカッティングが施されていて、さりげなく上品だ。そこに活けてある花も枯れていたりはしない。

 行き交うメイドや従者の教育もちゃんとされていて、急いで居てもこちらに気づけば足を止めて手にした物を置き、スッと静かに礼をする。これは侯爵家並の教養だ。


 案内された応接室は程よい大きさで、入ってすぐの対面のソファーセットとテーブル。壁際には作り付けの棚があり、何やらファイルのようなものも見受けられる。

 勧められるままに上座へと座ると直ぐさまエッボは退室し、少ししてカートを押して戻ってきた。

 目の前に可愛らしく美味しそうなショートケーキと、温かな紅茶が置かれハインツのテンションは人知れず上がった。


(凄く可愛いケーキ! 苺が宝石みたい。美味しそう……。甘い物なんてずっと食べてないよぉ)


 思わずウズウズし、目はケーキに釘付けになる。

 その様子を見て小さく笑ったアーベルが声をかけてくれた。


「どうぞ、召し上がってください」

「あぁ、いや!」

「貴方の為に用意したものです。お気に召して頂ければ良いのですが」

「頂きます!」


(こうまで言われたら食べない方が失礼だしね!)


 生クリームの乗ったスポンジにフォークを入れると、しっとりと押し返す弾力がある。口に運ぶとクリームはそこまで甘くはなく、品の良い香りと甘みが抜けてくる。

 スポンジの間にある苺は甘みの中にしっかりと酸味があり、これが後を引く。クリームの甘さ、スポンジの甘さをしっかり引き締めてくれているのだ。


「幸せ……」


 思わず小さく出てしまった声に、アーベルは嬉しそうに微笑んだ。


「(ハッ!)あの、何故私に声を掛けてくださったのでしょうか。言ってはなんですが、大変お見苦しい様子だったと思います」


 それはもう、知り合いだったとしても知らんぷりしたいくらいの醜態だったと冷静になったら気づいた。

 でもあの時はしかたがなかったんだ! それだけ追い込まれているのだから。


 これにアーベルは思い出したように眉を上げ、次には楽しげに笑った。


「なかなかの壮観ではありましたね」

「うぅ、お恥ずかしぃぃぃ」


 穴があったら埋まりたい。あの時の自分消えてくれ!

 と願うが、黒歴史ほど消えないものはないのである。


 だが、分かっていながら声をかけたアーベルは一体何が目的だったのだろう。思い見ると、彼は僅かに口の端を上げた。


「ハインツ様、俺を覚えておりますか?」

「へあ!」


 突然投下された爆弾に素っ頓狂な声が出る。この質問を恐れていたのに、目の前のケーキで忘れていた。恐るべしケーキ!

 ニコニコなアーベルを前に言えない。覚えがないだなんて!

 目が明らかに挙動不審な感じで泳ぐ。フォークを置いた指をクルクルしてしまう。ついでに目ん玉もクルクルしてきそうな。


「まぁ、覚えていなくても当然なのですがね。以前お会いした時の俺は、今とはおおよそ違う姿をしておりました。が、これで貴方に助けられた者なのです」

「え! あぁぁぁの! 助けた?」

「はい、助けていただきました」


 …………いつだろう?


 とんと覚えがなくて、それはそれで焦る。が、まるで追求を拒むような完璧笑顔を前に「いつですか?」とは聞けない。


「それでですね」

「ひゃい!」

「助けて頂いたお礼と提案をしたく、貴方を探していたのです」

「……お礼?」


 コテンと首を傾げるハインツにアーベルは頷く。膝に肘をつき、組んだ手に顎を乗せる。そうしてこちらを見る彼の目はとても鋭く、奥底には暗いものを宿していた。


「お金の工面が、できないのですよね?」

「ギクゥ!」


 直球な事実はどんな剣よりも刺さると思う。by・ハインツ。


 だが、間違いなくその通りだ。あと一週間で数千万Gを用意しなければ王都のタウンハウスは勿論、領地すらも……。

 最悪タウンハウスは手放しても良い。青春の思い出が沢山ある大切な場所だけれど、領地については自分一人の事じゃない。そこに住む領民の生活もかかっている。変な輩が領地に入り込んで悪事などすればあっという間に荒んでしまうのだ。

 多くの人の幸せと平和と、自分の幸せ。ここで自分を優先できるハインツではなかった。


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