ジルベルトの車で国境の町まで行った。
車の中でジルベルトはティエリーに言った。
「しばらくして落ち着いたらサイモンに連絡をしてあげて」
「でも……」
「この国の離婚届は、両者のサインがないと受理されないのよ。離婚するにしても、婚姻関係を続けるにしても、あなたは一度はサイモンと話し合わないといけないわ」
「離婚、できないんですか?」
そのことはティエリーにとっては初耳だった。
確かにサイモンとティエリーはお互いに婚姻届けにサインをして番誓約書にもサインをして役所に届け出た。アルファとオメガのことだし、これまではどんなことも「ご主人様」である買い手が主導権を握っていたので、ティエリーは勝手に離婚届けも番誓約書もアルファであるサイモンが一方的に破棄できるものだと思い込んでいたのだ。
「そんなの知らなかった……。サイモンが困るじゃないですか」
「困らせてやればいいじゃない。相手はあなたを無理やり番にした憎い男でしょう?」
「違います! サイモンは優しくて、誠実で、わたしを愛してくれた。サイモンのことを憎いと思ったことはありません」
初めてのときだってサイモンは相当後悔しているようだが、ティエリーは暴力も振るわれなかったし、ヒートでぐずぐずになっていた体を慰めてもらって、性急だったが決して乱暴ではなく体を繋げて、快感しかなかった。性行為が気持ちいいものだったなんて、ティエリーはそれまで知らなかったくらいなのだ。
服を脱げば我慢するだけ。痛みと嫌悪感に苛まれて、吐き気を堪えて生唾を飲み込んで、必死に耐えるだけの時間しか経験したことがなかった。
同居してから初めてのヒートだって、あんなに素晴らしいことがあるとは知らなかった。サイモンはティエリーが少しでも「いや」とか「やめて」とか口にすれば、すぐに行為を中断してティエリーを気遣ってくれたし、それが快感が過ぎて反射的に口にしたことで、本当はもっとしてほしい、もっと激しく抱いてほしいと恥じらいながら告げればその通りにしてくれた。気持ちよくて満たされて、幸せすぎるヒート期間だった。
一瞬も離れていたくなくて、サイモンの腰に足を絡めて繋がりが解けないようにしたり、何度も淫乱にねだってしまったりしたけれど、サイモンはティエリーを蔑むことなく、三日間水分補給だけで食事もとらずにティエリーのヒートに付き合ってくれた。
激しいヒートが落ち着いてからは、食事も作ってくれたし、どろどろのシーツも洗って新しいものに取り換えてくれたし、ティエリーが何もしなくてもサイモンは細々とした世話を焼いてくれて、ティエリーはヒートで抱かれることだけに集中できた。
あんなにヒートが幸せだったことなどない。
サイモンを拒んでの同居して二回目のヒートでは、甘やかされた分だけ、サイモンが欲しくてたまらずに地獄の苦しみを経験した。サイモンと番になるまではフェロモンも微弱でヒートも弱かったのだが、一度満たされたヒートを経験してしまった体は貪欲になっていて、番のアルファであるサイモンを求めて疼いて仕方がなかった。
その三日間を乗り越えたら、サイモンがマンションの部屋に助けに来てくれた。
ドアを開けた瞬間にサイモンのフェロモンが強く流れ込んできて、サイモンのフェロモンに包まれた瞬間、ティエリーは安堵して泣いてしまった。
ヒート期間は基本的に一週間続くようだが、ティエリーは最初の三日間が激しくて、残りの四日間は熾火がくすぶるように欲望がちろちろと燃えるが、耐えられないほどではなかった。
フェロモンの放出量も減っているようで、サイモンと一緒に過ごしても、泣きながら抱いてほしいと縋り付くようなことはなかったし、サイモンもティエリーを押し倒すようなことはなかった。
それでも、後からジルベルトに聞いてみたら番のオメガのヒートを行為なしで過ごすのはアルファにとっても拷問に近いと言われて、ティエリーはなんてことをしてしまったのだと深く反省した。
サイモンは欲望を見せなかったが、ティエリーを抱きたいと思っていたのだろうか。
サイモンが求めてくれればティエリーはきっと拒めなかった。
ティエリーもサイモンに抱かれたいと強く思っていたのだ。
お互いに我慢をして過ごしたヒートの残り四日間だったが、サイモンがいるのといないのでは全く違った。
フェロモンを感じて、サイモンの存在を側に感じるだけでティエリーは落ち着いていたし、寂しくも悲しくもなかった。
「サイモンに伝えてください。わたしが平静にサイモンと向き合えるようになったら、離婚届にサインをしに行きますと」
「伝えないわ」
「ジルベルト!」
「そういう大事なことは自分で伝えるのよ。あなたとサイモンは話し合いが足りていない。今は冷静に話し合えないかもしれないけど、落ち着いたらサイモンと話し合ってみるといいわ」
伝えないと言われてしまってティエリーはそれ以上お願いすることができない。誰もがサイモンのようにティエリーの言うことならば何でも叶えてくれるわけではないのだ。
サイモンはティエリーの願いを全て叶えてくれた。
離婚したいと言えばそれも叶えてくれるだろう。
直接サイモンに会って離婚したいと言えば、きっとティエリーは泣いてしまう。本当はサイモンのそばを離れたくなかったし、サイモンに愛されて過ごしていたかった。なにも気付かないふりをして、サイモンの誠実さにつけ込んでいたかった。
でも、ティエリーは気付いてしまった。サイモンがヒート以外で自分を抱かない理由にも、サイモンがヒート中にはティエリーを積極的に抱きたがる理由にも。
「サイモンはわたしを番にしてしまったから責任を感じているだけなんです。優しくて誠実だから、わたしを放り出せないんです」
「どうでしょうね。それも本人に聞けばいいわ」
「サイモンはわたしを探すでしょうか」
「探しても、あなたから連絡をするまではあなたのところに行かないようには取り計らってあげる」
決定権はティエリーに委ねられた。
ティエリーが会いたいと願うまではサイモンは現れない。
今すぐにでもサイモンのもとに戻って、取り縋って「愛人でいいからそばにいさせてください」と言いかねない自分がいて、ティエリーは耐える。そんなことをすればサイモンは愛人としてティエリーを扱うことはないだろうし、ただ元の生活に戻ってしまうだけだろう。
サイモンには自由を。
それだけをティエリーは願っていた。
車で三時間かかって辿り着いた国境の町は、田舎だったが行きかう人々は穏やかそうだった。ティエリーのような長身の男性は珍しいようで、車から降りたティエリーには視線が集まる。
ジルベルトは駐車場からティエリーを一軒のパン屋に連れて行った。
「連絡していた警察のジルベルト・ミルランです。彼がティエリー・クルーゾー。そちらで住み込みで働きたいと言っています」
「ティエリー・クルーゾーです。よろしくお願いします」
挨拶をすると、パン屋の店主とその妻らしき女性はティエリーを見上げて驚いていた。
「オメガの方と聞いていたけれど、大きいんだね」
「オメガだと思わなくて結構です。ベータと同じように、いえ、それ以上にこき使ってくださって構いません。ただ、ヒートの期間は三日間だけお休みをいただけますか?」
「ヒートって大変なんでしょう? 三日と言わずに休んでいいよ」
「いえ、わたしのヒートは三日間でほとんど治まるので、その後は平気です」
「オメガの方を雇うのは初めてだけど、勉強したんだよ。ヒートは一週間程度続くんだろう? ちゃんと休みを取らせるからね」
パン屋の店主もその妻もとても親切で優しそうだった。
ジルベルトはなにやら手続きをしてティエリーを店主とその妻に預けて帰って行ったが、店主の妻はティエリーを店の上の居住スペースに連れて行った。
広い部屋ではないが、キッチンとバスルームがついている部屋が用意されている。
「古い店だから、お湯がなかなか出ないこともあるけど、気長に待ってれば温かくなるから。狭い部屋で悪いけど、ここで暮らしてくれる?」
「ありがたいです」
「キッチンを使ってもいいけど、朝と昼は
「まかない、ですか?」
「店の方で食事を用意するってことだよ」
「助かります」
「朝は早くて申し訳ないんだけど、五時から入ってくれる? パンの仕込みが手が足りてないんだよ」
「何時でも大丈夫です」
「その代わり、午後三時には上がれるようにするからね」
午前五時から午後三時までの仕事で、朝食と昼食がついてきて、給料ももらえて、住むところも確保してもらえる。
ティエリーにとっては破格の仕事すぎてありがたかった。
起きる時間に慣れればすぐに仕事にも慣れるだろう。
「よろしくお願いします。何でもします」
「お祖父ちゃんが亡くなってから、人手が足りなくて困ってたんだ。こちらこそ助かるよ。よろしくね」
五十代くらいの店主の妻に言われて、ティエリーは大人しく頷いた。
その日は店を見せてもらって、仕事内容を教えてもらって、夕食用に大量にパンをもらって部屋に戻った。
売れ残りのパンだったが、どれも素朴な味がして美味しく、ティエリーはこれだけでも生きていけそうな気がしていた。
携帯端末をサイモンの部屋から持ち出すのは抵抗があったが、ジルベルトはサイモンは情報部の警察官なのでデータなど覗こうと思えば簡単に覗けるから持って行った方が安心させると言われて持ってきた。
アラームを午前四時にセットして、なかなか温まらないシャワーを浴びて、ティエリーはどうしても狭く感じるベッドに横になって休んだ。
サイモンは何も言っていなかったが、サイモンの部屋のティエリーのベッドは大きなものを準備していたようだ。今になってサイモンの気遣いが分かる。普通のサイズのベッドだと大柄なティエリーにはかなり狭く感じた。
床に寝るよりはマシだったので、気にしなかったが、サイモンの部屋ではないのでサイモンのフェロモンが感じられないことだけが寂しく、逃げてきてしまったのにもうサイモンに会いたくてたまらないティエリーだったが、何とか眠ることができた。
アラームで午前四時に起きて、顔を洗って歯を磨いて、身支度を整えると、一回のパン屋に降りていく。午前五時前だったが、店主とその妻はもう働いているようだった。
「粉を測って、水と酵母菌を混ぜて、捏ねてくれるか?」
「はい」
仕事を言いつけられて、言われた通りに粉を測って、水と酵母菌を混ぜて捏ねていると、粉がまとまってくる。
「力があるのですぐにできそうだな」
「腕力は自信があります」
「発酵させてる間に、こっちのパンに刷毛で卵黄を塗ってくれるか?」
「はい」
仕事は難しいものではなく、指示通りにやれば全く問題なくできた。
「うちは機械を入れてないから、手で捏ねるのが大変で募集しても働いてくれるひとがいないのよ」
「わたしはどれだけでも捏ねますよ」
「助かるよ」
店主からも妻からも感謝されて、ティエリーは仕事が楽しかった。
仕込みが一通り終わって、オーブンで焼いている間に朝の賄いが出て来る。
昨日の残りのパンとスープだったが、パンは少し硬くなっているがよく噛めば素朴な味がして美味しいし、スープは温かくて具だくさんでお腹を満たせた。
ティエリーの働きに、店主もその妻も満足している様子だった。