ジルベルトと話した後で、車の中でまだ欲しいものがあると伝えると、サイモンは快く応じてくれた。
ショップのシャツもかなり上質なものだったので申し訳ないと思ってしまうティエリーに、サイモンはバッグが欲しいと伝えると持っていなかったことに気付いてバッグだけではなく財布やハンカチ、ポーチやペンケースやペンも買ってくれた。
バッグ売り場に着くと、ティエリーはサイモンの部屋を出るときのために大きなボストンバッグを選んだ。ボストンバッグを選んだティエリーにサイモンはもう少し小さいものを進めてくれたが、買ったものを入れたいと言い訳をしたら、小さめのバッグも買ってくれると譲歩してくれた。
二つもバッグを買ってもらうのは申し訳なかったが、サイモンは譲らなかったので一番値段が安いものを選んで買ってもらった。ショルダーバッグの色を黒、ボストンバッグの色を青にしたのはサイモンの髪の色と目の色を意識してのことだった。
サイモンのそばを離れることになっても、サイモンの買ってくれたものはそばに置いておける。
その後、第二性に特化した病院にもいつ行けるようになるか分からなかったので多めに抑制剤を持っておきたいとお願いすればサイモンは快く連れて行ってくれた。
遅めのランチは中華だった。
箸を使ったことがないので戸惑うティエリーにサイモンは箸の持ち方を教えてくれる。
「無理だったらフォークを使ってもいいけど」
「頑張ってみます」
ぎこちなく箸を使って、あんかけ焼きそばや麻婆茄子や唐揚げを食べたが、どれも美味しくて気が付けばお腹いっぱいになるまで食べていた。サイモンはティエリーが食べた後の皿を見て、残ったものを食べていたが足りたのだろうか。
サイモンの視線が柔らかく、見守られているようでティエリーは自分が愛されているのではないかと錯覚しそうだった。
サイモンの愛は、家族に対するもので、恋愛感情ではない。
自分に言い聞かせていないと勘違いしそうになる。
マンションに帰ってから、サイモンがティエリーの手を取ってじっと目を見つめてきた。
「ティエリー、抱き締めたい。口付けたい」
サイモンはティエリーに対して性的な欲望を持ってくれているのかもしれない。
ヒートではないときには抱いてくれないし、お誘いもない。ヒートのときには義務感で抱いてくれようとするのだが、それもティエリーは拒んでしまった。
「はい」
口付けてほしい。抱き締めてほしい。
その思いを込めて頷けば、サイモンはティエリーの気持ちを確かめてくる。
「嫌ならはっきり断ってくれ。ティエリーにおれの欲望を押し付けるつもりはない」
「わたしも……抱き締めてほしいし、口付けてほしいです」
嫌なはずがないし、むしろ嬉しいのだが、サイモンは遠慮しているようだ。
抱き締めてほしい、口付けてほしいと願えば、サイモンの腕がティエリーに巻き着いて、口付けられる。舌を絡めて、サイモンの唾液に含まれるフェロモンをたっぷりと飲んで、そのまま抱かれたいくらいだったのに、サイモンは触れるだけの口付けしかくれなかった。
これは親愛のハグで、口付けも挨拶程度のものなのかもしれない。
期待しただけにがっかりしてしまったティエリーにサイモンは気付いていないようだった。
真剣に告げられる。
「ティエリー……次のヒートは一緒に過ごしたい」
「それは……」
「ティエリーが嫌なら無理強いはしないよ。でも、おれはティエリーを抱きたい」
本音を言えば、抱かれたい。
今ですら抱かれたくて、フェロモンが漏れて、後ろが濡れ始めているというのに、ヒートの期間に抱かれないことなど考えたくない。それでも、ティエリーは頷くことができなかった。
サイモンのそばを離れることを考えながらも、体は本能に忠実にサイモンを求め続けている。この矛盾した心と体も、サイモンから離れれば安定してくるのだろうか。
サイモンが側にいてフェロモンを感じている状態が一番安定しているので、ティエリーは今更ながらサイモンから離れたくないと思ってしまった。
サイモンに愛されて一生そばにいたい。
番を解消されても構わない。
愛人でも、遊び相手でも構わない。
サイモンの都合のいいときに抱いてもらって、サイモンの思うようにしてもらって、できればサイモンの子どもも産みたい。
家族にしてくれると言ったサイモンは、責任感でそれを守ろうとしてくれているが、ティエリーはそんなに多くのことを望んではいけなかったのだ。サイモンの幸せのために愛人になっておけば、こんなにも苦しまなかったかもしれない。
「ティエリー、愛してるよ」
「わたしもサイモンを愛しています」
愛していると言われて嬉しいのだが、本当にそれがサイモンの本音なのか分からなくて、愛していますと答えながらも、縋るようにティエリーの手はサイモンの目の色のチョーカーの蝶の飾りを撫でていた。
ジルベルトからの連絡はジルベルトが登録してくれたアプリに届いた。
アプリにはパスワードがかけられていて、そのパスワードも定期的に変えていたが、サイモンは警察の情報部でセキュリティのプロである。破ろうと思えばそのパスワードなど簡単に破れてしまうだろう。
サイモンはティエリーのプライベートを無理に覗いたりしない。
ジルベルトも言っていたのでそれを信じて、ティエリーはジルベルトとやり取りをした。
『国境の町に、住み込みで雇ってくれる店を紹介できそうなの。パン屋なのだけれど、料理はできる?』
『ある程度はできます。パンは習えば作れると思います』
『まだ交渉段階で、移動するときには手伝うつもりだけど、いつまでにサイモンの部屋を出たいとかある?』
ジルベルトの問いかけにティエリーは少し考えてしまった。
いつまでにサイモンの部屋を出たいかと問われると、本心では一生出たくないと思っているが、出なければいけないのならば早い方がいい。
『できるだけ早い方がいいです』
怪しまれないように言い訳をして買ってもらったボストンバッグ。あれに当面の荷物は詰めて出ればいい。サイモンのお金で買ったものをもらっていくのは申し訳ない気もするのだが、ティエリーのサイズのものはティエリーくらいしか着れないだろうし、サイモンの好みは可愛い系の小柄な女性なのだ。ティエリーとはサイズが違いすぎる。
ティエリーがいなくなった後で、サイモンは番を解消して、ティエリーのものは全部処分すればいい。
その後でサイモンに相応しい相手と結ばれるのだ。
そこにティエリーがいなくても、サイモンはきっと幸せになる。
そのためにも、次のヒートが来る前にサイモンの部屋から出たかった。今度のヒートはサイモンはティエリーが何と言ってもティエリーを抱くかもしれない。一人で過ごしたヒートでものすごく心配をかけてしまったし、消耗もしたので、サイモンがヒートの期間に一緒にいたらティエリーはきっと縋って、頼み込んで抱いてほしいとお願いするだろう。
そうならないように、できるだけ早くサイモンの前から去りたかった。
思い出はもらった。
サイモンと暮らした日々はとても幸せだった。
特別に注文したチョーカーまでもらってしまった。
これ以上に何を望むのだろう。
『明後日、サイモンが仕事に出かけた後で、迎えに行くわ。携帯端末はこれ以上使わずに、水没させておいて。時間になったら、エントランスまで出て来て』
ジルベルトのメッセージには指示と共に集合の時間も書かれていた。
『分かりました』
そのメッセージを送った後で、ティエリーは携帯端末をお湯を張った風呂のバスタブの中に水没させた。
帰ってきたサイモンには謝っておいた。
「お風呂に湯を張ろうとしたら、胸ポケットに入れていた携帯端末が落ちてしまったんです」
「明日新しいものを買って来るよ。買ってきたら、一緒に登録をしよう」
「すみません、ご迷惑をおかけします」
「気にしなくていい。こういうこともあるよ」
慰めてくれるサイモンにちくちくと罪悪感で胸が痛んだが、こうでもしないと出て行った後にサイモンに情報を抜き取られる可能性があるのでジルベルトが指示したのだと理解して、ティエリーはやったことを後悔してはいなかった。
翌日サイモンは新しい携帯端末を買って来てくれて、顔認証とパスワードを一緒に登録して、ティエリーはサイモンから携帯端末を受け取った。
それを持って行くつもりは全くなかったのだが。
その翌日、いつものようにサイモンを送り出してから、ティエリーはボストンバッグに詰めておいた荷物を持って、約束の時間にマンションのエントランスに降りて行った。最低限の着替えと歯ブラシと財布とハンカチとペンケースくらいしか入れていなかったが、ボストンバッグはいっぱいになっていた。
時間通りにジルベルトが迎えに来て、彼女の車に乗ってティエリーはサイモンのマンションを後にした。
愛していた。
サイモンはティエリーの初めて愛した相手だった。
そして、多分最後の相手。
最初で最後の最愛の番。
番を解消されても、ティエリーのうなじにはサイモンの噛み跡が残っていて、生涯サイモン以外を受け入れることができない。番のアルファ以外を受け入れると、オメガは酷い拒否反応を起こすと言われている。
「本当によかったの? 今ならまだ戻れるわよ」
運転するジルベルトに問いかけられて、ティエリーは自分が泣いていることに気付いた。
頬を流れる涙を拭い、ふるふると首を振る。
「いいんです、これで」
オメガであるティエリーは番になったサイモンから解放されることはないが、アルファであるサイモンは番を解消して自由になることができる。
愛しているからこそ、サイモンには義務感と責任感でティエリーのそばにいてほしくなかった。
「わたしの意地です」
義務感と責任感で愛されるくらいなら、一人で生きることを選ぶ。
それがティエリーに芽生えた意思だった。