ヒートの最初の三日間は地獄のような苦しみを味わったが、残り四日間は心が落ち着いて安定していた。
サイモンの顔を見た瞬間、全ての苦しみが消え去ってしまったようで、サイモンのフェロモンを感じる部屋の中でティエリーは欲望に突き動かされることもなく、幸福感だけを覚えて過ごしていた。
サイモンが入れてくれる紅茶を飲み、サイモンが作ってくれる食事を食べ、サイモンがそばにいてフェロモンを嗅がせてくれる。
一度うっかり後ろから抱き着いて、サイモンの肩口に顔を埋めて思い切り嗅いでしまったらサイモンが固まっていたような気がしたので、それ以後は気を付けるようになった。ヒートが酷いときには抱いてほしいと縋ってしまいそうで怖かったが、治まってくるとサイモンが同じ空間にいるだけでフェロモンを感じてティエリーは心が穏やかになる。
守られているのだと感じるだけでこんなに泣きたいくらい安心するのだとは知らなかった。
サイモンに優しくされればされるほど、離れがたくなって、ティエリーは一人でヒートを過ごした意味がなくなるのではないかと怖くなる。
地獄の苦しみを味わった後でサイモンの救済はものすごくて、ティエリーはそれなしでは生きていけなくなってしまいそうな自分がいることに恐怖を覚えていた。
できるだけ早くサイモンから離れなければいけない。
サイモンのそばを離れたところでどこに行けばいいのかも分からないし、一人で暮らしていける自信は全くなかったのだが、それでも一刻も早くサイモンのそばを離れなければ離れられなくなってしまう。
もう自分が完全にサイモンに陥落して、溺れ切っている自覚はあった。それでもありったけの理性を働かせて、ティエリーはサイモンにいくつかのお願いをした。
「服を買いに行きたいんです。連れて行ってくれませんか?」
「ティエリーが自分の服を欲しがるなんて……! いいよ、いつ行く?」
「それと……あの……欲しいものがあって……」
「何でも言ってくれ。ティエリーの希望に添うようにしたい」
「チョーカーなんですが……あの、特別な相手に贈るっていう話なので、そういうのじゃなくていいんで、うなじの噛み跡だけ隠せたら」
番のアルファがオメガにチョーカーを贈るのは特別な意味があるとティエリーも本で知った。噛み跡を他人に見せたくない独占欲や、オメガの弱点であるうなじを守るためのものを自分で贈るということには、結婚指輪を贈ること以上の意味があると本には書かれていた。
そんな大仰なものでなくていいので、うなじの噛み跡を隠したい。噛み跡だけ隠せれば、ティエリーはアルファよりも体格がいいのでベータと同じように生きていけるだろう。
「ごめん、気付かなくて。チョーカーは当然、贈らせてほしい。最高級のものを選びに行こう」
「最高級のものではなくていいんです」
「どうして? おれが愛するティエリーに贈るんだから、一番いいものを贈りたい」
サイモンの甘やかしはティエリーが一人でヒートを過ごした後も変わらないどころか激しくなっている気がする。
「愛している」とか、「最愛の」とか、「愛する」とか簡単に言って来るし、ティエリーの願いは何でも叶えてしまわないと気が済まないようだ。
「ジルベルトともまた話したいです。できれば、二人きりで」
「それなら、ジルベルトと話せる場所に連れて行って、おれは車で待ってるよ。送り迎えはさせてくれ。人身売買組織の捜査は落ち着いたとはいえ、まだ完全に殲滅できたわけではないんだからね」
車でサイモンを待たせるのは申し訳ない気がしたが、サイモンに聞かせるわけにはいかない相談事があったので、ティエリーはそれもお願いするしかなかった。
次の休みにサイモンはまず、ショップに連れて行ってくれた。そこでティエリーは首の詰まったうなじを隠せるシャツを何着か買った。これならばうなじの噛み跡も、チョーカーを付けた場合にも隠してくれるだろう。
「ティエリーはそういう服が好きだったのか」
「最近こういう服に興味がありまして」
「何着でも買っていいよ。ティエリーに好みが出てきたのはいい傾向だと思う。おれも嬉しい」
笑顔で言われて、好みではなくうなじを隠すためだとは言えないままにティエリーは何着もシャツを買ってもらった。
その後で連れて来られた装飾品を売っている店では、予約をしていたのかティエリーとサイモンは個室に通された。
個室で手袋を付けたスーツ姿の店員が、ベルベットの箱を持ってくる。箱の中には小さめの青い宝石が蝶の形に加工された飾りのついたチョーカーが乗っていた。紐の部分は幅広の黒でレース編みのような装飾がついているが、透けない作りになっていた。
「防水加工がしてあります。サファイアの金具には錆びないように加工がしてあります。日常的に付けていただいて構いませんし、シャワーやお風呂の際にも外す必要はありません」
店員の説明を受けて、サイモンがチョーカーを手に取ってティエリーの首に着けてくれる。長さもぴったりで苦しくはないがしっかりとうなじを守ってくれる。
「サファイアって言いませんでしたか? これ、高いんじゃないですか!?」
「ティエリーが身に着けるものだから、最高のものを選びたいと言ったよね。おれの気持ちだ。受け取ってほしい」
そこまで言われるといらないとは言えない。
チョーカーのサイズもティエリーにぴったりだということは、こんな大柄なオメガはめったにいないので、特注品だということは間違いなかった。
「白い肌に黒い紐と青いサファイアがとてもよくお似合いです。旦那様の色を身に着けるオメガは幸せになると言われていますよ」
店員に言われて、これがサイモンの色なのだと気付く。
黒はサイモンの髪の色、青はサイモンの目の色だ。
はっきりと自分がサイモンのものだという証を得たようで、ティエリーはものすごく嬉しい気持ちと、それなのにサイモンのそばを離れなければいけない苦しい気持ちが一度に来て泣きそうになってしまった。
「ティエリー、嫌だったか?」
「いいえ、嬉しくて……嬉しすぎて涙が出そうになりました。ありがとうございます。大事にします」
このチョーカーを一生のお守りとしてこれから先生きていけそうな気分だった。
チョーカーは包んでもらわずそのまま付けて帰ることにして、サイモンは代金を支払っていた。カードで支払っているのでいくらかは分からないし、ティエリーはお金の相場が分からないのでどれくらい価値のあるものなのか細かくは想像できないが、このチョーカーが相当高価であるということは感じている。肌に吸い付くようで着けていても全く不快感がないし、圧迫感もない。
そっと蝶の形のサファイアの飾りに触れると、かなり大粒のサファイアが羽根四枚分使われていて、それだけでもかなりの価値があると思われる。
「サイモンのもの……」
サイモンだけのオメガになれたような喜びを感じつつも、ティエリーはこれからサイモンを裏切るのだと思うと気が重かった。
ジルベルトと約束の店に行って、店内でティエリーとジルベルトが合流したのを確かめてから、サイモンは車の中に戻って行った。
大事な話があると伝えていたので区切られた個室席に座ったティエリーはジルベルトに単刀直入に聞いた。
「番を解消されたオメガが住める場所と働ける場所を教えてもらえませんか?」
ジルベルトは警察の中でもオメガという性を活かして、被害者のオメガの対応をしているのだと聞いていた。それならば、警察に相談に来る番を解消されたオメガの避難場所も知っているのではないだろうか。
「番を解消された? サイモンがあなたと番を解消するとは思えないけど」
「離れて暮らしたら、番を解消したくなるかもしれません」
「それ、本気で言ってる? そんなサイモンの独占欲の塊みたいなチョーカーを付けておきながら」
「こ、これは、わたしのお守りなんです。サイモンに愛された思い出として大事にするんです」
サイモンの髪の色の紐にサイモンの目の色の飾りがついているチョーカーは、ジルベルトの目にもものすごい独占欲として映るようだ。サイモンに独占してもらうのは嬉しいだけなのだが、ティエリーはサイモンのそばを離れることを決めている。
「番から逃げたいオメガのための施設はないわけじゃないわ。でも、それはサイモンも知っている。あなたは、サイモンの知らない場所に行きたいのよね?」
「そうです」
「民間で住み込みで従業員を募集しているところで、オメガも受け入れているところは紹介できるかもしれない。施設に逃げてもサイモンはすぐにあなたの居場所を突き止めると思うわ。民間の警察に協力してくれる場所の方がまだマシかもしれない」
「お願いできますか?」
「分かった。できればサイモンの幸せを願ってあげたいんだけど、わたしは警察官として被害者の力になる義務があるから、あなたに協力する。連絡先を交換しましょう」
連絡先を交換するときに、ジルベルトはティエリーの携帯端末に新しいアプリをダウンロードしていた。
「パスワードを決めて、定期的にパスワードを変更して使って。サイモンは情報部だから、セキュリティを簡単に突破できるけど、あなたが望まないのならプライベートを無理に覗いたりしないとは思うから」
「分かりました」
それだけ気を付けなければいけないくらいサイモンは優秀な情報部の警察官なのだと気を引き締めるティエリーに、ジルベルトがため息をつく。
「個人的なお願いなんだけど、考え直さない?」
「それは……」
「サイモンがプライベートであなたにとって許せないことをしたのかもしれないし、最初が最悪だったのかもしれないけど、今のサイモンはあなたに夢中よ? あなたのために定時に帰れるように仕事も全力で取り掛かってて、あなたのヒートには抱くことができないのに一緒にいたでしょう? あれはアルファにとっても拷問なのよ。愛してる番に求められず、フェロモンを感じながらも我慢するなんて」
自分の苦しさばかりを考えていてサイモンの苦しさなど考えたこともなかったが、ジルベルト曰く、サイモンとヒート期間に抱かれずに過ごしたのは、サイモンにとっても拷問だったらしい。
「わたし、そんなひどいことをしてしまったのですか……」
「サイモンが割り切って離れていればよかっただけの話だから、サイモンの責任ではあるんだけどね。それでも、サイモンはあなたと番を解消しないし、離婚にも応じないと思うんだけどな」
「わたしが離れれば、気持ちは変わると思います」
「それだけサイモンのフェロモンをべったりつけた状態で言われても説得力がないんだなぁ」
サイモンのフェロモンがティエリーにべったりとついている。
そのことを指摘されてティエリーは驚いてしまう。
アルファは番のオメガを守るために威嚇のフェロモンを付けるという話は、本で読んで知った。それがべったりとティエリーについているというのは、多分オメガであるジルベルトか、他のアルファかオメガしか気付かないことなのだろう。
「それでも、わたしはサイモンには幸せになってほしいので」
「サイモンはあなたがいないと幸せにはなれないわよ。もっと二人で話し合ってほしいな」
「そんなことはないと思います」
サイモンはティエリーがいなくなれば新しい番を見つけて幸せに暮らせる。
そう思い込んで譲らないティエリーに、ジルベルトは諦めたように頷いて、「また連絡する」と言ってティエリーを車まで送ってくれた。