ヒート抑制剤の副作用は限りなく少なくなっているとはいえ、ないわけではない。できれば抑制剤を使わずにサイモンとヒート期間を過ごすことを選んでほしかったが、ティエリーは頑なに一人で過ごすと決めた。
ティエリーがサイモンに抱かれたくないと思うのも仕方がない。最初のときに手酷く抱いてしまったし、無理やり番にしたのでティエリーは二人で暮らし始めてから始めてきたヒートは仕方なくサイモンと過ごしたが、これから先ずっとサイモンとヒートを過ごすかどうかについて考え始めたのだろう。
元は売られる対象だった人身売買被害者のティエリーに選択権などなかった。そのティエリーが自分に選択権があると気付いて選ぼうとしているのだから、これは成長でもある。
耐えられないくらいにヒートがつらくてサイモンを呼びたいと思ったらサイモンはいつでも応じるつもりだったが、一番ヒートが激しい三日間はティエリーからの連絡はなかった。
四日目にサイモンが買い物をしてマンションに戻ると、部屋のドアを開けた瞬間ティエリーの甘い濃厚なフェロモンに包まれてサイモンは一瞬ぐらりとしたが、理性で持ちこたえてリビングにいるティエリーに駆け寄った。
ものすごいフェロモンだが、理性が焼き切れるほどではないので一応は落ち着いたのだろう。
バスルームでは洗濯機が回っている音がして、ティエリーは巣作りに使ったサイモンの服や汚れたシーツを洗っていたようだ。
労いを込めて、ティエリーが飲みたいと言った紅茶を入れて、買って来ていた焼きたてのパンに食べやすいようにとろとろに野菜を煮たスープを出すと、ティエリーはゆっくりだが完食した。
ヒートがきつすぎたのだろう泣いていたのが可哀そうで、愛しくて、抱き締めたかったが、抱き締めたらヒートがまだ残っているティエリーを苦しめるかもしれないと思ってタオルを差し出すだけにした。それが面白かったのかティエリーは泣きながら笑っていた。
笑顔が見えた少し安心したが、ティエリーはその後もサイモンに抱かれずにヒートを最後まで過ごすつもりだった。
食事を終えたティエリーが食器を片付けていたので、サイモンが変わると、ふわりとサイモンの肩にティエリーの顔が乗る。肩に顔を埋めるようにして匂いを嗅いでいるのだと気付いたら、サイモンの方もティエリーのフェロモンを胸いっぱいに吸い込んでしまって落ち着かなくなる。
「サイモンのフェロモン、いい香り……安心します」
「それなら、いくらでも嗅いで」
「ヒート後半も頑張れる気がしてきました」
「それはよかった」
「サイモンは気にせずに仕事に行ってくださいね」
「気にするよ」
三日間も苦しめてしまったのだからそばにいて世話を焼きたい。
主張するサイモンにティエリーはそれを断る。
「サイモンがそばにいると、わたしの理性がもたないかもしれないので」
サイモンの方もそれは同じだった。これだけいい香りを放っているティエリーのそばにいると理性がもたないかもしれない。
今ですら抱き締めたいし、口付けたいし、ベッドにティエリーを押し倒したいと思ってしまっているのだ。
「分かった。仕事に行くよ。定時に帰ってくる」
「行ってらっしゃいませ、サイモン」
「行って来る」
後ろ髪引かれながら仕事に出ると、ジルベルトが情報部に確認に来たときにサイモンを見て歪んだ笑みを浮かべた。
「威嚇のフェロモンが怖いわよ」
「おれ、威嚇してる!?」
「大事な番を守りたいけど守れないから、八つ当たりみたいに威嚇のフェロモンが出てるわ。訓練された
「悪い。ティエリーがヒート中なんだ」
ヒート中に番休暇を取らなかったというだけでジルベルトには何か察せられたようだ。声を低くして聞いてくる。
「夫夫仲は大丈夫なの?」
「良好だと思うけど」
「ヒートを一緒に過ごしたくないなんて相当だと思うよ」
やはりオメガにとってはヒートを一緒に過ごしたくないと思うことはそれほど大きな出来事だった。オメガにも権利として番であろうとアルファに抱かれることを拒むことができるのだが、その権利を行使するオメガはほとんどいない。
結婚したので周囲からのお誘いは落ち着いたが、サイモンは「次のヒートを一緒に過ごしてほしい」と男女問わずオメガから申し込まれたことが何度もあった。ヒート中のオメガとは性交しないと決めていたので断り続けていたが、付き合った女性がオメガで、デートに合わせてヒート促進剤を使ってヒートを起こしたときには、病院に連れて行ってサイモンだけで帰った。その後その女性とは別れた。
オメガであることに魅力を感じたことはないし、フェロモンも臭いだけだと思っていたのに、ティエリーのフェロモンはいつも甘く心地よく感じる。
結婚を考えたこともなかったが、結婚するのならば第二の性は関係なく一番愛することができた女性と結婚しただろうが、ティエリーは男性でオメガだった。
男性を抱いたのはティエリーが初めてだったが嫌悪感があるどころか、快感がものすごかった。力の強いアルファであるサイモンからすれば少し力を入れたら怪我をしそうな柔らかくてふわふわした女性と違って、硬くて弾力のある体は安心感すらあった。
ティエリーならばサイモンを受け止めてくれる。サイモンもティエリーを満たしてあげられる。
二人で暮らし始めてから最初のヒートでそれを強く感じた。何度抱いてもサイモンは体力があるので留まることを知らなかったし、ティエリーの方も体力があるのでそれを受け止めてくれていた。
運命の番というのも間違いではないのかもしれない。
そう思い始めていたというのに、ティエリーから拒まれてサイモンがショックを受けなかったわけではない。
それでも、ティエリーは愛おしそうにサイモンの肩口に顔を埋めて、サイモンのフェロモンは落ち着くと言ってきた。
一人でヒートを乗り越えられるか試してみたかっただけで、ティエリーの気持ちはまだサイモンにあるのではないか。今回は拒絶されたがティエリーはまだサイモンを愛してくれているのではないか。
サイモンはそう思いたかった。
定時に仕事を上がってロッカールームで着替えて真っすぐに部屋に帰ると、ティエリーは部屋で眠っているようだった。鍵がかかっているだろうから部屋には極力近付かない。
夕食も食べやすいリゾットを準備して、ティエリーの部屋のドアを叩くと、気だるそうにしながらティエリーがリビングに出てきた。ドアの隙間から見えたティエリーのベッドにはサイモンの服が置かれて、巣作りをしているのが分かる。
オメガは意中のアルファのフェロモンがついたものをベッドに並べて巣作りという行動をする。
意中のオメガなのだから、サイモンのものを並べているということはサイモンが嫌いなわけがない。
そう思いたいが、ティエリーは番になってサイモンのフェロモン以外を感じられなくなっているので、選択肢がないという考え方もあった。
そうではないことを祈るのだが、不安は消えない。
「ティエリー、洗うものがあったら出してくれ。洗っておくよ」
「すみません。食事が終わったらシャワーを浴びさせてもらいます。そのときに脱いだ服をお願いします」
「謝ることはないよ。おれにとってはティエリーの世話を焼くのは楽しい。最愛の番だからね」
最愛の番と告げるとティエリーの顔がくしゃりと歪んで、ほろほろと涙を流す。
「番、なのは、嫌?」
「いいえ……サイモンが優しくて……わたしは……」
「おれのことは気にしなくていいよ。本当のことを教えて」
「本当は……サイモンのことを拒みたくないんです。でも、どうしても一人で過ごせるか確かめたくて」
「いいよ。ティエリーがそれを望むなら、おれは協力するだけだ」
拒みたくないと言われるだけでサイモンは安心する。
ティエリーの気持ちはまだサイモンにある。
「ティエリー、泣かないで。ティエリーは何も悪いことはしていないよ」
「サイモンはわたしに怒っていませんか?」
「怒るわけない。愛しているよ」
「わたしも……愛しているんです、サイモン」
ティエリーがサイモンを拒んで一人でヒートを過ごそうとするのには、相当の理由があるようだ。その理由を話してくれればいいのだが、話したくなさそうなのでサイモンは無理やりに聞いたりしない。
ただ、ティエリーが過ごしやすいように生活を整えることだけを考えた。
食後、ティエリーはシャワーを浴びてまた自分の部屋に戻って行った。バスルームの洗濯籠に入っているティエリーの服から強いフェロモンを感じて、サイモンはつい手に取ってしまう。
性欲は強い方ではなく、むしろ淡白だと言われていたが、ティエリーの香りを嗅ぐと下半身がどうしても反応してしまう。
サイモンはバスルームでティエリーの香りで抜くようなことをしてしまって、罪悪感を覚えながら洗濯機を回した。