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8.サイモンの好み

 サイモンに家族に会ってほしいと言われた。

 これまでの買い手はティエリーのことを隠していたし、家族と会うようなことは一度もなかった。奴隷のような扱いを受けてきて、ときに暴力も振るわれて、抱かれても下半身だけ出して我慢するだけか、ご奉仕させられるだけの生活だった。

 毒物を食べさせられたこともあった。腐ったものやかびたものを食べさせられたこともあった。汚物を食べさせられたこともあった。

 全てティエリーに選択権はなくて、買い手の言う通りにしなければ、酷い折檻が待っていた。


 体格もよかったし、力もあったので抵抗しようとすればできたのかもしれないが、幼いころから植え付けられた恐怖がティエリーの体を支配していた。

 買い手に逆らえば即捨てられて複数を相手にする娼館に入れられるか、暴力を振るうための店に入れられるか、精肉工場に行かされるかだった。

 怖くて抵抗できないティエリーを買い手は好き勝手蹂躙し、服従させ、屈服させることで満足感を得ていた。


 サイモンと同居して結婚してからはティエリーの生活は一転した。

 サイモンは常にティエリーの意思を尊重してくれるし、忙しい中でもティエリーと一緒に過ごしてティエリーが困っていることにはすぐ気付いてくれる。

 ティエリーが欲しいものを一緒に考えてくれて、ティエリーの世界を広げようとしてくれる。


 サイモンの部屋に来てから読んだ本だけでも、ティエリーは自分の生きていた世界が異様だったのだと気付くことができた。

 サイモンはティエリーに愛もくれた。

 ヒートのときのマナーなのかもしれないが、「愛してる」と言われたときにはティエリーは舞い上がった。ティエリーもサイモンを愛している。


 我が儘を言ってもサイモンは受け入れてくれると理解したので幾つかお願いをしてみた。


「サイモンの服、また借りてもいいですか?」

「いいよ。自由に使ってくれ」


 サイモンの服を使って巣作りをするのは幸せだったのでまたしたいとティエリーが言えば、サイモンは快く応じてくれる。


「サイモンの部屋に入ってもいいですか?」

「構わないよ。おれの部屋の本も読みたいものがあれば全部借りていい」


 部屋に入っていいだけでなく、本も借りていいとなると、ティエリーは自分の部屋の本はほとんど読みつくしていたのでありがたく借りさせてもらうことにする。


「サイモンのベッドで一緒に眠ってもいいですか?」


 それに関しては、サイモンは悩む表情をした。

 すぐに「いいです。忘れてください」とティエリーが言えば、「嫌なわけじゃないんだ」とサイモンは答えてくれた。


「おれの帰りが遅いときには先に寝てくれるか?」

「サイモンがそう言うなら」

「食事もちゃんととるか?」

「はい」


 条件付きで一緒に寝ることを許されて、ティエリーはその夜は期待して体を磨いてサイモンのベッドに入ったが、サイモンはティエリーを抱かなかった。

 ヒートの期間は抱いてくれると約束したが、普段のティエリーには興味がないのかもしれない。

 愛してるという言葉も、家族としてという意味で、ティエリーのようにサイモンを求めてのことではなかったのかもしれない。

 サイモンは責任感が強い。警察官なので当然なのかもしれないが、自分が無理やり番にしてしまったと思い込んでいるティエリーに対して誠実であろうとするし、ティエリーの権利を守ろうとしてくれている。

 その優しさをティエリーは勘違いしていたが、サイモンは恋愛的にはティエリーを愛していないのかもしれない。


 愛しているのならば抱いてくれるはずだ。

 ヒート期間でなくても抱きたいと思ってくれるはずだ。


 ベッドに横になってサイモンにすり寄ると、サイモンはティエリーの髪を撫でて、触れるだけの優しい口付けをくれる。それ以上を望んでしまうティエリーに反して、サイモンはそのまま眠ってしまう。


 翌日も仕事だから抱かないだけなのかもしれない。


 期待を抱いて翌日が休みの夜に体を磨いて、受け入れる準備もしてベッドに入ったが、やはりサイモンはティエリーを抱かなかった。


「サイモン、わたしは魅力がないのでしょうか?」

「どうして?」

「サイモンの好みではないのでは……」


 誰かにサイモンのことを聞いてみたい。

 サイモンの好みはどんな相手なのか知りたい。

 近付けるならばその相手のようになりたい。


 そんな悩みを胸に抱えているときに、サイモンから家族に会わないかと聞かれた。

 ティエリーのようなものを家族に紹介して大丈夫なのかと思ったが、サイモンの家族ならばサイモンの好みを知っているのではないかと考えると、知りたい欲の方が勝ってしまった。


 次の休みにサイモンは実家にティエリーを連れて行ってくれると約束した。


 休みの朝、ティエリーはサイモンに買ってもらった一番気に入っているシャツとスラックスとベストを身に着けて、ジャケットを羽織ってサイモンの車に乗せてもらった。サイモンは助手席のドアを開けてティエリーを座らせてから、運転席側に回って自分が車に乗る。エスコートされているようで気分はいいのだが、サイモンが他の相手にもこういうことをしていたのではないかと頭を過ると胸がもやもやしてしまう。

 こんな感情は知らなくて、ティエリーは混乱していた。


 サイモンの実家はサイモンのマンションから車で一時間ほどのところにあった。

 郊外の一軒家で、サイモンに似た黒髪の男性と金髪の女性、それに金髪の若い男性がいた。


「サイモンの父です。話は伺っています。サイモンの番になってくださったんでしょう?」

「サイモンの母です。サイモンがお世話になっています」

「サイモンの弟のレイモンだよ。初めまして」


 黒髪の男性がサイモンの父親で、金髪の女性がサイモンの母親で、金髪の若い男性がサイモンの弟のようだった。


「婚姻届けは出してあるから、もう夫夫なんだ。結婚式はもう少しティエリーが落ち着いてから挙げようと思っている」

「ティエリー・クルーゾーです。よろしくお願いします」


 サイモンが説明してくれて、ティエリーは自己紹介をして頭を下げる。これであっているのか分からないが、サイモンの父親も母親も弟も笑顔で迎えてくれている。

 家の中に招かれて、サイモンの部屋と同じく土足厳禁でスリッパに履き替えると、サイモンの弟が親し気に見上げてくる。


「オメガなんだよね? 背が高くて格好いいな」

「そうなんだよ。ティエリーは礼儀正しくてものすごく男前なんだ」

「惚気て!」

「自分の番のことで惚気なくて、なんで惚気るんだよ」


 背が高すぎることも、体が大きすぎることも、レイモンは格好いいと言ってくれるし、サイモンは礼儀正しくて男前だと言ってくれる。

 否定の言葉が一つも出ない環境に慣れなくて照れていると、サイモンの母親がリビングの椅子を勧めてくれる。

 サイモンと並んで座ると、料理が出てきた。


「ただの家庭料理だけど、よかったら食べて行ってください」

「ありがとうございます」


 こういうときに「ありがとうございます」というのだとティエリーは学んでいたが、お礼を言えば嬉しそうにサイモンの母親が笑ったので、ティエリーも嬉しくなる。

 家庭料理だと言われたが、ラザニアとスープとパンとサラダという結構手の込んだものだったので、ティエリーはありがたくそれをいただいた。どれもものすごく美味しかった。


「すごく美味しいです」

「ティエリーさんは美味しそうに食べてくれるから嬉しいわ。息子たちは何も言わず黙々と食べるから」

「美味しいって思ってるよ」

「おれも!」

「言わなければ分からないのよ!」


 普通の家庭とはこのようなものなのだろうか。

 温かい会話の中に自分も入れているようでティエリーは胸が温かくなる。


 食後に手作りのアップルパイにアイスクリームを添えたものが出て、紅茶も入れてもらって、ティエリーは紅茶を一口飲んで驚いた。


「サイモンが入れる紅茶と同じ味がします」

「サイモンにはわたしが教えましたからね」

「アップルパイもアイスクリームもとても美味しいです」

「お代わりもあるのでたくさん食べてください」


 もてなされて喜んでいると、サイモンが両親を呼んで何か話しているようだった。少し離れていたので声は聞こえなかったが、この隙にティエリーはサイモンの弟のレイモンに話しかけてみる。


「サイモンは……どんな相手が好みなのですか?」

「え? 気になる?」

「気になります」

「話していいのかなぁ」

「教えてください」


 少しの我が儘ならばサイモンの家族なのでサイモンのように許してもらえるのではないかと聞いてみると、レイモンは苦い表情で小声で答えた。


「サイモンの付き合ってた相手は小柄で可愛い系の女性だったよ」

「小柄で可愛い系の女性……」


 ティエリーは大柄で逞しい系の男性である。

 見た目はある程度好みに添って変えられるかもしれないが、体付きも性別も変えることができない。

 これまで付き合った相手が全員女性だったというのならば、サイモンがヒート期間以外ティエリーを抱こうとしない理由も分かった。

 一緒に寝たいと言ったときに躊躇うはずだ。

 サイモンはフェロモンに誘われるヒート期間でなければティエリーを抱きたいと思わないのだろう。


 ヒート期間に番に放置されるのはオメガにとって非常に苦しい状態になる。それで気が狂って自死を選ぶオメガも少なくないとサイモンの部屋にあった本には書かれていた。

 望まない番になってしまったティエリーが男性だったので、ヒート期間中は苦しくないように抱いてくれるのだが、それ以外の期間は抱くことができなくても仕方がない。フェロモンの相性はいいのかもしれないが、ティエリーはサイモンに抱かれたときに気持ちよくて、幸せで、うなじを噛んでほしいと願ったが、サイモンの方はフェロモンに誘惑されただけで自分の意思などなかったのだ。


 サイモンは常にティエリーの意思を尊重してくれる。ティエリーもサイモンの意思を尊重すべきなのではないだろうか。


 その後のことはあまり覚えていない。

 サイモンの両親も弟もティエリーを歓迎してくれたし、サイモンの伴侶と認めてくれた。


「結婚式には必ず行きます。愚息をよろしくお願いします」

「結婚式が楽しみですね。何かあったらいつでも連絡してくださいね」

「おれとも連絡先を交換しておこう。サイモンと喧嘩したら、おれの部屋に逃げてくるといいよ」


 サイモンの母親と弟のレイモンと連絡先を交換して、ティエリーはサイモンの運転する車に乗ってサイモンの部屋に帰った。


「すみませんでした」

「なにが? うちの家族と会うのは嫌だった?」

「いえ、とても楽しかったです。歓迎されて嬉しかったです」


 嬉しかったのだが、その分サイモンの番になってしまった罪悪感が募る。


「今日からは自分の部屋で寝ます」

「ティエリーがそうしたいならそれでいいんだけど、おれのベッドで眠りたくなったらいつでもおいで」

「はい」


 従順に返事をしたが、ティエリーは今後サイモンのベッドで眠ることはできない気がしていた。

 サイモンの好みは可愛い系で小柄な女性。ティエリーは最初から選ばれるはずもなかったのに、無理やりサイモンの番になって、サイモンの責任感につけ込んでサイモンを縛ってしまったのだ。


 番を解消してほしいとサイモンに言っても絶対に了承しないだろう。

 今後サイモン以外を受け付けず、苦しむことになるティエリーを放っておけないくらいサイモンは責任感に溢れていて優しいのだ。


 それならば、今後はできるだけサイモンの手を煩わせないようにしないといけない。


 愛していると初めて思えたサイモン。

 そんな大事な相手だからこそ、ティエリーはサイモンにこれ以上無理をしてほしくはなかった。


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