同居生活が始まって婚姻届けも無事に出してから、サイモンはティエリーを病院で精密検査させた。これまで人身売買組織で酷い扱いを受けていたので体に不調があったり、内臓に疾患があったり、性病があったりする場合を想定してのことだった。
検査の結果、ティエリーは非常に健康だということが確認された。
「酷い扱いを受けていたにしては、体の成長は阻害されていませんし、骨密度も通常以上です。内臓も全て問題ありませんでした」
医者から説明を受けてほっと胸を撫で下ろすサイモンに、ティエリーが何か聞きたそうにしている。口を開こうとしているが、すぐに閉じてしまうのは、サイモンに遠慮してのことだろう。
ティエリーはまだ人身売買組織での扱いを忘れておらず、サイモンの顔色を伺うところがあった。
「おれは外に出ているので、ティエリーが聞きたいことがあったら何でも聞いていいよ」
「そばにいてくれませんか?」
「おれがいると遠慮して聞けないんじゃないか?」
「何を聞いてもいいのですか?」
「もちろん」
そばにいてほしいというティエリーに、ティエリーが質問しにくくなければ同席することも拒まないと伝えると、ティエリーは医者に真剣に問いかけた。
「わたしに妊娠、出産は可能ですか?」
サイモンとティエリーは結婚しているのだからそういう話になることもあり得たのだが、それをティエリーが気にしているとは思わずにサイモンは自分で聞かなかったことを反省した。家族になりたいとティエリーは言ったのだ。それに妊娠、出産が入っているのは間違いなかった。
「妊娠、出産も可能ですよ。クルーゾーさんの子宮は十分に育っています。ヒート期間中にならば、妊娠は可能ですし、出産にも耐えられる体をしています」
医者からはっきり言われてティエリーは安堵している様子だった。
「ただ、これまでに使われた薬の影響で、ヒートの期間が不安定にはなっているかもしれません。ヒートの期間が安定してから妊娠を考えた方がいいでしょう」
「わたしは売れ残りでこんな年齢になってしまいました。妊娠が遅くなるとできなくなるのではないでしょうか」
心配そうに話すティエリーに医者が静かに話をする。
「クルーゾーさんは二十五歳程度と分かっています」
「施設でも二十五歳と言われていました。今回のオークションが最後のチャンスだと。今回で売れなければ精肉工場に行かせると言われていました」
えぐい言葉がティエリーの口から出て、サイモンは思わずティエリーの顔を見つめてしまう。ティエリーは自分が何を言ったのか分かっていないかのように平然としている。
「ティエリー、君は売れ残りでもなければ精肉工場に連れて行かれることもない。二十五歳で結婚するというのは若い方だよ。おれは二十八だし、ティエリーより年上だ」
「ご主人様は二十八歳だったのですね」
「ご主人様じゃなくて、サイモン、ね?」
「すみません」
謝るティエリーに怒ってないことを伝えてから、サイモンは医者に向き直った。
「この通り、人身売買組織のせいで認知の歪みがあるようなので、カウンセリングを受けさせた方がいいのでしょうか?」
「カウンセリングも必要かもしれませんが、一番は夫であるジュネさんがそばにいて心を安定させてあげることだと思います。何より、番のオメガにとってアルファのフェロモンは非常に安心するものなので、匂いの付いたものを持たせてあげたり、そばにいてフェロモンを渡してあげたりすることが必要かもしれません」
番のフェロモンはティエリーを落ち着かせる。
それならばサイモンはできる限りティエリーのそばにいようと思うし、ティエリーに自分の匂いがついたものを渡すのも考えていた。
看護師がティエリーについていて、サイモンだけ呼び出されてサイモンは医者から追加の報告を受けた。
「ご本人の前で伝えると思い出してパニックになるかもしれないので、ジュネさんにだけお伝えしますが、背中に幾つか傷が見られました。拷問を受けた跡かもしれません。クルーゾーさんの背中を見ても過剰に反応せず、ご本人が話し出すまで待ってください」
「分かりました。他に何かありますか?」
「性病はありませんが、ご本人が望んでも、落ち着くまでは妊娠しないように気を付けてください。こういう患者さんは闇雲に家族を欲しがる場合がありますので」
闇雲に家族を欲しがる。
繋がりが欲しいのだと請われれば、サイモンはティエリーに何でもしてやりたい気持ちになるが、妊娠、出産はティエリーの認知の歪みが治って、精神的に落ち着くまでは待たなければならないようだった。
うっかりとサイモンを「ご主人様」と呼んでしまったように、ティエリーはまだ売られてきたような気分でいるのだろう。サイモンとティエリーは平等なのだと伝えなければいけない。ティエリーにはこの国の国民として生きる権利があって、幸福になる権利があるのだと教えていかなければいけない。
それにしても、ティエリーを傷付けた相手に関しては、サイモンは許す気はなかった。
人身売買に関わった相手であるので、警察組織としても探し出して裁かなければいけない。
「精肉工場に売られるだなんて……二度と言わせない」
精肉工場も本当にあるのならば人間を加工するような違法な工場は摘発しなければいけない。
ティエリーの憂い全てを取り払えたときに、ティエリーがサイモンとの生活を選ぶか、自立して暮らすことを選ぶかは分からないが、サイモンはティエリーの一生に責任を持つつもりだった。
病院から帰るとティエリーは靴を脱いでスリッパに履き替えて部屋に上がり、リビングのソファで寛いでいる。自分の部屋はあるのだが、そこよりもリビングのソファが気に入ったようだ。
大柄なティエリーが座ると横にサイモンが座るスペースがギリギリあるかないかくらいなので、サイモンはもっと大きなソファに買い替えようと考えていた。
ティエリーを病院に連れて行く日は休みだったが、翌日は仕事でサイモンは警察署に出ていた。情報部なのでパソコンでの作業が多い。どうしても人員が足りないときには現場にも出るが、基本的にサイモンの仕事は後方支援だった。
人身売買組織の被害者の証言で、オメガを幼少期から育てて売りに出す施設があると聞いて、その場所も調べてチームの仲間に伝えた。
今頃その施設は取り調べが入って、育てられているオメガが助けられているだろう。
精肉工場についても調べなければいけなかった。
人肉を食べる嗜好のある人間は一定いる。そういう人間相手の商売なのだろうが、まだ二十五歳のティエリーを売れ残りと言って、オークションで売れなければ精肉工場に売るというのは常識的には考えられないことだった。
若いオメガにしか需要がないのかもしれないが、ティエリーの年齢でもう必要がないと切り捨てられてしまう闇の世界にぞっとする。
精肉工場の情報を調べている間に昼の休憩の時間になったので、サイモンはマンションまで車で五分ほどだったので一度マンションに戻った。
昼の休憩は一時間だが、五分でマンションに戻って、五分で職場に帰れば、その間五十分はティエリーと過ごせる。
できるだけそばにいるように医者に言われていたし、仕事で帰りが遅くなる日も多かったので、ティエリーを安心させたかったのだ。
マンションに着くとティエリーは定位置のソファに座って本を読んでいた。
サイモンが帰ってきたのを見て、菫色の目を僅かに見開く。
「いつもより帰りが早いのですが、体調でも崩しましたか?」
「いや、昼の休憩で抜けてきた。ティエリーと昼食を食べたくて」
「わたしと食べてくれるのですか?」
どことなく嬉しそうなティエリーにサイモンはテーブルに今朝作ったお弁当を置いて、ティエリーの分も冷蔵庫から出して紅茶を入れる。
テーブルの椅子に座ったティエリーは嬉しそうにお弁当の包みを開けていた。
「一緒に食べられて嬉しいです。サイモンがいないと、食事の味が変わるような気がします」
「寂しかったのか?」
「さみしい? わたしは寂しかったのでしょうか?」
自分の感情がよく分かっていない様子のティエリーに、もっと早くこうしてやるべきだったとサイモンは反省した。
人身売買組織の殲滅が終わっていないので一人で外に出ることができないティエリーにとっては、狭くはないが一人だけのこのマンションの部屋が世界の全てだった。サイモンが戻るまで大人しく待っているのは相当寂しかったのだろう。
寂しいという感情が分からなくても、ティエリーは食事の味が分からなくなるくらい寂しがっていた。
「今は忙しくて帰りも遅くなってるけど、昼の休憩には抜けてくるし、人身売買組織の捜査が落ち着いたら定時に帰れるようにするよ」
「定時って何時ですか?」
「日勤なら十八時」
「それからどれくらいで帰りつきますか?」
「着替えて、荷物も纏めて、車で戻ってくるのに十五分ってところかな」
こういう細かいこともティエリーは何も知らなかったのだと思うと、サイモンは自分の言葉不足を反省する。
その日からサイモンは昼の休憩時間には警察署を抜け出してマンションでティエリーと昼食を食べるようになった。