サイモンはティエリーに命令をしなかった。
命令されたことをするのがこれまでの生活だったので、ティエリーはなにをすればいいのか分からなくて戸惑ってしまう。
警察署での証言も、医者が同席しており、喋りたくないことは喋らなくていいと言われていた。
質問には全て答えたのだが、中には不快な答えもあったようで、ティエリーは殴られたりしないか身構えたこともあったが、誰もティエリーを殴ったりしなかった。警察署で保護されている間は警護されて近くのホテルに泊まって、証言のために警察署に出向いていたが、それが終わったらサイモンは自分の部屋にティエリーを連れて帰ってくれた。
日本人の血が入っているというので部屋の中は土足厳禁だったが、フローリングは清潔に掃除されていて、スリッパも用意されていてティエリーは何の不自由もなかった。
携帯端末にはティエリーの情報が登録されて、ティエリーだけが使えるようになっていたが、特にほしいものもなかったし、サイモンに連絡を取る必要もなかったので、携帯端末は充電器のところに立てかけておいて、ティエリーはサイモンの選んだ服を着て、サイモンの用意している弁当を食べて生活していた。
ご主人様と呼ばせてはくれないが、サイモンはティエリーのご主人様なのだから、サイモンの望むようになりたい。
これまでの買い手のようにごついオメガは必要ないと言われたら、大人しく部屋を出て行くつもりだったが、サイモンは常にティエリーに優しかった。
ティエリーが自分で買い物をしていないことに気付いて、足りないものがないか細かく聞いてくれたし、ティエリーの部屋の本棚には本を並べてくれた。ティエリーの好みがわからなかったのであろう、色んな種類の本があったが、本を読んでいいと言われたことがなかったのでティエリーはそれだけで贅沢で、サイモンが仕事に行っている間は本を読んで過ごした。
自分の部屋を与えてくれていたのだが、サイモンと共有のスペースはサイモンの香りが残っている気がして、リビングのソファがティエリーのお気に入りの場所になった。
「ティエリー、遅くなってすまない。食事はしたか?」
「いいえ」
「すぐに用意するから待っててくれ」
人身売買がらみの捜査で忙しいサイモンは帰りが遅くなることがしばしばあった。待っているのは苦痛ではないし、空腹も気にならない方だったが、サイモンはいつも帰ると謝ってくれて、すぐに食事の準備に取り掛かった。
料理は一緒にするのが好きなのでティエリーもキッチンに立つと、サイモンが指示をしてくれる。普段から部下を使い慣れている警察官なので、的確な指示にティエリーは従えばいいだけだった。
「明日は休みをもらった。結婚式はティエリーが落ち着いてからしようと思うが、婚姻届けを一緒に出しに行かないか?」
「はい」
「その帰りにランチをして、服も見に行こう」
誘ってくれるサイモンに、ティエリーはそうではないのだと口の中のものを飲み込んで話し出す。
「今の服を気に入っています。新しい服は必要ありません」
「気に入ってくれてるのは嬉しいけど、季節が変わったらその季節に合った服が必要になるし、ティエリーの服は少ないから、もう少し増やしてもいいんじゃないか?」
「それなら、サイモンが選んでくれますか?」
「一緒に選ぼう」
最初に会ったときには凛々しくて強そうなアルファだと思ったけれど、サイモンはアルファにしては物腰が柔らかい。言葉も堅苦しくはあるが声は優しく、いつもティエリーのことを気にかけてくれている。
ご主人様であるサイモンの好みになりたいのだが、サイモンはティエリーの意思を尊重したいようだ。
家族として愛し、尊重し、大事にする。
話をしたときの通りにサイモンは非常に誠実だった。
「ティエリー、次のヒートはいつ頃になる?」
「分かりません」
明確な答えを出してあげたかったが、ティエリーには本当に次のヒートがいつ頃になるか分からなかった。
「抑制剤を使うのは禁止されていたのですが、促進剤は頻繁に使われていたので、いつが自分の本当のヒートなのかよく分からないんです」
「それなら、ヒートの兆候があったら知らせてくれ。番休暇を取って、ヒート期間中はずっとそばにいる」
番休暇とは、番のいるアルファとオメガのための権利としてもらえる休暇らしい。番のオメガがヒートのときには、アルファは付きっ切りでいるために休みをもらえる。
「ヒートの相手をしてくれるのですか?」
「ティエリーが嫌でなければ。……嫌なら正直にそう言ってほしい。最初が酷かったし、おれに抱かれるのが怖いなら、抑制剤を準備する」
夜の相手は要求されていなかったから、サイモンはティエリーの大柄な体に欲情しないのではないかと思っていたが、そうではなかったようだ。相手をしてくれるならヒートの間はそばにいてほしい。
「最初、酷かったですか? わたし、そんなに具合がよくなかったですか?」
確認しようとするティエリーに、サイモンが額に手をやる。
「そういう意味じゃない。おれが理性を失って手荒に抱いてしまったから、ティエリーは怖かったんじゃないかと思ったんだ」
「こわい? ただ、気持ちよかったです。抱かれて気持ちよかったのは初めてだったので、驚きました。うなじも、わたしが噛んでほしいと言ったんだと思います」
言ってなくても、ティエリーはあのときうなじを噛んでほしいと思っていた。
そのことを告げると、サイモンはますます困惑した顔になる。
「痛かったり、嫌だったりしなかったのか? おれは獣のようにティエリーを貪ったと思うのだが……いや、記憶がなくて本当によく分からないんだ。どういう風にしたのか」
「気持ちがよくて、幸せで、あんなに満たされたことはありませんでした。うなじを噛んでほしかったのは本当です。むしろ、わたしの方がサイモンをフェロモンで誘ったのかもしれません」
「それはない。あのとき、ドアを開けてティエリーを襲ったのはおれの方だ。オメガだから誘われたとかそんなことはない。ティエリーはそんな風に言わなくていい」
労わるようなサイモンの言葉に、ティエリーは胸が温かくなる気がする。
サイモンはティエリーのせいにしたりせずに、自分に責任があると言ってくれている。
「サイモンが、わたしを使わないのは、好みじゃないからですか?」
「使うとか言わないでくれ。ティエリーは自分の意思以外で抱かれる必要はない。ティエリーが嫌なら、ヒート期間でもおれは指一本触れないし、抑制剤も準備する」
ヒート期間に抱かれないのは困るのでティエリーは急いで答える。
「ヒート期間だけでもいいので抱いてください」
「それでティエリーが嫌じゃないなら、抱かせてもらうよ。ヒート期間は一人にさせない。約束する」
約束してくれたのでティエリーは少しだけ安心した。
翌日はティエリーが起きてくるとサイモンはもう起きていて、ソファに座ってタブレット端末で新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。ティエリーが起きてきたのに気付くとソファから立ち上がる。
「朝ご飯を作ろうか」
「はい」
一緒にキッチンに立って朝食を作るのも幸せで、ティエリーはこんなにも穏やかで幸せな世界があったのだろうかと思っていた。
朝食後、サイモンの運転する車でティエリーは役所まで行った。役所で婚姻届けを出すと、係の者が受け取ってくれる。
「おめでとうございます。番の誓約書もご一緒ですね」
番になったアルファとオメガは番の誓約書も提出する。ティエリーとしては番はいつ解消されても仕方がないものだと思っているし、サイモンの態度がいつ変わってもおかしくないとは思っているのだが、サイモンは番の誓約書だけでなく婚姻届けも出して、正式にティエリーの家族になってくれた。
手を取られて車に乗せてもらって、ランチの店に着くまでティエリーはふわふわと幸福感の中にいた。
ランチの店はお洒落なバルコニー席のある料理店で、サイモンとティエリーは店の奥の個室に通された。メニューを見てもよく分からなかったので、ティエリーはサイモンと同じものを頼んだ。
「アルコールは飲める?」
「飲んだ方がいいですか?」
「嗜好品だから、ティエリーが飲みたければ、ほどほどになら飲んでいいと思うよ」
「紅茶がいいです」
アルコールを飲めと命令されているわけではないようなので、ティエリーはアルコールではなく紅茶を頼んだ。サイモンの入れてくれる紅茶が美味しいのでティエリーはすっかり紅茶好きになっていた。
料理も紅茶も美味しくて、全部食べてしまうと、サイモンがメニューを広げる。
「追加で食べたいものはない?」
「サイモンは?」
「おれは甘いものはそれほど食べないんだけど、この店、ティラミスとジェラートが有名なんだって」
「ティラミスとジェラート?」
「食べたことない?」
「はい」
「食べてみようか」
店員を呼んで注文すると、ティラミスとジェラートはすぐに持って来られた。ティラミスはほろ苦くて美味しく、ジェラートはブラックカラントのもので、甘酸っぱくて美味しかった。
あっという間に食べてしまってから、サイモンの顔を見る。
「サイモンが頼んだのに、サイモンに渡すのを忘れていました」
「おれはそんなに甘いものは食べないからいいよ。美味しかったならよかった」
「とても美味しかったです」
ティラミスもジェラートも美味しいものなのだと覚えたティエリーは、また店に来たらサイモンの許可を取って注文してもらおうと考えていた。
ランチの後は車でサイモンの行きつけのショップに行く。服が飾られているそこは、アルファご用達の店のようで、大柄な男性のための服がたくさんあった。
ティエリーにも着られそうな服があったので、サイモンに聞いてみる。
「どの服が好きですか?」
「ティエリーは?」
「サイモンの好きな服が着たいです」
「おれは、ティエリーが自分の好きな服を着ているところを見たいな」
サイモンの好みに合わせようとしても、ティエリーの好みを聞かれるので、ティエリーは値段を見て一番安いものを選んだつもりだった。それでも、上質な服はかなりの値段がするようで、何着もは選べなかったが、ティエリーが遠慮しているとサイモンが次々とティエリーの手に取った服をレジに持って行き、支払ってくれた。
「こんなにいいんですか?」
「おれは一応、警察署でも仕事ができる方なんだ。使うことがなかったから貯金もあるし、気にしなくていいよ」
その上買ったものを持ってくれて車まで運んでくれるサイモンに、ティエリーは何もしなくていいのかと困ってしまった。
部屋に戻ると、サイモンは買ってきた服のタグを取って、洗濯機に入れた。買ってきたものは一度洗濯してから使う主義らしい。
サイモンがティエリーをあまり甘やかすので、ティエリーはサイモンに何かしたいと思って、サイモンにソファに座ってもらった。
ソファに座ったサイモンの脚の間に座り込んで、ベルトを外し、スラックスのジッパーを下げようとすると、サイモンに止められる。
「待って。何をしようとしてる?」
「口なら、男性も女性も変わらないと言われました。わたし、上手だと言われたことがあります」
「待って待って。やめよう? そういうことがしてほしいわけじゃない」
「お嫌でしたか。すみません」
他にできることがないからご奉仕をしようと思ったのだが、失敗だったようだ。肩を落とすティエリーに、スラックスを整えてサイモンはティエリーを自分の横に座らせた。
「嫌とか、そういうのじゃなくて……ティエリーはしたいこと以外しなくていい。おれに感謝してるなら、『ありがとう』っていえばいいだけなんだ」
「ありがとう?」
「そう。おれたちは家族なんだからね」
お礼など言わされたとき以外が言ったことがなかった。
抱かれた後に息も絶え絶えになりながら「ありがとうございます」と言わされたり、鞭を打たれた後で「ありがとうございます」と言わされたり、あまりいい思い出のないお礼の言葉だが、サイモンが望むなら何度でも言ってもいい。
「ありがとうございます、サイモン」
「どういたしまして、ティエリー。ティエリーのためなら、何でもするよ」
「どうして?」
その問いかけは思わず口から出てしまったもので、ティエリーは焦った。どうしてなんて分かっている。サイモンはティエリーを番にしてしまった責任を感じているのだ。
「ティエリーはおれの愛する家族だから。ティエリーはおれを愛せないかもしれないけど、ティエリーが自立できるまではここで我慢してほしい。ティエリーが一人で暮らせるようになって、おれと一緒に暮らしたくないと思ったら、そのときには部屋も用意するし、就職先も世話をする」
「わたしは、出て行った方がいいのですか?」
「いやいやいや、そうじゃないよ。あくまで、おれのことが嫌なら、って話。今のティエリーには選択肢がないだろう? 色んな事を知って、色んな経験をして、その上でおれのことを考えて、生涯の伴侶とは思えなければ、離れて暮らすのもありだってこと。もちろん、ヒート期間中は嫌じゃなければ一緒に過ごすよ」
サイモンは責任感が強いのだろう。
警察官という仕事をしているのだから当然と言えるが、ティエリーのこともどうでもいいようには扱わず、一人の人間として尊重してくれようとしている。そのことがまだティエリーにはよく理解できないし、サイモンが決めたことに従うのが当然と思っているので、自分の意思を問われても困惑するだけだった。