伊織美鈴は、どう見ても放送局らしくない建物の前に立っていた。
鉄筋コンクリートとは思えない、まるで石造りのように見える建造物だ。しかも、いわゆるビルという形では無かった。普通オフィスビルと言えば四角いものがほとんどだろう。と言うか、美鈴の中の常識ではそうである。だが目の前にそびえ立つものは、世界史の教科書で見たヨーロッパを思わせる不思議な形状をしていた。アーチ型の門や窓があり、その中央には教会の鐘を思わせる尖塔が立っている。まるで10世紀末から12世紀にかけて、ヨーロッパ各地に見られたロマネスク風の建築様式である。
「本当にここでいいのかな?」
美鈴は、高校の先輩である流川理央に誘われて、ラジオ局でアルバイトをすることになっていた。理央からのメールにあった住所だと、確かにここで間違いない。
ここが、Akiba Broadcasting System、俗にFMakibaと呼ばれているFMラジオ局「秋葉放送」のはずだった。FMakibaはコールサイン「JOYV-FM」の比較的新しい放送局だ。将来の、AMからFMへの統合を予見し、AM的番組を目指すFM局として2001年に開局した。周波数はFM石川、KissFMと同じ89.9MHzだが、エリアの離れた秋葉原では混信の心配はない。開局時のキャッチフレーズは「様々な文化の中心秋葉原から、新しいラジオの文化を発信する!」
もちろんその開局は、美鈴が生まれる数年前のことなので、彼女にとってFMakibaは他の放送局と同様「昔からあった」と言う認識ではあるのだが。
「よし!」
様々な不安を抱えつつも、美鈴は思い切ってその玄関へと足を踏み入れた。建物の外観にそぐわない、大きな一枚ガラスの自動ドアがゆっくりと開く。
「あの、すいません」
受付の女性が美鈴に目を向ける。いかにも大企業の社員らしい、垢抜けた感じの女性だ。少し制服ぽいベージュのスーツが美しい。一方の美鈴は、大学の入学式用に買ったお手頃価格の紺色のスーツだ。なんとなく気後れしてしまう。
「どちらに御用でしょう?」
「えーと、制作部の流川さんをお願いしたいんですが」
なぜかおどおどとしてしまう。
「お名前は?」
「あ、伊織といいます」
「では、この用紙にご記入をお願いします」
受付の女性が差し出した紙には、今日の日時、訪問先の部署と相手の名前、訪問者の所属と氏名、それに連絡先の電話番号を書く欄があった。
「あの、これ全部に?」
受付嬢はニッコリと微笑む。
「分かるところだけで大丈夫です」
「すいません」
つい謝ってしまった美鈴は、そそくさと用紙に記入を始める。その間に、その女性は内線電話でどこかに連絡を入れているようだ。もしかすると流川を呼び出してくれているのかもしれない。
「こちらが入館証になります」
そう言って差し出されたのは、クリップで服に留めるカードのようなものだ。表には「Guest」の文字がある。
「そちらの椅子で、しばらくお待ち下さい」
そう言って彼女が指差したのは、目の前のロビーに置かれたテーブルのひとつだった。
「ありがとうございます」
美鈴はぎこちなく頭を下げると、その席に向かった。
緊張するぅ!
美鈴にとって放送局なんて場違いもいいところだ。将来の就職に放送関係を考えている友人は何人かいる。だが、美鈴はそんなことを考えたことは微塵もなかった。どうしてこんな場所に来てしまったんだろう、少し後悔しつつも、好奇心であたりを見回してしまう。
ロビーにはたくさんのポスターが飾られていた。
番組の宣伝ポスター。
この局が主催しているらしいイベントやコンサートのもの。
年末のチャリティー番組への参加を訴えているものなど、その内容は様々だ。
だがその全てに、芸能人やスポーツ選手など有名人の明るい笑顔が踊っている。
「やっぱり場違いかも」
美鈴は極めて一般人である。と、彼女自身はそう思っていた。
だがこの後の数日で、一般人だとかそうでないとかの区別に大した意味がないことを、彼女は思い知るのではあるのだが。
「おう!来たか青年!」
ロビー奥のエレベーターの扉が開いた途端、女性の大きな声が響いた。いかにも普段着といった風のシャツとパンツの上に、ブルゾンのような薄手の上着を羽織っている。
流川理央である。
「先輩!青年て、私女性ですけど」
「何を言ってるんだ? 青年に男も女も無いぞ! 伊織ぐらいの若者のことをそう言うんだ」
「はぁ」
もしかしてこれってジェンダー平等?
放送局って、やっぱりこういうことに気を使うのかな?
そんなことをふと思った美鈴だったが、それ以上深く考える前に、理央が彼女の腕を掴んで歩き出した。
「さ、行くぞ!」
「え? どこへ?」
「番組プロデューサーのところさ。伊織を紹介しないとな!」
「今からですか?」
「もちろんだ!」
そう言ってエレベーターへと向かおうとした理央だったが、ふいに立ち止まり受付に顔を向けた。
「伊織美鈴、彼女、情ジャンのデスクになるからよろしくな!」
受付の女性がニッコリと笑顔を返す。
そんな彼女にあわてて頭を下げる美鈴。
「よ、よろしくお願いします!」
美鈴の襟元で、ゲストと書かれたカードが揺れる。
「レギュラー番組のスタッフになるんだ、入館証も作らないとな」
「スタッフ、ですか?」
「番組を作る仲間は社員もバイトも関係なく、みんなスタッフさ!」
驚きに目を丸くする美鈴を連れて、理央はエレベーターに乗り込んだ。