眩い光に目が眩み、瞑ってしまった。その時の感覚はなんとも言えないものだった。
次に目を開いた時、裏業はその光景に思わず息を呑んだ。
目の前をゆらゆらと歩く黒い靄。どこから鳴っているのか鈴の音が聞こえたその場所は、裏業の生きている世界とは別の世界だと思われた。
行きかう人々は『人』にあらず。
きっとそれらは、妖怪と言われるものの類なのだろうと既視感を覚える。
裏業はもともと妖怪という存在を認知はしていた。過去にそういったものが絡んだ事件に関わったことがあったためであるが、実際に実物を見たことはなかった。
妖怪を認めて彼女は気が付いたのだ。ここが彼らの世界なのだと。
どういった経緯でこの場所に飛んだのか、その理由は分からないが、どうやら自分は彼らの世界に迷い込んでしまったらしい。
ズキッと右の掌が痛む。そういえば刀の刃を握り続けていたことを忘れていた。無我夢中で握っていたので血が垂れ流しになっている。止血をしなければ、と頭では思っているが上手く回らない。懐にあった手拭いを破り、傷ついた右手を無造作にではあるが縛り付け止血を試みた。じんわりと赤く染まるのと同時に痛みもまた増幅した。
「……さて。どうしたものか……」
ここからどうやって元の世界に戻ればいいのか。とりあえずこの場から離れなければならない。朝凪を鞘に戻し隠れることができる場所を探しつつ移動を開始した。
数分歩いただろうか。どこを見渡しても同じような光景に目が眩む。異常に喉が渇いて、暑いわけでもないのに汗も出てきていた。視界も霞み始め、気を抜いてしまえばすぐに意識が持っていかれそうだった。
「あっ」
道に石があったのか無様にも躓いてしまった。ずしゃりと派手に転んでしまい、そのまま何故かその場から動けなくなった。
「? な、ん……?」
「おい、お前何してるんだこんな場所で……」
不意に声を掛けられて、体が一瞬にして硬直した。どうしよう、今食われてしまえば元の世界に戻ることもできない。そうなれば橋具をあの男から守ることもできない。
それだけはなんとしても避けなければならない。ぐっと、力の入らない体に力を入れようとする。
「……裏業ちゃん?」
「ぬ、らの……どの……?」
どうしてこの男がこんなところにいるんだ、という気持ちと、知っている人物が目の前にいる安心が混じって、変な声が出た。
「ちょっと待ってよ。どうして
珍しく焦っている水埜辺を見て、少しだけ面白いなと思ってしまう。
「――ごめんね、少し触るよ!」
「なっ⁉」
水埜辺は動けない裏業をその場から抱き上げた。軽々と抱き上げられ、裏業は困惑する。放せと暴れようとするも、体は正直で言うことを聞かなかった。
仕方なくそのまま彼の気の済むまでそのままでいようと、裏業は彼から逃れることを諦めた。
動きが止まったと感じたとき、気が付けば森の中にいた。だが先ほどまでいたような感覚とは違う。息苦しさも、体も、動かすことができる。
戻ってきた、ということだろうか。外はすっかり夜である。
「ふぅ……。さて。どうして
水埜辺は怒っているように思えた。
「説明も何も……。気が付いた時にはあそこにいたんだ」
「何の条件もなしに人間の子は彼岸には来れません!」
――彼岸。あの世界は彼岸というのか。なんて、話半分に聞いていた。
「いいかい、裏業。彼岸というのはな、生と死を司る妖怪たちがいる世界で、とても不安定で危険な場所なんだ。……まだ死んでもいないというのにどうしてあんな場所に」
確かに、死んでいたわけではないし、死ぬ予定もなかった。これは事実だ。つまり彼岸とは死の世界。生身の人間が行っていい場所ではないというのは理解できた。
「…………黒い、羽が……」
「え?」
「黒い羽が導いたのだ。あなたが渡してほしいと言っていた文の中に、羽が混じっていて。それが急に浮いたかと思えば今度は光って……そうしたら」
「……はあ。分かった。もういい。つまりは事故だった、そういうことだな」
「うん」
水埜辺は裏業が『死にたくて彼岸に来た』のではないと知ると、ほっとした顔をして裏業の頭を優しく撫でた。
またあの感覚。裏業は胸が苦しくなった。
「……裏業。俺はもう戻らなけらなければならないからここまでの案内になる」
茂みの外を水埜辺は指さした。さされた方向を向くとぼんやりと灯りが桔梗宮邸を照らしている。それは、すでにここは元の世界だったということを意味していた。灯りの正体は門前の提灯で、そこに警備の門番はいないように見えた。
「そ、そういえば、今夜は体調が優れなくなる日だったな。すまなかった、奴良野殿」
「……いや、別にそういう、わけじゃ……」
否定はしているものの、暗がりで分かりにくいが顔色が悪いように見える。体調が悪いことを我慢して隠しているのだろうか。
――見たい。どうしても、今彼の顔を見てみたい。
自分でも無意識のうちに『奴良野水埜辺』という男に惹かれていたのだと、やっと気付く。手を差し伸べ、彼の頬もとに添える。一瞬、目を見開いたがすぐに水埜辺は裏業の手を受け入れた。
「……冷たいな」
まるで、縋るような目で裏業を見つめる。頬に添えられた裏業の手を、自分の手を重ねるようにして包み込んだ。その手も、冷たかった。
「……さあ、もうお行き。家の人が心配しているだろう」
「心配など、されないよ。だからもう少し、このまま……」
今宵は新月。雲が晴れ、月の灯りは少ないけれど間に差し込む星の光が彼に当たっている。
ふとのぞいた彼の目が潤んでいるように見えて、今にも泣きそうだと思った。まるで、親とはぐれてしまった子供のようだ。
「……今日は、やけに積極的じゃないか裏業ちゃん?」
「決めたんだ。私が私でいるために、あなたを見極めると」
この男を知り、橋具へ願うのだ。彼は
「ここで何をしている」
パッと目の前が明るくなる。明るくなった方に視線を向けると提灯を持った藩士が立っていた。
手に持った提灯には桔梗宮家の家紋が記されていたので、警護の門番だと推測できたが、裏業の中で何かが引っ掛かっていた。
「え、と。この男に道を尋ねていただけですが……」
ちらりと水埜辺の方を見る。「そうだよな?」と裏業は水埜辺に同意を求めてみるが、彼はただ黙ったまま門番のことを見つめていた。
彼のその視線に違和感を持った裏業は小声で水埜辺に話しかけようとした。しかし――。
「……奴良野殿……?」
「裏業ちゃん」
「な、なんだ」
「君、走れる?」
その言葉が、合図だった。