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第21話 不思議な一日

 居間にはお鈴が淹れたであろうお茶が置かれていた。湯呑から湯気がちらついている。

 お鈴は台所に向かいながら太助をあやしていた。これは、彼ら三人の話だと分かっているための配慮だろう。

 裏業は用意されていた温かいお茶を飲みつつ、話の続きを始めた。


「……許せませんよね、私のこと。憎いですよね」

「裏業」

「だってそうだろう? 自身の夫が死んだと知って、そのかたきが目の前にいる。またとない好機だろう……?」


 まるでそうしてほしいかのような表情で裏業は水埜辺を見つめた。

 もう疲れたのだ。人を断罪するのも、人に恨まれるのも、人を疑うのも。

 だから、断罪してほしい。彼女は、をしていた。


「芦屋様」

「――え?」


 裏業は腰に携えていた脇差の朝凪を糸音の目の前にそっと置いた。


「これを使い、私を殺してください」

「裏業!」

「奴良野水埜辺! 貴様は黙っていろ」


 その気迫に水埜辺は一瞬息を呑んだ。糸音は数秒間、目の前に置かれた朝凪を見つめていた。

 その間、彼女は一体なにを考えていたのだろう。一度目を伏せ、そして裏業を見つめた。

 そこには、怒りも、憎しみも恨みもなく、何故か彼女は笑顔を見せた。


「……どうして、笑うのですか」


 ふふっ、と糸音はまた笑う。


「どうしてって、だって可笑しいじゃないですか。あの人のことはもちろん愛していましたし今も愛しています。知らない間に事件を起こして、勝手に死んでしまっていたことについては正直驚きましたし、許せませんけど。でも、あの人のしてしまった盗みと、事故であれ、人を死なせてしまったことは当然許されることではありませんから」


 仕方がないと思ったのです、と糸音はお茶を一口すすった。朝凪を、壊れ物のように優しく触れ、裏業の膝元へと戻した。

 裏業は、彼女が一体何を言っているのか、理解ができていない表情をしていた。


「夫の最期を見送ってくれたのがあなたでよかった。ありがとうございました、乃花さん」


 礼を言われてしまった。どうして、礼なんかするんだ。私はあなたの夫を殺したんだぞ、と。頭の中での考えがまとまらず、こんなことは初めてで困惑する。


「あなたを憎むなんて、そんな小さいことしませんわ。むしろ、夫の所為であなたの手を汚してしまったことに申し訳なく思います」


 そう言って、固まった裏業の両手を包むように握った。びくりと一瞬、体が強張り、全身が緊張する。

 恐い、恐い。

 この汚れた手を触れてしまったら、この人に不幸が起こってしまうのではないかと、悪い想像ばかりが頭の中をぎっていく。手を放そうと肘を後ろへと引くが、その行動は無意味で、糸音が強く握っていたため上手く抜け出せない。


「な、なんで……!」

「あなたの手、冷たいのね……。大丈夫ですよ。人は簡単に死にませんから。少なくとも女は出産時死ぬかもしれないと本気で思うのですが、赤ん坊が生まれてきた瞬間、その顔を見たらそんなことはすぐに忘れてしまうの。可笑しいでしょう?」

「……?」

「乃花さん、太助のこと、抱いてあげてはいただけませんか?」


 また、肩に力が入る。そのことに気が付いた水埜辺はすかさず言葉を探した。


「大丈夫だ裏業ちゃん! 俺が抱いても泣かないような良い子だぞ?」

「それが何だと言うんだ」

。それをともしない、立派な男児だ」

「いつもそう言ってますよね水埜辺様。本当に面白い冗談」

「冗談では、ないんだけどな~……まあ、いいか! そういうことだから、大丈夫だ」


 今さらっと変なことを口走っていなかったか、この男? と若干、斬首対象である水埜辺のことを心配した。


「……いや、でも、」


 糸音はお鈴から太助を受け取り、裏業へと見せる。太助は汚れなど一切知らない目で裏業を見つめていた。

 その純真無垢な美しさに、罪悪感が生まれ、途端に涙が溢れて止まらなくなった。


「……すまなかった。お前の父を、救うことができなかった。太一郎殿には帰る場所があったというのに、帰らせてあげることができなかった……!」


 大粒の涙が太助の頬にひとつ、ふたつと落ちていく。それが面白いのか太助は笑顔だった。きゃっきゃっと裏業の顔へ手を伸ばし、雫を掴もうとしていた。その光景に、目を見開く。太助は伸ばした手で裏業の横髪をぐいっと掴んだ。引っ張られ、太助の顔に危うく重なりそうになる。目を丸くした太助。その宝石のような瞳に吸い込まれそうになる。


「あー、あぅー!」

「……太助が『泣くな』と言っているな」

「ええ。それと『気にするな』とも言っていますね」


 裏業は我慢していたものが決壊し、涙をぽろぽろと流し始めた。小さく、唸るように「ありがとう」と呟いたのだった。

 どうしてだか、とても温かい気持ちになった。こんな気持ちになったのはいつ振りだっただろうか。

 その事実に気が付いた瞬間、ふっ、と裏業の体から力が抜けた。すぐさま水埜辺は彼女を支えるようにして自分に抱き寄せる。幸い太助も裏業もどこも打たずに済んだ。


「え、ちょっ、裏業⁉ ……って、寝てる?」

「ずっと気を張っていたからではないでしょうか?」

「そう……だったのか?」

「どんなに強がっていても彼女はまだ子供ですもの。ずっと、心の中でくすぶっていたのかもしれませんね。自分は人殺しだから、人と接してはならないと。そう思っていたかもしれません」

「そんなことは、無いと思うがなあ」

「水埜辺様には無くても彼女には思うところがあるんですよ。責任感が強いんだと思います」

「……糸音が言うなら、そうなんだろうな」


 泣き腫らした瞳の目尻に溜まった涙を優しく拭う。眉間にしわが寄っているのが少しだけ和らいだ気がした。雨音が、彼女の気持ちを少しでも流していってくれるといいんだがな、と水埜辺はことを考えるのだった。

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