その日、裏業は水埜辺のことを一日中、観察していた。
ある時は村の老婆をおぶり、川の側まで連れて行っていた。きっとあの老婆は川へ洗濯へ行きたかった、しかし老婆は腰を叩いていたので川まで行くことが難しかったのだろう。そこを水埜辺に手伝ってもらったという光景だった。
またある時は村の子供たちにせがまれて遊び相手になっていた。
どうも、これが彼の仕事のようだったが、果たして本当にそうなのか? と裏業は疑問に思うばかりであった。
夕刻になり、田植えを手伝っている。どこからどう見ても、彼は人にしか見えなかった。
「……あれが人でなくて、何だと言うのだ」
あの奴良野水埜辺という男に出会ってから、裏業の中で何かが変化した。この気持ちは一体何なのだろうか。しかし、考えるだけ無駄なので雑念を振り払い、持ってきていた業務を進める。
「おんやぁ、こんなところまできて、ごくろうさんだねぇ」
「いっ⁉ な、なんだ……」
業務に集中していたあまり、背後に人がいることに気が付かなかった。話しかけてきたのは今朝みかんを水埜辺に渡していた、お鈴という老婆だった。
「どうしたんだいこんな場所にひとりで。あんた、水埜辺様の
「誰があんな男のつれなど……!」
「なんだ違うのかい。てっきり水埜辺様の彼女さんかと思ったよ」
「ぶっ⁉」
急に何を言い出すんだこの老婆は! 裏業は思わず吹き出してしまった。そのおかげで今まで書いていた紙面がぐちゃっと墨に塗れた。
お鈴が言うには、彼は村人たちに裏業のことを聞かれた際、「可愛いだろう? 俺のお気に入りなんだ」などと答えていたらしい。
――何・故・だ⁉
本気で理解しがたい。一体何だというんだ。
「それほど、あんたのことが大事なのさ。今まで妹さんや弟さんの話しかしてこなかった彼が、あそこまで他人に執着するなんてねぇ」
「……」
執着。
確かに、そうかもしれない。彼はいつも何かに依存し執着しているように見える。今に始まったことではなく、きっと昔からなのだろう。
「それはそうと、何を書いてるんだい?」
お鈴はそっと黒で塗れた紙面を指さした。裏業は一瞬だけお鈴の顔を窺い、紙面に視線を戻す。そしてぽそりと呟くようにして言う。
「……人の、人生の記録を」
「それは…………」
お鈴はそれ以上の追究はしなかった。
裏業の業務には二種類あった。ひとつは、罪人の首を斬る斬首人としての仕事。もうひとつは、その断罪した者たちの人生を紙面に書き記すことだ。
これは、誰にも知られずに死んでいく罪人を少しでも記録することで唯一の供養になると前任からの教えであった。
裏業はこんなことをしても無駄だと分かっていた。それでもこの教えを守るのには理由があった。
「私は、もう人には戻れない。だからこうしてせめて、あの人たちのことを記録している」
果たして私はあの男よりも人間ではないのかもしれない。人を殺しているのだ。人間ではできない所業だ。戒めにも似ているとさえ思う。
それでも、血に汚れた両手は人に触れてはならない気がして、ぐっと握り、どこにも出すことの出来ない感情を無理やり言葉と共に押し込めた。
「――人に戻れないってなに?」
「奴良野殿……?」
いつの間にか、裏業のもとに戻っていた水埜辺はどこか怒りのようなものを抱えた声で裏業に問う。その怒気に裏業は一瞬だけ怯んだ。
「君は俺とは違うだろう? どこからどう見たって可愛らしい女の子だ。そんな悲しいことを言わないでおくれ」
「……奴良野殿には、到底理解はできない。で、どうしたんだ。田植えは終わったのか」
「あ、うん。それはね。……ねえ、裏業ちゃん。やっぱり芦屋の家に一緒に行こう? どうしても、君には見てほしいんだ」
「しつこいぞ。何度も言うが私は行かな――」
その瞬間、サァ……と裏業の顔色が急激に青く変化した。その異変にいち早く気が付いた水埜辺がぐらりと目の前で揺れた彼女をとっさに支えた。
「裏業ちゃん? どーしたー」
返事がない。その小さい体はカタカタと震えている。目を見開いて、まるで怖いものでも見たかのような表情で水埜辺に支えられていた。
「顔色が悪いわねぇ。うちに来て温かい飲み物でも出そうかね、水埜辺様」
「うん、そうしてくれるとありがたいよ、お鈴。少し落ち着いたら向かうから」
お鈴は冷静に状況を把握し、そして家へ戻った。流石年の功と言ったところか。感心している場合ではなかった。
当の裏業はといえば、いくらさすっていても体の震えが治らない。それどころか小刻みに浅く息をし始めた。この症状は過呼吸に似ていたが、水埜辺はこれはこの間のものとは違うように思えた。
「裏業~、俺の言葉が分かるか? 分かるなら、手、握ってみてくれるか」
裏業はその時、きっと無意識だっただろうが、水埜辺の言葉に反応して手をきゅっと握り返した。うん、言葉は聞こえているようだ。
「意識はあるな」
「…………だ、した……」
「ん?」
「思い、出した……。やっぱりだめだ! 私は、その者に会うことはできない!」
「だからどうして?」
どうしてそこまで頑なに嫌がるのだろう。
水埜辺はできる限り優しく裏業に問い掛けた。
「だめなんだ……どうしても……。私には、その資格が、ない……っ」
けれど、消え入りそうな声でそう水埜辺に訴えかける。
どこからか雨雲がやってきてそのまま雨が降り始めた。
サァア……と優しくも冷たい雨が二人の肩を包むように濡らしていく。
「……たとえ、どんな理由があっても、見るだけでいい。何より、君に会いたいと芦屋本人が言っているんだ」
裏業は必死に引き留める水埜辺に心を折り、渋々頷いた。