奥老院より西へ向かって行くと、橋具の母屋である
「奴良野水埜辺、裏業、入りまーす」
軽い感じで入室することを報告し、橋具のいるであろう部屋の襖を引いた。しかし、入室して最初に目に入ったのは珍しい来客であった。
「……あれ、珍しいお客さんだね、橋具くん」
「貴方は……」
「ああ、お久し振りでございます水埜辺殿。羽柴秀吉にございます」
「秀吉殿、今日から貴殿は『豊臣』と名乗るようにと言ったばかりだろう?」
「ああ、そうでした。申し訳ありません、橋具様」
「あー! 秀吉くん! 本当に久し振りだねぇ。信長くんが死んでからだから……ちょうど五ヵ月くらいかな?」
「ええ、そうなりますかな」
羽柴秀吉――かの、天下統一に最も近いとまで言われた織田信長の家臣が一人。今は彼が最も天下に近いと云われている。そんな男が何故ここにいるのか、裏業は不思議に思っていた。
水埜辺が話を切り出した。
「今日はどうしてここに?」
「本日は橋具様にこの度相談をしに参った次第で」
「へえ~」
水埜辺は感情なくぽそりと呟く。何を思ったのかは分からないが「可哀想な秀吉くん。その地位を手にしても主君とするものに仕えなければいけないなんて」と、とても残念そうに呟いた。どうしてそんなことを呟いたのか、隣で聞いていた裏業にはさっぱりだった。
「豊臣……。名字、もらったんだね。とてもいい名前だと思うよ。で、どうしてそんなおめでたい門出に俺が呼ばれたのか、とても気になるのだけれど?」
水埜辺の視線が橋具へと向けられる。顔は笑っているはずなのに目が笑っていない。裏業の体が身震いした。
「……そうだったな。お前にはこの豊臣秀吉についてもらおうと思ってね。お前には、何でも面白い噂があると聞いてね」
「……はて。何のことやらさっぱりだね」
「力を貸した者に国を統べるほどの力を何でも与えるとか?」
ピクリ、と水埜辺の動きが止まる。空気が一変したのを感じ取った裏業は思わず下げていた
「そんな噂を、君が信じるのかい?」
「事実なのだろう?」
「……誰から始まったのか、いつから広まったのかは分からない。奴良野山を屈服させれば神の力を手にすることができると。はは、馬鹿馬鹿しいねえ。実際あの山を落とした者はいないし、力を手にした者もいない。そんな曖昧なものを、君は信じるの?」
「もしその話が真実ならば、秀吉殿についてもらえると、私的には大変ありがたいのだけれど?」
「秀吉くんがこの先、この日の本の天下を手にすると?」
「ああ、そうだ」
「俺は誰にもつかない。そんなくだらない話なら帰る」
「水埜辺殿!」
秀吉の声も聞かず、水埜辺はさっさと出て行ってしまった。
裏業はどうしてだかその時、水埜辺を止めようとしていた。そのことに、彼女は純粋に驚いた。自分ですら自分の本当の気持ちが分からなくなっていたのだ。
――今彼を呼び止めなければ、彼は私に殺される。
それが裏業の役目であり、そして生きる理由なのだ。けれど何故か今まで何も感じていなかったのに彼のことを考えると裏業の仕事はしたくないと思うのだ。調子が悪いのだろうかと胸に手を当ててみるが、いや、体の調子が悪いわけではないようだった。けれど、彼のあんな顔を見たくなかった。その表情を見た瞬間、裏業は戸惑いを隠せずにいた。考えるよりも先に足が出ていた。
屋敷玄関口にて草履を履いている途中の水埜辺を見つけると裏業は構わず彼を呼び止めた。
「ま、待ってくれ、奴良野水埜辺!」
がしり、と呼び止めるだけだったはずが勢いのあまり彼の羽織を掴んでしまう。
「え?」
恥ずかしさが徐々に顔にまで込み上げてくる。赤くなっているに違いない。彼の顔が見られない。
「ど、どうしたんだい裏業ちゃん?」
「あ……いえ、いや? えっと……」
「? 顔が赤いね、熱でもあるんじゃ……」
「いや! それはない――」
「ちょっと、いつまで兄様の羽織を掴んでいるの。早く放しなさいよ」
水埜辺のみだと思っていたから油断していた。目の前には水紀里が苛立ちを隠さずに立っていた。帰ったのではなかったのか。裏業はゆっくりと水埜辺の羽織を放した。
「す、すまない」
「いや、大丈夫だよ。水紀里もそんなに怒らない。羽織が皴になったくらいで怒ることはないだろう?」
「そ、それはそうですが……。申し訳ございません」
「その言葉は裏業ちゃんに伝えるべきだよ。俺は気にしてないから」
「……申し訳ございません。裏業殿」
「いや、こちらこそ。急に掴んだりして悪かった」
「それは俺に言うべきなんじゃないのかな、裏業? ま、まあいいか。それで? どうかしたのかい?」
どうかしたのかい、と言われて、どうかしていたのは自分の思考だったと気付く。
「止めないと、いけないと思ったのだ……。よくは分からないが、体が勝手に動いていた……。引き留めて、悪かった……」
感情が揺れていることに思考が追い付かず、裏業はそのままその場に固まってしまった。いつもと違う彼女を不思議に思った水埜辺はどうしていいのか分からず、裏業の頭をとりあえず撫でた。
「……な、にを……」
「え、えーと、泣きそうだった……から?」
「私は泣いてなんかない! 引き留めてすまなかった!」
裏業は水埜辺の手を振り払いその場から逃げ出すようにして戻って行った。
「……何でしたの、今の」
「……さあ? ところで、戻っていたのではなかったのかい水紀里?」
「私がいなくて誰が兄様を守るというのです?」
「過保護だな~。大丈夫なのに」
「ダメですわ! もうすぐ新月ですもの。注意深くもなりますわ」
「そうか、もうすぐ新月になるのか。忘れてたなー」
「そうだと思いましたわ。兄様ときましたらいつもそうなんですから」
先程までムスッとしていた水紀里であったが、二人きりになった瞬間クスクスと笑い始める。一時はどうなるかと思ったが落ち着いたようで水埜辺は安堵した。
「いやー、疲れた。水紀里、あんみつでも食べに行こうか」
「はい、兄様」
二人は手をつなぎ、屋敷近くにあるという、あんみつ処へと向かって行った。