「星矢くん、音楽室の鍵、お願いしてもいい?」
部長の翔子先輩はグランドピアノの上に鍵を置いた。
「あ、はい。大丈夫です。今日は自主練習しておこうかなと」
「あれ? フルート吹かないの?」
「たまにはピアノも良いかなと思って、少し練習します」
星矢はおもむろにピアノの前に座り、鍵盤の赤いカバーを取って、綺麗に畳んだ。
久しぶりにピアノをひくため、緊張していた。
「え! 星矢くん、ピアノ弾けたの?」
「ええ、まあ。中学の合唱コンクールでピアノ担当してましたけど、そこまで上手には弾けないですよ」
「ピアノ担当するくらいってかなり弾ける人じゃん。聴いててもいいかな?」
「うまくはないですけど、それでも良ければいいですよ」
星矢は深呼吸して、両手をピアノの上に乗せた。星矢の中にいるピアノを弾ける自分を憑依させた。
ポロンと優しい音色が響いていく。
「あれ、これ、聴いたことあるよ。良いね。上手だなぁ」
教壇の上に頬杖をついて聴き惚れていた。
星矢は翔子先輩の声も聴き取れず、ピアノ演奏に熱中していた。
まるまる1曲を弾き終わると、すぐに鍵盤を片付けた。
「あれ、もうピアノやめちゃうの? もっと聴いてたかったなぁ。さっきの曲って、モーツァルトのフィガロの結婚でしょう? 聴いたことあるね」
「そうです。楽譜持ってなかったのでどんなだったかなって思い出したかったんです。どうにか、フルートも吹けるかも」
星矢は、フルートを持ち上げて、ゆっくりと吹きはじめた。
「ふーん、随分熱心だね。誰のためかな? 私?」
その声を聴いて星矢は吹くのをやめた。
「ち、違いますよ〜誰かのためとかじゃなくて自分が吹いてみたかっただけです」
「そーなんだ。耳が赤くなってるけどそういうことにしておこう。私がずっと聴いてても問題ないってことかな?」
「え、あ、え……それは、その……」
「知ってるよ。翔太のためでしょう。それくらい分かるから。そろそろ私は退散します。バイバイ」
翔子先輩はそう言って、音楽室を後にした。星矢は1人汗をふっ散らかして、フルートの練習を始める。
ちょうどその時、野球部のフェンスの鍵を持って、1人で翔太がやってきていた。
何も声をかけずに花壇に座って星矢のフルートを聴き入っていた。
星矢は必死になって、上手く弾けるようにとフルートに意識を集中していた。
そこへ翔子先輩が翔太の様子を遠くから見守っていた。翔子はとても微笑ましく感じた。
ゆっくりとした時間が流れていた。