紗菜は、目の前で香ばしい香りを昇らせているホットコーヒーに手もつけず、身じろぎもせずに考え込んでいた。
紗菜に声をかけた男子は、柴本順三と言う大学生だった。もちろん、紗菜に年上男子の知り合いなどいない。中学で親友の桜井有紀と出会ってからずっと、女子ヲタ人生まっしぐらだったのだ。現在は高校二年生だが、明るく活発なオタクの有紀と違い、紗菜はクラスでも陰キャと思われている。そんな彼女に彼氏などいるはずもない。それどころか男子の友人さえ数えるほどしかいないのだ。
だが、紗菜には柴本が友人である記憶があった。
それどころか、生まれてからこれまで、男子として育ってきた記憶がちゃんとある。もちろん、片平紗菜として生きてきた記憶の方が、より彼女自身のものだと言う感覚はある。だが、現在大学二年生男子である自分の記憶も、しっかりと頭の中にあるのだ。
紗菜にはこの状況が全く理解できなかった。
ひたすら混乱していた。
「まぁ、ホットでも飲んで、落ち着いたほうがいい」
柴本はそう言うと、自分のカップを持ち上げ、ずずっとすする。
紗菜はとりあえず、ふうっと大きく息を吐いた。
何が起こっているのかは全く分からないが、まずは現在の状況をしっかりと把握すべきだろう。
野口大輔、それが紗菜の今の名前だ。
性別は男子。19歳の大学二年生である。
一緒にいた柴本は、浪速芸術大学入学時からの友人で、すでに一年以上の付き合いだ。簡単に言えばオタク仲間である。今日も大学帰りに、大阪梅田のキデイランドに趣味である玩具を物色しにやって来た。
そう理解できる記憶はある。
だが、紗菜は女子高生なのだ。そう簡単に、この状況を受け入れられるはずもない。とりあえずついさっき、トイレに駆け込んで確認はしてみた。まぁ、何の迷いもなく女子トイレに入ろうとした紗菜を、柴本があわてて止めてくれたのだが。
男子だった。
紗菜は、まぎれもなく男子だったのだ。
赤面してトイレから出てきた紗菜に、柴本は心配そうに声をかけてくれた。
「顔色が悪いぞ、ちょっとそこのベンチで休むか?」
変わったのは性別だけではない。
紗菜が気づいた時、その場所は大阪梅田のキデイランド内だった。
秋葉原のオタクショップにいたはずなのに。
そしてもっと驚いたのは、時間まで変わっていたのである。
キデイランドの看板の次に、彼女の目に止まったのは壁に貼られたポスターだった。
『阪急三番街☆1981年スプリングセール!』
まさかここは25年以上も昔の世界なの!?
そう思い周りを見回すと、街行く人たちの手にスマホが無い。
「ね、柴本ってiPhone持ってたっけ?」
慌ててそう聞いた紗菜に、柴本が不思議そうに首をかしげた。
「アイホンて、ピンポーンてドアチャイムの名前だろ? そんなもん持ち歩くわけないけど?」
アイホンは、アイホン株式会社が1954年に発売したドア用インターホンの名前だ。この時に発売されたのは「アイホンC型」というドアホンで、これがアイホンというブランド名の由来にもなっている。
もちろん、1981年にiPhoneが存在しているはずもない。
本当にわけが分からない。
だが、とりあえず現実を受け止めるしかないのである。
私は野口大輔、19歳の男子で浪速芸術大学デザイン学科の二年生。
どうして芸大? 私、絵へたっぴなのに?
「おーい!面白いもの見つけたぞ!」
紗菜が必死で考えをまとめようとしていた時、一人の男性がそう言いながら駆け寄ってきた。
紗菜の、いや大輔の同級生の一人、橘裕也である。今日は三人でこの場所に来ていたのだ。
柴本が彼に顔を向ける。
「面白いこと? 何を見つけたんだ?」
「それがさ、掲示板に楽しそうな張り紙があってさ」
「掲示板?」
「うん、この店からお客さんへの掲示板だよ。バーゲン情報とか、バイト募集とか色々貼ってある」
「へぇ、そんなのあったんだ」
「ちょっと見に行こうよ!」
柴本が心配そうに紗菜の方に目を向けた。
「私なら大丈夫。一緒に行く」
そう言って立ち上がった紗菜と共に、三人揃って掲示板へと向かった。
『集え!おもちゃ好き!いっしょに玩具サークルを作りませんか?』
張り出されていたレポート用紙のような紙に、手書き文字の大きな見出しが踊っている。
この店に来て、しかもこの張り紙を見ているということは、あなたはきっと玩具マニア!だったら、同好の士としていっしょに玩具サークルをやりませんか?
要約するとそんな内容だった。
そして今である。
紗菜たち三人は一人の店員に導かれ、少し離れた場所にある喫茶店へ移動することになった。三人が到着した時、その店にはすでに10人ほどの男性たちが集まっている状態だ。
まずは店員が口を開く。
「私は渡橋一郎と言いまして、あの店の店員です。いつもご利用いただき本当にありがとうございます」
もしかして店の宣伝?
そんな思いで、いぶかしげに彼を見つめる男たち。
「皆さんが考えていることは分かります。でも、ここに集まっていただいたのは、店の宣伝と言うより、私個人がオモチャが大好きだからなんです!」
いったいこれから何が始まるのか?
現状を理解しようとしていた紗菜も、一気にその話に引き込まれていった。