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第3話 店の掲示板

 紗菜は、目の前で香ばしい香りを昇らせているホットコーヒーに手もつけず、身じろぎもせずに考え込んでいた。

 紗菜に声をかけた男子は、柴本順三と言う大学生だった。もちろん、紗菜に年上男子の知り合いなどいない。中学で親友の桜井有紀と出会ってからずっと、女子ヲタ人生まっしぐらだったのだ。現在は高校二年生だが、明るく活発なオタクの有紀と違い、紗菜はクラスでも陰キャと思われている。そんな彼女に彼氏などいるはずもない。それどころか男子の友人さえ数えるほどしかいないのだ。

 だが、紗菜には柴本が友人である記憶があった。

 それどころか、生まれてからこれまで、男子として育ってきた記憶がちゃんとある。もちろん、片平紗菜として生きてきた記憶の方が、より彼女自身のものだと言う感覚はある。だが、現在大学二年生男子である自分の記憶も、しっかりと頭の中にあるのだ。

 紗菜にはこの状況が全く理解できなかった。

 ひたすら混乱していた。

「まぁ、ホットでも飲んで、落ち着いたほうがいい」

 柴本はそう言うと、自分のカップを持ち上げ、ずずっとすする。

 紗菜はとりあえず、ふうっと大きく息を吐いた。

 何が起こっているのかは全く分からないが、まずは現在の状況をしっかりと把握すべきだろう。

 野口大輔、それが紗菜の今の名前だ。

 性別は男子。19歳の大学二年生である。

 一緒にいた柴本は、浪速芸術大学入学時からの友人で、すでに一年以上の付き合いだ。簡単に言えばオタク仲間である。今日も大学帰りに、大阪梅田のキデイランドに趣味である玩具を物色しにやって来た。

 そう理解できる記憶はある。

 だが、紗菜は女子高生なのだ。そう簡単に、この状況を受け入れられるはずもない。とりあえずついさっき、トイレに駆け込んで確認はしてみた。まぁ、何の迷いもなく女子トイレに入ろうとした紗菜を、柴本があわてて止めてくれたのだが。

 男子だった。

 紗菜は、まぎれもなく男子だったのだ。

 赤面してトイレから出てきた紗菜に、柴本は心配そうに声をかけてくれた。

「顔色が悪いぞ、ちょっとそこのベンチで休むか?」

 変わったのは性別だけではない。

 紗菜が気づいた時、その場所は大阪梅田のキデイランド内だった。

 秋葉原のオタクショップにいたはずなのに。

 そしてもっと驚いたのは、時間まで変わっていたのである。

 キデイランドの看板の次に、彼女の目に止まったのは壁に貼られたポスターだった。

『阪急三番街☆1981年スプリングセール!』

 まさかここは25年以上も昔の世界なの!?

 そう思い周りを見回すと、街行く人たちの手にスマホが無い。

「ね、柴本ってiPhone持ってたっけ?」

 慌ててそう聞いた紗菜に、柴本が不思議そうに首をかしげた。

「アイホンて、ピンポーンてドアチャイムの名前だろ? そんなもん持ち歩くわけないけど?」

 アイホンは、アイホン株式会社が1954年に発売したドア用インターホンの名前だ。この時に発売されたのは「アイホンC型」というドアホンで、これがアイホンというブランド名の由来にもなっている。

 もちろん、1981年にiPhoneが存在しているはずもない。

 本当にわけが分からない。

 だが、とりあえず現実を受け止めるしかないのである。

 私は野口大輔、19歳の男子で浪速芸術大学デザイン学科の二年生。

 どうして芸大? 私、絵へたっぴなのに?

「おーい!面白いもの見つけたぞ!」

 紗菜が必死で考えをまとめようとしていた時、一人の男性がそう言いながら駆け寄ってきた。

 紗菜の、いや大輔の同級生の一人、橘裕也である。今日は三人でこの場所に来ていたのだ。

 柴本が彼に顔を向ける。

「面白いこと? 何を見つけたんだ?」

「それがさ、掲示板に楽しそうな張り紙があってさ」

「掲示板?」

「うん、この店からお客さんへの掲示板だよ。バーゲン情報とか、バイト募集とか色々貼ってある」

「へぇ、そんなのあったんだ」

「ちょっと見に行こうよ!」

 柴本が心配そうに紗菜の方に目を向けた。

「私なら大丈夫。一緒に行く」

 そう言って立ち上がった紗菜と共に、三人揃って掲示板へと向かった。

『集え!おもちゃ好き!いっしょに玩具サークルを作りませんか?』

 張り出されていたレポート用紙のような紙に、手書き文字の大きな見出しが踊っている。

 この店に来て、しかもこの張り紙を見ているということは、あなたはきっと玩具マニア!だったら、同好の士としていっしょに玩具サークルをやりませんか?

 要約するとそんな内容だった。

 そして今である。

 紗菜たち三人は一人の店員に導かれ、少し離れた場所にある喫茶店へ移動することになった。三人が到着した時、その店にはすでに10人ほどの男性たちが集まっている状態だ。

 まずは店員が口を開く。

「私は渡橋一郎と言いまして、あの店の店員です。いつもご利用いただき本当にありがとうございます」

 もしかして店の宣伝?

 そんな思いで、いぶかしげに彼を見つめる男たち。

「皆さんが考えていることは分かります。でも、ここに集まっていただいたのは、店の宣伝と言うより、私個人がオモチャが大好きだからなんです!」

 いったいこれから何が始まるのか?

 現状を理解しようとしていた紗菜も、一気にその話に引き込まれていった。

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