片平紗菜はオタクである。
生まれてからの17年、ずっとそうだったわけではない。中学で出会った親友、桜井有紀がその元凶だった。入学して最初のクラスで、紗菜と彼女が隣同士の席になったのは単なる偶然だ。だが有紀との出会いは、紗菜の人生を大きく変えることになった。
有紀は、超が付くほどのオタクだったのだ。
しかも、明るくて活発なオタクという、ちょっとたちの悪い種類だった。まわりにオタクの楽しさを伝染させるのである。そういうわけで、いつしか彼女は友人たちから「ヲタフルエンサー」と呼ばれていた。
まだ何者でもなかった紗菜にとって、有紀が語るオタクの世界はとても楽しげで、幸せに溢れているように感じられたのだ。そしてあっという間に紗菜自身も、オタクの道をまっしぐらに突き進むことになったのである。
「見るだけでもいいので、ぜひ手にとってみてくださーい!」
紗菜の隣に座る男性がA4サイズの少し薄い本を手に、ひときわ大きな声でそう叫んだ。有紀と初めて出会った時のことを懐かしく思い返していた紗菜は、ハッとして顔を上げる。パイプ椅子に座っている紗菜の前には長机。そこには、A4サイズを始め、B5やハガキ大などの冊子がいくつも平積みされていた。
同人誌だ。
周りを見渡すと、ズラリと並んだ長机には同様に同人誌が積まれている。そしてそれを売る売り子と、物色する多くの客たちで溢れていた。
そうだ。今日は初めてのコミケに来ているのだ。しかも一般参加ではなく、サークル参加である。昔のことを思い出している場合ではなかった。
俗にコミケと呼ばれるコミックマーケットは同人誌即売会だ。毎年8月と12月の年2回、東京国際展示場(東京ビッグサイト)で開催されている。同人誌を販売する出展者2万サークル、それを買いに来る来場者数約26万人を誇る世界最大の同人誌即売会なのだ。
だが、紗菜のいるこの場所はビッグサイトでは無かった。その象徴とも言える逆ピラミッド型の建物も見えない。代わりにそびえ立つのは、銀色に輝く巨大なドーム型の建造物だ。この通称「ガメラ館」が、コミケのメイン会場となっている。
東京国際見本市会場。
かつて、東京都中央区晴海に存在した巨大なコンベンション・センターである。東館、西館、南館、新館などの7施設で構成され、その展示面積は56121平方メートルを誇っていた。コミケの参加者からは、親しみを込めて「晴海」と呼ばれていたこの場所も、老朽化や各イベントの肥大化で手狭になったこともあり、1996年に閉鎖され廃止となった。その後継となっているのが、東京ビッグサイトや幕張メッセである。
紗菜は、今回のコミケ会場となっている「晴海」の南館二階にある広大な展示室の壁に目をやった。そこには白い布製の横断幕が張られている。
「コミックマーケット19」
現在コミケの開催は、すでに100回を超えている。
コミックマーケット19は1981年12月20日に、会場を初めて晴海に移して開催されたものだ。参加サークルも、現在の2万に対してまだ600ちょっとに過ぎない。訪れる参加者の人数も約9000人と、現在の26万人とは比ぶべくもない。だが会場は活気に満ちていた。自分たちの手で新しい文化を作り上げていく喜びに、皆興奮を隠せないでいるのだ。
それこそがコミケだった。
まぁ、当時は「コミケ」ではなく「コミケット」と呼ばれていたのだが。
「耳をすまさなくちゃ」
紗菜には、この場所でどうしても実現させたいことがあった。友人たちと同人誌まで作り、今日ここへやってきたのにはハッキリとした目的があるのだ。
それは、歴史の目撃者になることである。
「アキバのホコ天て、ちょっとおかしいよね」
月末の日曜日。歩行者天国になっている中央通りの真ん中を歩きながら、桜井有紀は親友の片平紗菜にそう言った。
「何がおかしいの?」
紗菜が首をかしげて有紀に聞く。
「だって、せっかくのホコ天なのに、歩道を歩いてる人の方が多いよ」
確かにそうである。
人通りが少なく歩きやすい車道と違い、多くのインバウンド客も含め歩道には人が溢れている。そんな人混みに目をやりながら、紗菜が肩をすくめた。
「多分だけど、みんなここにはお買い物とか目的を持って来てるから、お店にすぐに入れる歩道の方がいいのかも」
「紗菜すごい!それ正解かも!」
有紀が感心したような表情を紗菜に向けた。
秋葉原は実に面白い街である。
戦後の闇市から始まり、この地で様々な文化が生まれ育った。しかもそれらが喧嘩することなく共存し、同時に発展していく街なのだ。
ラジオの街。
無線の街。
家電の街。
テレビの街。
マイコンの街。
ビデオの街。
パソコンの街。
ゲームの街。
アニメの街。
萌えの街。
そして、かつて鉄道博物館も存在し、鉄道の街でもあった。
こうして羅列していくと明らかになるのは、アキバはオタク文化全てを生み育んできた街だと言うことだ。
有紀がスマホを取り出し、トントンと数回タップしてマップを確認する。
「たぶん、あそこの一本奥の通りだと思う。早く行こ!」
そう言うと彼女は、紗菜を置いて駆け出した。
今日の二人は、お目当ての中古同人誌を探しにこの街へやって来たのだ。有紀の向かう先は、あらかじめ探しておいた中古同人誌店に違いない。
「ちょっと待ってよ!」
紗菜もあわてて、有紀の後を追った。