「ねえ、きな粉餅どこに行ったか知らない?」それは、水原玲子の問いかけだった。散らかった冷蔵庫の中をごそごそとしている。
「知らなーい」あどけない返事をしたのは、みっちゃんこと娘のミキだ。玲子の問いかけに対して顔を上げず、読書に勤しんでいる。本のタイトルは『現代妖精のすべて』。
「みっちゃん、読書もいいけどね、もう少しまともな本にしなさい」と玲子。「まともな本? この本はまともじゃないってこと。ぷんぷんしちゃう」
「母さん、好物のきな粉餅が見つからないからって、娘にあたるのは感心しないなぁ」この家の主である篤は、やんわりと注意する。しかし、それが玲子の逆鱗に触れた。
「じゃあ、あなたは大好きなお酒がいつの間にかなくなっていても、怒らないのよね?」
「いや、それとこれとは話が……。ともかく、きな粉餅は母さんが食べたんだよ。それを忘れてるだけだ。違うかい?」篤は手に持ったウィスキーをぐいっと飲む。まだ土曜日の昼間だが、これが水原家の日常である。
「まさか! 私はきちんと管理しているの。ほら、この帳簿を見て。いつ何を冷蔵庫にしまったか、きっちり書いているわ」玲子が水戸黄門の印籠のように掲げた本には『水原家 冷蔵庫管理帳簿』と書かれている。開かれたページには「○月×日 きな粉餅をしまった」と書かれている。冷蔵庫から出した日にちは空欄のままで帳簿が正しければ、きな粉餅がなくてはおかしい。
「分かったー、妖精さんの仕業だよ!」と、ミキが割って入る。母親の真似をして、『現代妖精のすべて』を掲げたが、重さのあまり手からすべり落ちる。本は見事に篤の足に一撃を加えた。「痛いっ!」
「妖精さんはね、すごく小さいの。それに、簡単な魔法を使えるから冷蔵庫を開けて食べるなんて朝飯前なの。よく調べたら、妖精さんの足跡が見つかると思う!」ミキは虫眼鏡を持つ真似をする。
「面白いお話ね。でもね、妖精なんていないの。みっちゃん、もう少し物事を現実的に考えなさい。今から全員の指紋採取よ。科学にかかれば犯人はすぐに分かるのよ」いつの間にか玲子はセロテープを持っている。
篤は首を傾げる。「なあ、母さん。冷蔵庫は三人とも触っているんだから、指紋があって当然だろ。逆に三人以外の指紋があったら……。考えただけでも恐ろしい」
「それもそうね。でも、おかしいわ。管理簿によれば……」
「母さんが書き忘れたんだよ。ほら、誰にでもあるだろ。好物に夢中で他のことを忘れることが。……そうだ、昨日はありがとうな」
「ありがとう? 私、何かしたかしら?」玲子は心当たりがないようで、キョトンとしている。
「いや、氷だよ、氷。昨日は朝に氷を作るのを忘れてたんだ。で、忘年会から帰って一杯やるときには氷があった。作ったの、母さんじゃないのかい?」篤の問いかけに玲子は首を振る。
「違うのか。そういえば、昨日の酒、なんか妙に甘くてコクがあった気が……」
「えっ……ちょっと待って、まさか……」玲子は肩をワナワナと震わせている。
「つまり、父さんが飲んだウィスキーはきな粉餅割りだったわけだ!」
一瞬の静寂。
「……って、うわああああああ!」