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第31話 閣下覚醒、リズそっちのけで急展開なのです。

 歌劇は、大変すばらしいものだった。カーテンコールも終わったが、二人とも座席から動けずにいた。


 国内外の多くの舞台を観てきているレオの目から見ても、五本指に入る素晴らしさだった。

 壮大な物語でありながらも観客が身近だと感じるエピソードがそこかしこに散りばめられて飽きることがない。そして、熱のこもった演者は当然のこと、音楽も衣装も舞台装置も小物に至るまで一切妥協がなかった。それらが撚り合わさって見ているものを惹きつけるエネルギーの塊となっている。

「……夢中で見てしまったな……」

「……時間を忘れましたわ」

「うむ。俺は健気な主人公を懸命に応援してしまったよ」

「わたくしは、脇役ですけど……ヒロインを誰よりも愛し、自分と結婚して子を産んで欲しいと思いながら、それを告げずにヒロインのやることを応援していた殿方に心打たれました」

 こんな方がいたら素敵なのに、と、うっとりしながらリズが言う。もしここにアンドリューがいたなら、レオに今こそ自己アピールせよとアドバイスしたに違いない。

 だがレオは恋愛そっちのけで、


――国内にこんな優秀な歌劇団があったとはな……迂闊だった……


 他国の王家専属などにならないよう、手を打つ必要があるな、などと考えている。立派な仕事人間なのである。

 娯楽は大切である。娯楽がなくなると、町や人々から余裕と笑顔が消えて心が荒んでしまう。

 それにしても、王族の演説も、このくらい熱心にやらなくては民衆の心には届かないだろう。バルコニーに出て無言で手をふれば民に支持してもらえた時代は疾うに終わっている。

「俺の代でそのあたりも改革しないとな……」


 ふとレオは、はぁ、と、呆けたような吐息を漏らすリズを見た。

 上気して薄ピンク色に頬を染めたリズがゆっくり瞬きをしながら舞台へ視線を注ぎ続けている。余韻に浸っているのだろう。

 日頃イシュタルと呼ばれて令嬢たちを蹴散らしている、闘気に満ちた彼女とはまったく異なる。

 途中でちらりと見たリズは、本来のシュテファンの相手探しという目的をすっかり忘れて舞台に見入っていた。すっかり感情移入していたらしく、ハッと息を呑んだり身を乗り出したり。ここまで熱心に舞台を見るレディを他に知らない。


「レオさま……」

「ん?」

「とっても…………」


 リズの言葉が途切れた。だが、素敵だった、と、リズの目が潤む。その目に、やけに力強い光が灯っている気がしてレオは思わずリズを覗き込んだ。

「わたくし……来世はオペラの舞台に立ちたいですわ」

 リズの桜色の唇が動いて、そう紡いだ。いや、呟いてしまった。

「来世? 死んだ後のことだね。まったくレディは面白いことを考える」

 レオが笑う声を聴いて、あ、と、リズは慌てたように口をおさえた。うっかり転生に関することを喋ってしまった。とりつくろわなければ、と思うが、舞台が素晴らしすぎた余韻で頭がちっとも回らない。

「えっと、その……」

「いいんだ、いや、わかるよ。次の人生では舞台女優になりたいと思うくらい、この舞台がすばらしかった。そういうことだと思う」

「ええ……そうなのです! お客さまの心と視線を独り占めにして……仲間と一つの作品を作り上げる……なんて素敵なのでしょう」

 前世――リサだったころに、舞台もドラマも映画もこなしている。が、ミュージカルやオペラの経験はない。

「ぜひ一度、やってみたいとずっと思っているの。でも、今は無理よ……田舎領主とはいえ、侯爵家の令嬢ですものね……」

 うんうん、とレオも頷いてくれる。

 レオが想像しているであろう事柄とリズがうっとりと喋っている事柄はスケールがかなり違うのだが、詳しく説明しなければ問題ないのである。

「ああ、レオさま。素敵な舞台を、ありがとうございました。とても楽しかったですわ」

「いや、俺も楽しかったし、きみがここまで楽しんでくれてチケット入手した甲斐があったというものだ」


 実際、リズはいつも喜んでくれる。素直な感情を見せてくれる。

 そして、自転車や双眼鏡など目新しい道具を持ってきてくれるので、レオにとっても刺激になっている。だから、張り込みを手伝うのも腹心の部下を尾行するのも、ちっとも苦ではない。

「レオさま、次回はわたくしが、何かご招待いたしますわね!」

「本当かい? 楽しみにしているよ」

「そうだわ。狩り……えっと、いえ、そう! 競馬などいかがでしょう? わたくしの馬たちが新馬戦とGIとオープン戦を走りますの」

「おお、すごいな! 俺、馬が大好きなんだけど、競馬のレースを競馬場で見たことがないんだよ……」

「でしょう? 調教もご覧になりますか?」

「いいのかい? 嬉しいなぁ」


 もしここに、気の利くアンナベルやアンドリューがいたなら、もう少し『それらしい場所』でのデートに慌てて軌道修正したであろうが――あいにく、アンナベルもアンドリューもここにはいない。


「……おっと、レディ! 大変だ。シュテファンの野郎、会場から出ていくぞ」

「え!」

 急ぐぞ、と、レオがリズの手を取った。はい、と、リズも自然にその手を握り返す。二人して小走りで会場を後にする。

 繋がった場所が、とくん、と熱を持った。が、リズはそれを「気付かなかったこと」にした。

「レディ・リズ、馬車に乗って!」

「はい!」

「頼む、前の馬車を追いかけてくれ」


 飛び乗った瞬間、妙に広くやたら乗り心地の良い馬車であることに、リズは違和感を覚えた。勘の良いレディなら、それがこの国の最高級馬車で王族が乗るレベルだとわかったはずだが……リズは、鈍かった。

「ひょっとして、馬マニアではなく馬車マニア?」

「何か言ったかい?」

 ぶんぶん、と首を振る間に馬車は勢いよく走り出す。

「きゃあ!」

「おっと危ない」

 馬車の座面に座らせてもらって、ようやく繋いだままだった手を離す。

 離れていく温もりが寂しくて、思わずレオを見てしまう。

「ん? どうした?」

「あ、い、いえ。あの、立派な馬車だな、って……」

「そうだろう? 俺の自慢の馬車なんだ」

 にっ、と、レオが自慢げに、得意気に笑う。それはまるで、夏休みにこっそり集めた宝物を褒められた少年のようで……。

「あ、あは、レオさまったら……」

 リズが、思わず笑う。それは、完璧な令嬢が社交界向けに行う、貼り付けたような笑顔ではなく……。

「くあぁ……たまんねぇなぁ、おい……」

 レオは、友人の言葉を反駁していた。


――……お? もしや、レディ・リズのことがそんなに気になりますか? もしや、初恋だったり……


 ああ正解だよアンドリュー、俺はレディに惚れちまったみたいだ……。


 ぽりぽり、と頬を掻いたレオはすぐ隣に座っているリズをそっと盗み見見た。

 類まれなる美貌、女神や妖精の生まれ変わり――大げさでもなんでもなく、リズは美しい。リズ以上に美しいひとを、レオは知らない。顔かたちの美しさもあるが、それだけではない魅力がリズを輝かせている。驚くような行動力で動き回り、それでいてちっとも下品にならない不思議なレディだ。

 さらに、おそらくリズはレオの仕事や家庭の事情もきちんと理解してくれるだろう。それだけの聡明さを兼ね備えている。


 輝くばかりのプラチナブロンドは、いつも元気に跳ねまわっているリズの動きに合わせてさらさらと音がしそうである。透き通るような白い肌はあれだけ外にいても黒子も傷も一つもない。そして大きな瞳はエメラルドグリーン。喜怒哀楽を雄弁に語ってくれる。薄ピンクの唇はぷるぷると潤んでいて……。


「……!?」


 レオは、リズを引き寄せると同時に、果実のようなその唇に、己の唇をそっと重ねていた。

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