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第32話 お姉ちゃん



「隼人」


 ノックと共に、ドアが開いた。振り返れば、月歌がこちらをじっと、うかがっていた。

 その目は穏やかで、隼人は一瞬、泣きたいような心地になった。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


 気を持ち直して、隼人は姉に尋ねた。月歌は、部屋に入ってきて、「うん」と応えた。


「ちょっと出ない? コンビニ、付き合ってほしいんだ」


 最寄りのコンビニまで、二人で並んで歩いた。ぬるい風が、汗に湿った肌をくるんだ。


「ありがとうね、隼人」

「ううん、今日も歩きに行くところだったし」

「今日も? 頑張るなあ」

「そんなことないよ」


 月歌が笑う。隼人も曖昧に笑った。コンビニまででは距離が足りないから、月歌を家に送り届けたら、もう少し歩こう。隼人は俯いて、そんなことを考えていた。

 月歌は何も言わないで、夜空を見上げていた。隼人もならって、見上げる。


「綺麗だね」


 隼人が目を見開いたのと、月歌が囁いたのは同時だった。


「うん」

「すっかり夏の星だね」

「うん……」


 頷きながら、隼人はじっと星に見入っていた。星なんて見たの、いつぶりだろう。毎日、外に行に出ているのに。ちっとも上を見ていなかった。

 隼人は大きく息をついた。体がこっていて、膨らんだ胸がきしむ。月歌は、隼人を見て、一歩前に進み出ると、足を止めた。


「はあ……」


 そうして手を広げ、大きく息をつく。それからぐんと空に向かってうんと伸びをした。隼人は足を止め、猫のようにやわらかく伸びる姉の背を眺めていた。

 月歌はくるんと振り返ると、にっこり笑った。


「すっとするよ。隼人もやってみて」


 ほら、とまた伸びをする。隼人もならって、うんしょと上に体を伸ばした。


「もっと!」


 月歌が言う。隼人は伸びる。そのまま、月歌に鼓舞されるまま、隼人は天に向かって伸びを続けた。


「もっと!」

「うー……!」

「もう一声!」

「も、もう無理だよ……!」


 あはは……どちらともなく笑い出した。隼人は、ずっとこわばっていた自分の背が伸びて、体の力が抜けるのを感じていた。


「はあ」


 脱力する。すると何だか、大きく息が吸える気がした。


「すっきりするでしょ?」


 月歌が、下から覗き込んできた。やさしい笑顔に、隼人も「うん」と笑った。


「ありがとう、お姉ちゃん。すっとした」


 こんなふうに、自然に笑えるのは久しぶりだった。隼人は自分の頰が、ずっと強張っていたことに気づいた。月歌は、嬉しそうに「ううん」と言った。


「私、疲れたらいつもこうしてるの」

「そうなんだ」

「こうして伸ばしてあげないとね、ガチガチになっちゃって辛いでしょ」


 月歌は、隼人の背をポンと叩いた。月歌の目は、気遣いと慈しみに満ちていて、隼人は思わず黙り込む。なんだかこの姉は、すべてを知っている気がして、なのに黙っていてくれているのだと――そう思うと、色んなものがこぼれ落ちてしまいそうだったから。


「何食べようかな?」


 コンビニに着くと、月歌は鼻歌交じりに中に入っていく。明るい光が、こうこうとアスファルトを照らしていた。隼人は足取り軽やかな姉の背を、じっと追いかけたのだった。



「ねえ、隼人」


 帰り道、スムージーを片手に月歌が言う。夏の大三角を見上げながら、何気ない様子だった。


「お姉ちゃんは味方だからね」


 隼人は黙っていた。おごってもらったアイスボックスに口をつける。月歌は続ける。


「何があっても。それだけは忘れないで」


 夏のぬるい空気が、月歌の声をやわらかに揺らす。


「うん」


 隼人の呟くような応えは、届いただろうか。定かではないまま、夜の闇に消えていった。



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