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第36話

 最初は気づかなかったんだ。

 俺もなんか、距離取っちゃってたのもあるけど。イノリが、普通に振舞おうとしてくれてたからだと思う。


「トキちゃん、大丈夫? 顔色わるいよ」

「平気平気。また数学の小テストあっからさー、ちょっと寝不足なだけ」

「そう? ……でも、無理しないでね」

「おう」


 まふまふとパンを齧った。なんとなく会話がぎこちない分、メシに逃げてしまう。

 イノリも、静かにパックの紅茶を飲んでいた。

 会話がないときの方が、メシって早く終わるよな。パンの袋を片付けてると、イノリが「あっ」と声を上げた。


「トキちゃん、ほっぺにクリームついてるよ」

「えっマジで?」


 イノリが、自分の頬を指でしめす。

 俺は、慌てて手の甲で頬を拭う。見当違いだったらしく、イノリが柔らかく目を細める。


「そこじゃなくて、もっと上の方」


 と、ティッシュを渡してくれた。「サンキュ」って貰ってから、俺は違和感に気づいた。いつものイノリなら、拭ってくれるところだって。

 いや、顔ぐらい自分で拭けよって話だけども! 

 今、状況があれだから、ちょっと動揺しちまったわけ。あれ、もしかして、って。

 一回、違和感覚えちゃうと、いろいろ気づいてきて。イノリは、もともとよく触るから顕著だったんだと思う。

 決定的だったのは、帰り際のこと。

 窓を閉めるイノリに、カーテンを引っ張ってた俺が、近づいたんだよな。

 したらさ、イノリ、一歩避けたんだ。腕が、ちょっと触れそうになったから。

 驚いて、ギシッと動きを止めた俺に、イノリは曖昧に笑った。


「五限、始まっちゃうね。トキちゃん、先にどうぞ」

「あ、うん」


 俺は、ぎこちなく頷いて、すごすご305教室を後にしたのだった。




「もう、だめだー!」


 俺は、ベッドにガバリと突っ伏していた。

 あんな、ひどい態度ばっかりとってたから。ついにイノリに愛想つかされたんだ。

 枕に顔を埋めて、「ううう」と呻く。

 俺って、ずるい。

 ちょっと避けられたくらいで、めちゃくちゃショック受けるなんて。俺の方が、よっぽど態度悪かったくせに。

 しかも。

……イノリに触られなかったことが、すげえ辛いなんて。

 触られるのが怖くって、避けてたくせに。いざ、触られなくなったら、寂しいなんて。

 自分勝手すぎだろ。

 やな奴すぎて、もう自分に引くよ。ドン引きだよ!


 「俺、馬鹿だ……」


 イノリはいつも、「トキちゃん大丈夫だよ」って。あのでっかい手で、俺の手を握ってくれてた。そこにはあったかい励ましと、優しさしかなかったのに。

 なんで、避けたりしたんだろう。

 やたら悲しくって、マットをどすどす叩いた。



 絶望の感慨で、うじうじと一夜を明かした翌日。

 俺はもう、散々だった。

 補習では、けっつまづいて転んだ。派手にゴロゴロ転がって、ジャージの膝がビリッと破けちまうし。 

 午前の授業でも、なんと教科書を全部忘れてくる始末。

 っていうか、曜日自体を間違えてて。

 明日の授業の用意をしちまってたから、今日が数学の小テストだってことも、忘れてた。

 もともと馬鹿なうえに、ここんとこウダウダしてて勉強不足。

 当然の結果というか、もう、笑えるくらい解けなくて。

 お昼前に、葛城先生から返ってきた答案には、あかあかと「零点」の字が書かれてた。


「吉村。放課後、僕の部屋に来い」


 零点とか、さすがに初めてだったしさ。

 いつもはガミガミ怒る葛城先生に、静かな声で言われたのも地味に怖かった。



 まあ、でもさ。

 今から21号館に行くことより怖いもんはないと思う。

 食欲ねえけど、手ぶらは変だから。一応買ったパンを携え、とぼとぼと歩く。

 イノリに会うのが怖い。

 昨日のことは、気のせいだって思うには、身に覚えがありすぎる。

 けど、もっと怖いのは。

 イノリが、怒ってるんじゃない、って場合だった。

 ただ単に、俺に触りたくなくなっただけなら……もう取り返しがつかないんじゃないか、って。

 俺は、ぎゅっと胸を押えた。

 そんなの、嫌だ。

 嬉しさにまかせて抱き合うことも、あのあったかい手を握ることもできないなんて。

 どうしよう。考えただけで、めちゃくちゃしんどい。てかすでに、これがほぼ現実になろうとしてるわけで。


「ううう」


 けど、俺が変な態度取ってるうちに、イノリが嫌になっちゃったんなら。

 触って欲しいとか、ただの俺のわがままだよな……。



「おはよー」


 カラカラ、と305教室の戸を開ける。

 緊張したわりに、イノリはまだ来ていなかった。ホッと胸を撫でおろし、適当な机に座る。

 シーンとする教室に、なんか落ち着かない。

 そういえば、いつもイノリが先に来てたから、ここに一人でいることってなかった。


『トキちゃん、おはよー』


 授業とか、どうしてんのかってくらい、いつも早く来てて。ニコニコ笑って、出迎えてくれた。

 イノリのあんな風に笑う顔、もうずいぶん見れてない。


「……なんとかしねえと」


 どうしたらいいのか、わかんねえ。

 でも、とにかく謝って。自分勝手だけど、元みたいに戻りたいって、気持ちを伝えないとって、思った。


――けど、この日。

 いつまで待っても、イノリが教室にくることはなかったんだ。





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