泊りがけの船旅だ。あの島には飛行場が無いんだから仕方がない。
小さな船内は混み合っていた。
方言混じりの乗客の声と海鳥の声が潮風と混ざり合って、日差しを反射する僕のワイシャツを撫でていく。
緩めたネクタイはもう仕事をしていない。
スーツ姿なのは僕だけかもしれない。
なにやら港の改装工事やらで、通常の大型フェリーの着岸が出来なくなったとか。
臨時に小ぶりな観光船で間に合わせているらしい。
そりゃ本来大型のフェリーで行き来するはずの乗客が、便数を増やしているとは言え、こんな小さな船で代わりをするのでは混雑するのも当たりまえか。
デッキが高い場所にあるフェリーと違って、海面がすぐそばに見える、魚も見えそうだ。
思えばこんなタイプの船に乗るのは初めてかも知れない。
この席も見通しのいい船べりに設置されている観光用の座席だ。
天井はツギハギのあるテント張り。壁はない。
スイスイと通り抜ける夏の海風が気持ちいい。
遠い離島への出張を命じられた時は「面倒くさいなぁ」と心の底から思っていたが、さてさてどうして、まるで観光気分になってくる。
それもそのはず、本来の水深が深い港が使えないから喫水の浅い小型船をわざわざ使っているわけで、船は島をぐるっと回って別の港へ向かうのだが。それはすなわち、この離島の観光名物でもある遊覧船のコース、それをおのずと辿るということにもなる。
このあたりの島々は、太古の昔に巨大火山のカルデラだったそうな。
つまりでっかい火山の火口だ。
その火口の淵にあたる部分、外輪山がポツポツと海に沈まずに取り残されたのが現在の島々と相成りましたというわけだ。
そんな海上から急激にそそり立った緑の島々や、入り組んだ入江や断崖や岩礁や、そういった浮世離れした風景を縫うように船は進んでいく。
まるでジャングルにでも入り込んだように前後不覚の心持ちだ、どれが島でどれが入江か、サッパリ見分けがつかない。
大自然の舞台装置が次々と景色の書き割りを入れ替えているようだ。
それは事前に見ていた地図からは想像もつかない展望だった。
ぜんぜん期待していなかったけど、こんなに面白いのか。
このすばらしいクルーズを誰かに教えたいと思った。しかし考えてみると、職場や自分の周りには、こんな島までやってきて景色を眺めて喜ぶような人物が一人も居ないことに気がついた。
(あーあ、そうか……、勿体ないなぁ)
とりとめもなく思いつつ真っ青な夏空と、屈託のないちぎれ雲を見ていたら。船はまた途中の島に寄港して、新しくお客を乗り込ませた。どうやら、水上バスの要領でこうやって島々で人を拾っては近隣の島へと送り届けていくのが日常らしい。
行商の人や島民とおぼしき人らが乗客だ。すっかり船に乗り慣れている様子ですぐに分かる。
すると小麦色に日焼けした10歳くらいの女の子と、おばあさんが連れ立って乗り込んできた。別の島の親戚のところに夏のご挨拶にでも行くのだろう、おばあさんの手にはお中元らしき小包があった。デパートの趣味の良い包装紙で包まれている。
女の子はお出かけにオシャレをしたようで。可愛いリボンの付いた麦わら帽子と、さっき見上げた雲を思わせる真っ白なワンピースを着ていた。
いつもは元気に走り回っているであろう様子を隠して、おしとやかに貝殻のあしらわれた、よそ行きのサンダルを履いて、キチンと足を揃えて立っているのが可愛らしかった。
ところがこの後、びっくりさせられる。
おばあさんが「座らせてもらいなさい」と促すと、女の子は少しはにかみながらも当然のように僕の膝の上に座ってきたのだ。
「え!?」と思ったが声には出なかった。
おばあさんを見ると、汗をハンカチで抑えながら「いつもすみませんね」といった様子で笑って僕に会釈した。
僕も「いえいえお互い様です」と言った感じで少し戸惑いの色のある笑顔を返した。
……………ここではこれが普通なんだろうか?
周りを見ても誰も気に留めてない。おじさんらが美味しそうに瓶入りのサイダーを傾けているだけだ。
僕の鼻の下には女の子の後頭部、麦わら帽子を胸にだき、左右に分けられ三つ編みへと続く髪の分け目が整っていた。後れ毛が風に揺れて時折僕の頬を撫でる。
女の子も座るときこそ少し恥ずかしそうにしていたが、今は自然な感じで座っている。
なんだか不思議な空間だった。
知らない女の子を膝に乗せての遊覧の旅。
船内には同郷の人たちが乗り合わせている気兼ねのなさが満ちている。
方言の合間合間に朗らかな笑い声。絶え間なく続く波を切り分ける水音。
潮風には女の子の、はつらつとした日向の匂いが混ざり、僕はこの島に住んでいる、この子の親戚のおじさんか何かのようにこの景色に溶け込んでいた。
普段は子どもとか生活空間に入り込むはずもなく、気にかけるようなこともないのに、今は見知らぬ女の子を大事に膝の上に乗せて、この流れる夏の島々を眺めている。
ああ、まるで時間が止まっているようだ。
パステルカラーの絵本の中にでも居るみたいな、そんな淡い真っ白の夏の出来事だった。
【おしまい】