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第10話  ハイヤー・ラブ

病院の中、患者たちの足元に隠れては小さな少年が走ってゆく。パジャマと毛糸の帽子をかぶった姿は患者たちの間では有名だった。

ナースたちは患者たちの口コミを集めては少年を追う。

やがて日が暮れる頃にはナース長のオガタに首根っこを捕まえられた。

『また!何度言ったらわかるんですか!病院は遊び場じゃありません。』

少年はぶーっと唇を揺らすとバタバタ体を動かしてオガタの手からするりと抜けて足早に自分の病室へと帰っていった。

『ハッ、なんですか!あなたたちもちゃんとしてくださいな。』

ナース長オガタの小言をナースたちは受け流しながら病室に戻った少年の姿に微笑み合う。

『ふう、良かった。』

『ええ、怪我したら大変だもの。』

D棟の病室、ネームプレートには何も書かれていない。

少年はベットに上がると毛糸の帽子をベットの上に放り投げた。

まだ五歳ほどの少年は真っ白で赤い瞳をしている。

『チェッ、つまんないの。』

少年が呟くとドアが開いた。

『また何かしてたのか?』

入ってきたのは白衣のティルだ。彼女は両手に色々と抱えている。

『ティル!来てくれたの?』

『ドクターだ。アリエル、また走り回ってオガタに怒られたんだと?』

ティルはベットの傍の椅子に座ると持っていた本やおもちゃをベットに置いた。

『うわあ!うわあ!約束守ってくれたんだ!』

『ああ…私は嘘はつかないからな。』

アリエルは絵本を持つとぺらぺらと捲る。まだ字が読めないせいで絵だけを楽しんでいるようだ。

『アリエル、ドクターゼロが今夜はここへ来てくれる。本を読んでもらいなさい。』

『ほんと?やったあ!』

『だからあんまり走るなよ。』

ティルはそっとアリエルの丸い頭を撫でるとキスを落とした。

『うん…ねえ、ティル。』

『ドクターだ。どうした?』

アリエルは赤い瞳でじっとティルを見る。

『お母さん…もう来ないのかな?』

『どうだろうな…お母さんは忙しい人だろう?』

『うん。』

ティルは少し溜息をついて微笑む。

『連絡してみよう、でも期待してはいけないぞ?忙しい人なんだろ?』

『うん!』

アリエルは嬉しそうに微笑むとティルの持ってきたおもちゃを抱きしめた。

『じゃあ私は次の部屋に行くよ。いい子にしておいで。』

ティルは部屋を出ると扉を開き、少しだけ開けておいた。

隙間から見える少年の小さな姿はもう随分と独りきりだ。

ティルは廊下を歩きナースセンターへと向かう。休憩中のナースを前にすると椅子にどかっと座った。

『ドクターティル。あの子のところですか?』

ナースの一人が眉をしかめて問いかけた。

『ああ、アリエルの父親は何をしてる?連絡はついているんだろう?』

『ええ…そうなんですが、もう全ての権利を放棄したとかなんとかで埒が明かないんです。』

ティルは大きく息を吐くと椅子の肘掛を軽く叩いた。

『どいつもこいつも…。病気の子供を抱えると消える親ばかりじゃないか!』

ティルの怒声に奥からナース長のオガタが顔を出した。

『あら、ドクター。そんな事言っても、捨てるものは捨て、希望するものは盗むんですよ。彼らはね。』

先日も子供が救急で運ばれてきて、親を名乗って連れ去ろうとした不届き者が逮捕されている。ナースセンターでは常に辟易していた。

『ああわかってる。けれど実の親だぞ?何故…愛さないんだ。』

ぽつりとティルが呟くように言うとオガタは首を振った。

『そういう時代なんですよ。金に困った人たちは平気で命を売るんです。あの子もそうでしょう?珍しいアルビノ。高値で売れるからと名前も付けなかった。今でこそあの子はアリエルと呼ばれていますが…。』

オガタの後ろからゼロがそっと入ってくると苦笑した。

『なあに?辛気臭いな。アリエルは僕があの子につけたんだ。空気を優しくしてくれる妖精のような子だから。素敵だろ?』

『ええ。』

オガタは頷くとナースたちに仕事に戻るように指示をして自身も奥へ戻っていった。

ティルは足を組みかえると苛立った顔で舌打ちをする。

『アリエルのこと?』

『そうだ。』

ゼロは苦笑すると腕組をした。

『母親は無理だよ。だって商品価値としてしか見てなかったでしょ?そりゃああの子といるときは神のように扱ってたわけだけど…でもそれはあの子が金にしか見えてなかっただけ。純粋の人間だってのに怖いね。』

『気分が悪い、今だってアリエルは待っている。ずっと…。』

『そうだね。』

ゼロはティルの頭をぽんと触るとアリエルの部屋へと向かった。

ティルの怒りはよくわかる。あの子がどれだけ我慢を強いられているかも。

アリエルは生まれてすぐに特異だと分かると内蔵を売られた。母親は一つくらいなら問題ないと思ったらしい。しかも闇医者とかいうので他の臓器もいじられたらしく、あの子は不安定な体になってしまった。

内臓は高価だったらしく母親は遊んで暮らしているが、その後、外で倒れているアリエルを近所のものが救急に電話をして病院へと運び込まれた。

事が発覚して母親は子供を返せと言い出したが、状況を重く見た保護センターが動いたようだ。

今は病院で保護されているが、母親の出かた次第では彼女は逮捕されるだろう。

父親はアリエルが生まれてから別れたらしいが、まともに連絡のつく人間だ。

しかし彼は権利の全てを放棄しており、新しい家族もあり、今更アリエルのために何かをするということはないらしい。

ゼロはD棟に入りアリエルの部屋へ向かった。病室の前の廊下にはおもちゃが散乱している。

『何をしてるの?』

ゼロはそっと部屋をのぞいた。中ではにこにこ笑いながらおもちゃで遊ぶアリエルがいた。

『ドクター!』

アリエルは立ち上がるとゼロに飛びついてくる。それを優しく抱き上げると背中をぽんぽんと叩いた。

『外までおもちゃを散らかして、ナースに叱られるよ?』

『ヘヘヘ、ねえ。本を読んで?』

ゼロにべったりと抱きつくと嬉しそうにアリエルはねだる。

『いいよ。本はこれ?』

ゼロはベットに座り膝の上にアリエルを乗せて本を開く。

『そう。エヘヘ。』

絵本を読んでやりおもちゃで遊び、アリエルがうとうとし始めるとベットに寝かしつける。

小さな手がゼロの指を掴んで幸せそうに微笑んでいる。

そしてぽつりと寝言が聞こえた。

ぞっと頭を撫でてやり静かに傍に座っている。

ゼロは電話の電源を落とすとポケットの奥深くに突っ込んだ。



朝になるとまたアリエルが病院内を飛び回っている、皆が小さな子供の姿を微笑ましく見る中でオガタだけがガミガミと雷を落としている。

アリエルは廊下の硝子の壁にへばりついて入ってくる客を眺めていた。

ナースが声をかけると母親を探しているようだった。

ナース長のオガタからはそこには干渉するなとの指示だったため、危ないことをしなければアリエルの自由にさせていた。

来る日も来る日も同じように母親を探している。

一週間ほど経った頃、アリエルの姿が忽然と消えナースが声を上げた。

『アリエルがいないんです。』

皆が探し始めると外出から戻った患者の一人が駐車場で見たと教えてくれて、ゼロは急ぎ外の駐車場へと急いだ。

地下駐車場とは違って、地上では病院以外の人間も利用している。

小さな少年を探すためにゼロはかがみこんであたりを見渡した。

ふと小さな足が見えて顔を上げたがどの車に乗り込んだのかは分からなかった。

病院からティルも合流したがアリエルはやはり見つからなかった。

『どこへ行ったのか…。』

『まさか…母親か?』

ティルが眉をひそめたがゼロは首を横に振る。

『いや、彼女は保護観察に入っている。一人では動けない。』

『じゃあどういうことなんだ。』

『わからない。でも探すしかない、根気強くね。』

病院では引き続きアリエルの行方を捜していた。

それから数週間経った頃、救急に連絡が入った。

アルビノの少年が重篤な状態で運び込まれた、もう長くはないかも知れないとのこと。

そしてゼロとティルの名前を呼んでいると。

二人が駆けつけると、少年の肌は青白く目には包帯が巻かれていた。

腕と足が一つずつ欠けて、腹部が壊死しているという。

もう見つめることのない少年の手に触れてティルは泣き崩れた。

ゼロがそっと頭に触れるとぴくりと動き、小さな唇は嬉しそうに横へ引かれた。

小さな声だ。

『ドクター?ゼロ、ティル。』

『ああ、ここにいる。』

ティルは優しく笑うとアリエルは小さく笑う。

数時間後、少年は息をして、微笑みながら息を引き取った。

ゼロは泣き崩れているティルを抱き寄せる。

『ああ…どうしてこんなことになるんだ?どうして。』

ティルを抱きしめてゼロはじっと黙り込んでいた。


それからは病院内が静かに何事もなかったように時間だけが進んでいく。

ゼロはいつものようにナースにちょっかいをかけ、真夜中にも同じように愛人たちがひっきりなしにやってきてはゼロと時間を共にしていた。

ティルは呆れた様子で無縁仏の墓の前で花を手向けていた。

その後ろに現れたのはナース長のオガタだ。

『ドクターティル…よく来てくれていますね?』

『ああ、寂しくないようにな。あなたもよく来ているようだが。』

『まあ。そんなところです。ここにはむごいことをされた子供たちが大勢です。きっと寂しくはないでしょうがね…皆でワイワイ遊んでるんでしょうし。』

『それでも悲しいものだな。』

『ええ、人はいつか死にますが…こんなに早くでなくともいいでしょうにね。』

オガタはそっと花を手向けると行ってしまった。

アリエルの事件の後も子供を誘拐しようとするものは度々現れる。

どれほど厳重に警戒しようとも次から次へと手を変えてくるのではしようがない。

昔ティルが森にいた頃はよく化け物扱いされたが、こうして子供を攫う連中の方が悪質だ。

ティルは純粋に食事としていたが彼らは儀式やら中にはただ弄ぶだけの連中もいるという。

『くそっ。』

ティルは舌打ちをして廊下を歩く。それよりも許せないのはいつまでも悲しみに悼めないことだろう。階段を上がりドアを開けるとナースと入れ違いにベランダに出た。

ポケットに手を突っ込み煙草を取り出すと火をつける。

ふうーっと長く煙を吐く。その先に褐色のナースが同じように立っていた。

彼女の手にも煙草が握られている。

『あら、ドクターティルも休憩ですか?』

『ああ…ここで油を売っているのか?』

『ウフフ。でも時々こうしたくなる気持ちわかります?』

彼女は煙を長く吐く。

『ああ、わかるさ。病院というのは劇的な場所なのに、我々は単調なんだ。いつもいかなるときも落ち着き払い次に対処しなければならない。』

『フフ、そうですね。私も時々嫌になりますよ。』

『そういえばお前はゼロの愛人だったか?』

ティルが横目で彼女を睨むとナースはにこりと微笑む。

『ええ…ここの所忙しくて、ドクターから聞いてません?』

『愛人との情事など耳に入れたくはないが…。』

『ハハハ、違いますよ。ここの所色んな場所に出回ってるんですよ。』

『うん?』

ナースは煙草を一本吸い終わると、新しい煙草に火をつける。

『新しいドラッグ。随分前にも流行っていて、それはもう酷い状態になった患者が運び込まれて来ていたんですが、最近はドクターゼロのおかげもあって減ってたんです。それがまた増えてきたんですよ。』

『ほう…。』

『殆どは軽症、だけど時間を増すごとに重症が増えているんです。』

ナースは指先で弾いて煙草の灰を落とす。

『チェンバーというそうですよ。そのドラッグ。』

『チェンバー…。』

『そう、運ばれてくる人の多くが名だたるお方とでもいいますか?不思議ですよね…規制するはずの人間たちがドラッグをやっているなんて。時々盛られたなんての聞きますけど、殆どは違うようです。』

『どうしてわかる?』

ナースは苦虫を潰して笑った。

『ああ、ホテルや別荘地、いわゆるプライベートな場所から運ばれてくるんです。一緒にいた女性たちも中毒を起こしているし。けど…重篤なのは男が多いんですけどね。ほんと気持ち悪い。』

『なるほど、それでその名前か。』

ティルは壁にもたれると腕を組んだ。

『それで、その者たちは治っているのか?』

『いいえ、治りません。運び込まれたときには内臓が腐っています。手遅れです。』

『けれど再生医療を受けさせろと言うのではないのか?』

『ああ、そうですね。けどあれは出来るものと出来ないものがあるそうですよ。私も詳しくはわかりませんが、やっても仕方がないだろうと。』

『ふん。なるほど。それで治療ができず死んでいくと?』

『うーん、それもちょっと違うみたいです。ドクターゼロが関わっているようなんですが、ちょっとその辺りはよくわからなくて。』

ナースがフフと微笑むとティルは頷いた。

『わかった。本人に聞いてみる。貴重な情報をありがとう。』

『いいえ。』

ティルが踵を返すとナースが言った。

『ドクターティルも今度地下に来てください、私ドクターとも知り合いたいわ。』

『寝言は寝ていってくれ。』

振り返らず片手を上げて歩き出した。

奴の愛人というのはああもまあ、いけしゃあしゃあと…。しかし面白い。

褐色のナースはなかなかの美人だ、ティルの好みではないものの。

ふとポケットの中で電話が振動した。

『はい。』

『ドクターティル?至急お願いできますか?』

ティルは用件を聞くと足早に歩き出した。


病室には数人のナース、ドクターが話をしている。ティルが飛び込むとナースが説明をした。

『少女はビルの屋上から足を滑らせたようなんです、が興奮が酷くて。』

ベットには拘束された少女が寝転んでいる。その肌は白く赤い瞳が燃えるように苛立っている。

『わかった。私が診よう。すまないが二人にしてくれるか?』

ティルの言葉にナース、ドクターたちは病室を出た。

ティルはベットの傍の椅子に座り少女の顔を見る。

『落ち着け、私はドクターティルだ。君は名前が言えるか?』

少女は大きく呼吸をして肩を揺らして威嚇した。が体が痛むようで時々眉をひそめる。

『いいか?ここは危険じゃない。私は何も持ってない。』

ティルは両手を広げて少女の前に差し出した。

少女はまるで動物のようにティルの手を確認し、落ち着いたように呟いた。

『…アイオン。』

『アイオン、君の名前はアイオンだね?』

少女は赤い瞳でティルをじっと見つめている。

『何があったか話せるか?嫌なら言わなくてもいいが。』

アイオンは俯くと不服そうに拘束をされている体を見た。

『ああ、外そうか。けれど治療がまだだから激しく動いたりしてはいけないよ?』

ティルは立ち上がるとアイオンの拘束を解いた。その瞬間アイオンの手がティルの体に巻きついてぎゅっと抱きしめられる。

小さな息遣いが聞こえ、体が少し震えていた。

ティルはアイオンをそっと抱きしめ隣に座る。

『こうしていると落ち着くか?』

小さな頭が頷くとティルは微笑みその頭を撫でた。

『いい子だ。』

アイオンはぎゅっとくっついたまま離れず、病室に入ってきたドクターたちが微笑みを浮かべた。

『治療できそうですか?』

一人のドクターがそっと近づくとティルが笑う。

アイオンの様子を確かめてから頷いた。

『いいようだよ。』

治療が終わりまた二人きりになるとアイオンはしっかりとティルの手を握っていた。

その手の温もりは熱くティルは握られた手を引き寄せてもう片方で撫でる。

その様子にアイオンは微笑むと体を寄せた。

『あのね…。』

『うん?』

『男の人が家に来てね、お父さんがお金を貰ってた。』

ティルは頷いてアイオンを見る。

『私は男の人に連れて行かれて、大きなビルよ。そこで何でも好きにしていいって。だから私美味しいものが食べたいって言って。そこには何人も私と同じ子がいたの。』

アイオンは嬉しそうに微笑む。

『初めて見たの…私と同じ子、いっぱいいるのねって皆でケーキを食べていたの。』

『そうか。』

『そうしたら、男の人が違う人を連れてきて、一人連れて行かれた。バイバイってしてね?でもすぐに帰ってこなかったの。私…怖くなってそこにいる子たちに聞いたの。あの人たちは何をしてるのって。』

アイオンの小さな手にぎゅっと力がこもった。

『分からないって…知らないのって。でもバイバイしたら会えなくなるんだって。』

少し黙り込んでからまたアイオンは話出した。

『次は私の番で、男の人は知らない人に私と手を繋がせたの。その人は優しくてでも意地悪そうな言い方をするの…大きなベットにいっぱいおもちゃが置いてあった。』

途切れ途切れになってくる話をティルはじっと黙って聞いていた。

アイオンの赤い瞳から涙が零れ落ちる。

『あのね…怖かったの、痛くて…なんでこんなことするの?って聞いたらその人笑ってた。』

『うん。分かった。そうか…すまない。』

ティルはアイオンを抱きしめると背中をぽんぽんと叩く。

『ここは危険じゃない。私が傍にいる。いいか?』

アイオンの大きな目から溢れた涙は微笑みに変わった。

『うん、ティルと一緒にいるよ。』

アイオンの治療は足の骨折程度で運良く無事だったようだった。彼女の両親とは連絡が取れたが人身売買の件ですでに逮捕されていた。

アイオンの証言では沢山の子供たちがまだ誘拐されたままのようで、警察はそのように動いていたが、いつの間にかそれも立ち消えになったようだ。

アイオンは病院で保護されているが、やはり経理から文句がつき、保護施設へと移送が決まった。それでも彼女自身がそれをするのならまた飛び降りると脅迫したため、ティルが届けを出して一時保護者として彼女を引き取った。

深夜過ぎ、ゼロが運転する車が自宅駐車場に止まり後部座席で眠っているアイオンを抱いて家に入る。

『それにしてもよく眠る子だね?』

ティルの腕の中ですやすや眠るアイオンは指を吸っている。

『ああ、でもここが気に入るといいが。』

『君がいるなら気に入るんじゃない?』

ゼロは自室の部屋のベットを綺麗に整えるとティルを呼んだ。

『ここをこの子が使えばいい。僕はどこでも寝られるし、殆ど使ってないから綺麗でしょ。』

『ああ、すまんな。』

ティルはアイオンをベットに入れると、傍のライトをつけた。

『これで安心だろうか?この子の苦痛は私には癒せない。』

そっと眠る小さな頭を撫でて部屋を出た。ドアは閉めずに開けたままリビングのソファに座る。

ゼロは持ってきた暖かいカップを手渡すとティルの横に座った。

『お疲れ様、大変だったね。』

『ああ…うん?』

カップに口をつけたティルが不思議そうに中を覗き込む。

『ココアだよ、珍しくね。』

『ああ、珍しいな。いつもは紅茶や酒なのに。』

『甘いものでも飲みたくなるような一日だったってことじゃない?』

『ハハ、そうだな。』

ゼロは少し声を潜めるとソファにもたれこんだ。

『あの子、どこにいたのか聞きたい?』

『わかったのか?』

『キャピタルドレスだ。この町で一番ランクの高いビル、上階がホテルになってる。ここを利用できるのは名のある者だけだ。』

『なるほど、我々とは違う上級国民とかいう奴らか。』

『ああ、アイオンは相当高い場所から落ちたんだ…死んでもおかしくなかった。』

『ふむ。』

『それにキャピタルドレスは警察も懇意にしてるって。』

『なるほどな。どこもかしこも腐ってやがる。』

ティルはテーブルの上にカップを置くとポケットから出した煙草に火をつけた。

『あれ?禁煙してたんじゃ?』

『ああ、ちょっとな。ぶり返した。』

ゼロは部屋の隅の棚にある灰皿を取るとテーブルに置く。

『まあ、いいけど。僕は煙草も嫌いじゃないし。』

ティルはぷかりと煙を吐いた。

『煙草で思い出したがお前何かしてるだろ?チェンバーだったか?』

『なんのこと?』

『褐色の子に聞いたんだ、また危ないドラッグが流行ってるってな。』

『ハハ、なんだそういうことか。そう、新しいものを作ったんだよ。』

ゼロはティルの手から煙草を取ると一息飲んだ。

『せっかくだしね。飛びたいなら飛ばせてやるさ。』

煙草の灰を落としてからティルの指に戻す。

『無茶するなよ…足が付かなくてももう誰が流しているかなんて知っているだろ?』

『まあね。でもエルフは不死だ。平気だよ。』

『不死って…ピストルで頭を吹き飛ばされたら死ぬぞ?』

『わかってるよ、僕の可愛い奥さん。』

ゼロは立ち上がると出かける支度を始めた。

『なんだ?出かけるのか?』

『フフ、僕の恋人が待ってるからね。』

『またか…。』

『じゃあね。』

ゼロはドアの向こうへと消え、車が走って行く音が聞こえた。

『ティル?』

ふと呼ばれて視線を向けるとアイオンがそこにいた。

『ここどこ?』

ティルは立ち上がるとアイオンの傍に跪く。

『私の家だ。どうだろう?気に入るか?』

『ティルのお家?…ティルの匂いがする。』

『そうか。』

『ねえ、ティルはさっきの人のお嫁さんなの?』

『ああ、聞いていたのか。そうだ、彼はゼロ、ドクターだ。』

アイオンはティルの胸に抱きつくと首に腕を回した。

そしてじっとティルの顔を見るとにこりと微笑んだ。

『いいね、素敵。』

『そうか…。』

ティルが返事に困るとアイオンが笑う。

『お父さんとお母さんもそんな感じだった…また会えるかな?』

『そうだな…会えるといいが。』

『それまでは一緒にいてくれる?』

『ああ、いるさ。』



病院地下、熱い空気が漂う中でベットに倒れこんだ女はぐったりとしたまま傍のコップに伸ばす。水が入ったコップを取ると零れるのも気にせずに飲み干した。

『大丈夫かい?』

シャワーを浴び終えたゼロがタオルを頭からかけてやると女は顔を上げた。

『ええ、ドクターいつもこんなに激しいわけ?』

『いいや…今日は楽しんだから。』

ゼロがそう言うと、シャワーからもう一人帰ってきた。

褐色の美しい女は下着だけ身に着けているがその手にはワインとグラスが握られている。

『担当さんも飲みましょ?それとももう疲れちゃった?』

『なに?その呼び方。トモノでいいよ。』

トモノは彼女からグラスを受け取るとワインを注がせた。

ゼロは椅子に座りワインを飲む。

『まさか来てくれるなんて思ってなかったからね…ありがとう、嬉しいよ。』

『フフ、でもまさかこんな地下に素敵な場所があるなんてね…てっきりホテルかと思った。』

『ホテルなんてくだらないじゃない?僕は自由にいつでも気軽にって考えてるから。』

ゼロの膝の上に褐色の女が座る。

『そうよ、トモノさん。』

『なんて病院よ。けど薬を持ってくる人間としてはありがたい場所ではあるんだけどね。』

トモノはワインに口をつける。

『うわ、これ上物じゃない?なあに?こんないい物飲んでんの?』

『フフ、沢山飲んでいけばいいよ。僕のコレクションだし。』

ゼロは膝の上の美女の頬に触れると微笑む。

『そうする。でも…医者側から薬の紹介なんて珍しいことだよ。驚いちゃった。』

『そうだね、けどうちのドクターは結構するでしょ?』

『そう、この病院は凄い、アンテナの張り方が違うのかな。』

トモノはグッとワインを煽ると少し赤い顔をして笑った。

『実際、若返りの薬なんてありえないじゃない?でもそれに近いものがあるってわかったら皆すぐに飛びついてくる。どれだけ高額になろうとも大枚叩いて手に入れようとする。怖いもんだわ…。』

褐色の女が眉をひそめた。

『そんなに若返りって必要なものなのかしら…。』

トモノはピクリと反応すると苛立った口調で言った。

『殆どはそう。確かあなたはサキュバスのハーフだよね?殆ど人に近いけど、それでも若さの時間はとっても長い。私は人間にオークが少し入ってる。美しさとかそういったものって若さにも等しいものだし。若返れるならなりたいもんよ。』

ゼロは褐色の女の頭を撫でると笑った。

『そんなものにしがみつくからおかしくなるんだよ。皆等しく時間を進んでいる。ただ感じ方が違うだけだ…妬んだ所で何も得られやしないんだ。』

トモノは溜息を付く。

『私は羨ましいよ。ドクターもその子もね。綺麗なものには憧れる。』

『そうかい?僕には君は素敵に見えるけどね。』

『またご冗談を。会社で散々バカにされてやっとこうして仕事を取ってきて必死にやってるの。一緒に働いてる綺麗な子たちは成績が悪くてもそんなに酷く言われないけど、私は酷いの。やっぱり顔かな?とか思っちゃう。』

ゼロは苦笑する。

『君は…気にしすぎているんだよ。周りばかり見ているから自分が見えないだけだ。』

『…そうかもね。でも実際しんどくなっちゃう。なんでって…。』

褐色の女はそっとトモノの隣に座ると肩を抱いた。

『ねえ、トモノさん。肩の力抜いてみたら?』

ゼロはそれに頷く。

『うん、そうだね。君は頑張っている。それを君自身が認めてあげないとね。』

トモノは苦笑して首を振った。

『そうできたらいいけど、私はやっぱりこういう性格なのかもな。』

『そうか…僕は君のそういうところも好きだよ。』

ゼロの言葉にトモノの顔が少し赤くなった。

『また…そんなこと言って。』

『嘘じゃないさ。だからさっきも燃え上がるような時間だったろう?僕は好きな相手じゃないと燃えないし踊らないんだ。今夜ここに来てくれて本当に嬉しい。』

『本当に?』

ゼロは微笑むと頷いた。

『ああ、もしよければもう一度する?僕は君となら踊れるけど。』

褐色の女が微笑むと言った。

『ドクター私も!』

『ああ、そうしたいところだが…トモノ、君次第だ。』

ゼロの指がそっとトモノの頬に触れた。

トモノは真っ赤になった顔で俯き、頷きそうなったが首を横に振った。

『ダメダメダメ、もうダメ。あんなの二回もなんて明日も仕事なのに。』

『フフ、それは残念。』

『ねえ、ドクター…さっきの話だけど、若返りの薬って本当にダメなの?』

『うん?』

『あまりよく思ってないみたいだったから。確かにデータでは利用者は使用頻度が上がっていくの。』

ゼロはワインを注ぐとトモノに手渡した。

『そうだね、あれは一時的なものなんだ。だから一度体験してしまうと繰り返してしまう。若返りは細胞が時間を取り戻すように花を咲かせる。しかしその後は萎んでしまい、鏡を見てガッカリするんだよ。ああ、時間が過ぎてしまったんだと。』

褐色の女は服を着ながら笑う。

『まるで御伽噺みたいね。』

『そう、どこかの姫君が甘い果実を食べて変化を得るように、でもそれは永遠じゃない。』

トモノはグラスに口をつけると眉を寄せた。

『それでも繰り返せばって話でしょう?だから使用頻度が上がるってこと?』

ゼロは傍にあったシャツに袖を通した。

『フフ、皆そうやって良い部分ばかりにフォーカスするんだよ。細胞が時間を取り戻す、けれど時間は進んでいる。必ずそこに戻ろうとするのさ。』

『それって…。』

『ひと時の魔法、味わいたい人間は大金を使ってそれを使う。栄光が忘れられずにしがみ付く英雄のようにね。』

ゼロは立ち上がると微笑んだ。

『さあ、シャワーを浴びておいで。ちゃんと温まってね、遅くならないうちに送ってあげるから。』



翌日、朝早くに病院の廊下でトモノはゼロとすれ違った。

『おはよう、昨日は眠れたかい?』

『ええ、まあ。ぐっすりと。』

ゼロは笑うとトモノの頬に触れる。

『またいつでも僕のところへおいで、君がそうしたいときに。』

トモノは何も言えずに俯くと持っていた資料を出した。

『そうです、ドクターゼロ。仕事の話をしていいですか?』

『ああ、もちろん。』

『再生治療の薬ですが、こちらに。』

ゼロに資料を手渡して彼が確認する。

『うん。』

『それとこの薬ですが…。』

『ああ。使う奴いたかな?』

トモノは資料を捲り、それを示した。

『こちらの会長のようですね。』

『ふうん…。』

ゼロがあまり気乗りしない顔をしたのでトモノは彼の顔を見上げた。

『止めなくていいんですか?これって若返り薬じゃないですか。』

『ああ、いいんじゃないの?君のところも儲かるでしょう?』

『でも、昨日の話だと…。』

『フフ、それはあくまでも僕が好きな人へのアドバイスだよ。別に興味がない人にまでそんな気は回せないし、君だってこの高額な薬が定期的に、しかも購入頻度が上がっていくとなれば美味しい話でしょ?』

『そう…ですが。』

トモノが眉をひそめるとゼロは彼女の顔を覗き込んだ。

『いいんだよ。仕事は仕事。けれど因果は巡るからね…。』

トモノはごくりと唾を飲み込んだ。ゼロの目が恐ろしく映ったからだ。

『何かから得ようとすると何かを失う、知っていれば回避もできる。』

『ドクター…。』

『あ、そうだ。ドクターミライの所へも寄ってって?なんかさっき連絡があってね。』

『ああ、はい。』

『じゃあ、僕は行く。また近いうちに君に会いたい。そう願うよ。』

ゼロを見送り、トモノは少しぐちゃぐちゃになった思考を整えて廊下を歩く。

ドクターミライは先日薬の紹介をしてくれた人だ。

エレベーターで階下に下りて彼の待つ部屋へと向かうが不発だった。ナースセンターで確認するとドクターミライは研究室にいるそうだ。

病院の研究室へと向かうと、廊下で休憩している男を見つけた。

『あ、ドクター、探しました。』

ミライは破顔すると頭をわしわし掻いた。

『すいません!あれから色々と確認をしていたもので。』

『なんです?』

『あ、中で話しましょう。』

ミライはトモノを連れて研究室に入る。研究室は薬棚が四方に置かれ、中央にはコンピューターと細々としたものや秤などが置かれている。

テーブルの傍の椅子を勧めるとミライはコンピューターを起動した。

『どうです?この間の、いい感じで出てませんか?』

『どうしてそれを?』

『フフ、ドクターたちが色々話してるサイトがありまして。そこで好評だったから。』

トモノは笑うと頷いた。

『はい、高額ですが欲しがる人が多いですね。良いものを教えて頂きました。』

『いえいえ、作ってるのはお宅の会社じゃないですか。』

『本当に…でも良かったんですか?うちで。他にも取引があるでしょうに。』

ミライは首を横に振る。

『いいえ。かまいません。いつもお世話になってますしね。』

『あの…。』

『はい?』

『どうして直接連絡をくれなかったんですか?さっきドクターゼロから伺って…。』

『ああ…ええと。悪く思わないで貰いたいんだけど、昨日君が彼と一緒にいたでしょ?』

トモノは目を見開くと俯いた。

『…どうしてご存知なんです?』

『僕は研究室以外に色々と回っててね。それで君が彼と地下へ行くのを見たんだ。あそこは彼の場所だから。』

ミライは当たり前のように笑う。

『ああ、気にしなくていいですよ。あそこはいつも色んな人が行くし。もしかしたら君が朝まで彼といるかもって思っただけで。』

トモノは震える足をぐっと押さえた。

『あの…会社にその、報告されますか?』

『いや、そんなことはしない。大丈夫。本当にあそこは色んな人が行くからね。』

トモノがホッと息を吐くとミライは微笑んだ。

『僕は君の手伝いができて嬉しいだけだよ。』

『え?』

『本当に。』



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