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第二十四話 試練の始まり

 翌日六時半。

 優斗が起き出してきた時には既に律は出かけた後だった。顔を合わせづらかった優斗は少しの安堵と寂しさを感じる。


 日差しを感じて窓の外を見ればベランダには洗濯物が干されていて、朝の短い時間でここまでやってくれたのかと驚いた。食卓に目を移せばラップのかけられた朝食がぽつんと用意されている。ワンプレートに目玉焼きとベーコン、付け合せのじゃがいも、コンロの上の鍋にはかぼちゃの味噌汁。以前は肉や揚げ物だけだった料理が進化していた。本当に優斗のために努力しているのだろう。嬉さと同時に申し訳なさが込み上げる。


 それらはまだほんのり温かくて、律が出かけて程ない事が分かった。炊飯器の保温されたご飯を茶碗に盛り、席に座る。そこは初めての誰もいない食卓。正面に座るべき人も今はいない。それを拒絶したのは優斗自身だ。


 勘違いしていたとはいえ、律は大切な友人になっていた。守りたいと、大事にしたいと思えるような。だがそれは上から目線の不遜なものだった。しかし、共切を手にしている間は律も自分を好いてくれる。父も陰陽寮の皆も。それだけが故郷を離れた優斗に残された道だ。今更帰る事もできない。


 また滲んでくる涙を強引に拭い、優斗のために用意された青い箸を手に取る。これも律が選んでくれたのだろう。昨夜礼を言うべきだったのに、自分の事で精一杯でそんな事すらできなかった。届く事は無いが手を合わせ、今はいない相棒に感謝の言葉を呟く。


 朝食をしっかりと味わい、身支度を整える。歯磨き粉や歯ブラシまで今まで使っていた物と同じで驚いた。どこまで調べたのだろう。それを考えると自然と笑みが零れた。鏡に映った顔を見て嬉しく思う自分にも驚く。気恥しくなって顔が熱い。気を紛らわせるようにガシガシと歯を磨いて洗面所を出た。


 部屋に戻ったらクローゼットを開き制服を取り出す。情報部に指定された服装は制服だ。学生が昼間から外を歩くにはそれなりの理由が必要になってくる。それも制服ならどうにでも言い訳できるだろう。男子の夏服など、どこもそう変わらない。特徴的な制服なら別だが、大体が白いシャツに黒いズボンだ。律のように転校でもしない限りは今までの制服で事足りた。


 部屋着から制服へと着替えた優斗はノート類や筆記具を入れたリュックを背負い、共切を肩にかけて部屋を後にする。今日から教習が始まるのだ。いつまでも泣いてばかりはいられない。律の気持ちに応えるためにもやるべき事は沢山ある。それが律に報いる、優斗にできる唯一の事だった。




 陰陽寮に着くと、父に言われた通りエレベーターで三階に上がる。建物内は昨日と変わらず閑散としていた。本当に人が働いているのか不審に思ったが、皆自分の仕事に追われているのだろう。


 エレベーターが開けば両側に部屋が並んでいる。扉の上には各部署の名前が刻まれていた。それを見ながら会議室を探す。しばらく道なりに進むとそれは見つかった。プレートには第五会議室の文字。ノックをしたが返事は無い。まだ教員が来ていないのだろうか。腕時計を見ると、八時前。指定された時間は八時半だ。確かにまだ時間に余裕があった。辺りを見回すが誰もいない。入っていいものか逡巡するが、父に言われた事だ。ここで間違いは無いだろう。そう考えてドアノブに手をかけた。鍵はかかっていないようで容易く回る。それを押し開けばそう広くない室内に十数個の机が並んでいた。やはり誰もいない。教習を受けるのは自分一人なのだろうか。この時間に誰もいなければその可能性が高かった。


 それならば後ろに行っては話も聞きづらいだろうと、取り敢えず一番前の席に座る事にした。他に誰か来たとしても席は余っている。文句を言われる事は無いはずだ。教習がどんな内容なのかは分からないが、念の為用意してきたノートと筆記具をリュックから取り出す。


 そして数十分、ぼーっとして考えるのは律の事だ。


 ――今日の仕事ってどんなものなんだろう。無事に帰って来るのか……死んだりしないよな。あれだけ強いんだ、大丈夫。帰りは僕の方が早いかもしれないな。だったらまずはお風呂の準備をして、それからご飯……食材も買わないと。


 そんな考えに浸っていると、静まり返った部屋の扉が乱暴に開かれた。優斗はその乱入者に驚いて思わず凝視してしまった。そこに立っていたのは白衣を来た女。三十前後だろうか。ワンレングスの黒髪をフェイスラインで切り揃え、細めの銀縁眼鏡をかけている。唇は白い肌に映える赤い口紅が引かれ、目元もキツい青が彩り、長いまつ毛が縁っていた。ともすればケバケバしくなるその化粧も、女の魅力を引き出すひとつの要素となっている。


 その身を包むのは所謂いわゆるボディコンと呼ばれるピッチリとして露出度の高い服だ。その真っ赤なワンピースはグラマラスな体型によく似合っていた。大きく開いた胸元は谷間を強調し、丸みを帯びたヒップラインも美しく、スカート丈もギリギリで見えてはいけない物が見えそうだ。露出過多なボディコンと固いイメージのある白衣との組み合わせはどこか背徳的で思春期の優斗には刺激が強い。年代的にボディコンの実物を初めて見た事も大きいだろう。テレビでしか見た事の無い物がそこにあって、あまりの過激さに目を逸らしてしまう。しかし、そこはお年頃の男の子だ。誘惑には勝てず、ちらちらと視線が惹き付けられる。主に胸元と太股の三角地帯に。男なら誰でもそうなるだろう魅力がその女にはあった。


 だが、そんな優斗の心情などお構い無しに甲高い足音を鳴らしながら女は教壇へ歩を進める。足元は素足に真っ赤なピンヒール。その高さは凶悪と言っていいほどだ。あれに踏まれたら穴が空くのではないかと思わせる鋭さも併せ持っていてまるで凶器のよう。よくあれで歩けるなと優斗は感心した。昨日律達が話していたのはこの事かと妙に納得する。女は教壇に着くと優斗に対峙した。銀縁眼鏡を押し上げながら目の前に座る少年を観察し、冷たい目を細め睥睨すると女にしては低くハスキーな声が響く。


「貴様が優斗か。初めましてだな。ようこそ地獄へ。歓迎する」


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