それから一ヶ月。
昼は数時間おきに母の胸を吸い、夕方には眠る日々が続いた。
こんな言い方もなんだけど、母の母乳は甘くて美味しかった。
温度は人肌程度で、ほどよい温かさだった。
前世での飲み物に慣れてしまっている私からすれば、変に生ぬるいという感じだったが、赤ちゃんの飲むものとしてはむしろ妥当なのだろう。
母は、普段は私の横で机に向かって何か作業をしている。
チラチラ見た感じ、魔法の研究?をしているようだ。
見ているだけで、ワクワクした。
母が何かつぶやくと、開かれている本から文字が飛び出し、空中で踊る。
あるいは、空中に小さな火の玉が現れて弾けたり、机の上で花火のようなきれいな爆発が起きたりする。
母はいつも夢中で作業をしているけど、私が泣き声をあげるとすぐに作業を取りやめ、世話をしてくれる。
おむつの取りかえというのか、そのあたりの世話ももちろんしてくれる。
なんか恥ずかしい感じもするけど、これも生まれたばかりの赤ちゃんの仕事だ。
それに、なぜかはわからないけど喋れない。
喋ろうとすると、必ず泣き声になる。
まあ生まれたばかりの赤ちゃんが喋ったら、それはそれで異常だろうけど・・・
でも、やはりついこの前まで普通に話せていたから、違和感が拭いきれない。
ちなみに、母は夜も同様に世話をしてくれた。
というか、別に私が泣いているわけでもないのに、気になって眠れないようだった。
新米ママは夜も眠れないというけれど、それはこの世界でも同じらしい。
特に母は1人だから、なおさら。
転生してから程なくして気づいたことなのだけど、母は私が生まれる直前まで一人暮らしだったようだ。
家には大人用のベッドが二つあり、男物の服もあった。つまり、以前は父も一緒に暮らしていたのだろう。
また以前ちらりと見たのだけど、母の机の上には一組のカップルが写った写真が飾られている。
おそらく、右側の女性が私の母。とすれば、左側の男性は私の父だろう。
ひょっとしたら、母は夫と離婚したわけではないのかもしれない。
もし離婚したのなら、いつまでも自分の机の上に写真を飾ってたりしないだろう。
異世界の夫婦事情はよくわからないけど。
見た感じ、家に放置されている夫の残した物たちは、使われなくなってからまだ日が浅い。
つまり父は、私が生まれる少し前にいなくなったっぽい。
離婚したんじゃないとしたら、何だろう。
先に死なれたとか、そういうことだろうか。
いずれにせよ、私は父親の顔を見ることは当分叶わなそうだ。
さらに2ヶ月後には、私は離乳食を食べるようになった。
最初はおかゆのようなドロドロの食べ物で、次第に柔らかく煮た小さな野菜や果物、より大きめの同様の食べ物と変化していった。
そして、生まれてから半年もする頃には、柔らかい肉団子やちょっと固めの野菜なども食べさせてもらえるようになった。
それらはもちろん、母の手作りだ。
台所の方に行こうとすると、「危ないよ」と言われて捕まってしまう。
まあ仕方ないが、異世界の台所ってどんな感じなのか気になる。
そう言えば、前世では赤ちゃんの離乳食は早くて生後5ヶ月頃に始まり、その後生後18ヶ月くらいまで続くと聞いたことがある。
この世界では違うのだろうか。
それとも、魔女は人間とは違うのだろうか。
それからさらに半年ほどして、私は立ち上がれるようになり、それとほぼ同時に「ママ」と言えるようになった。
というよりは、ようやく体と口が思うように動くようになった。
初めて立った時と喋った時、母はとても喜んでいた。
その笑顔は、とても心に沁みた。
母親の笑顔というのは、こんなにも感慨深いものなのか。
転生、もとい誕生から1年が過ぎる頃には、母から絵本の読み聞かせを受けるようになった。
異世界の文字って、どんな感じなんだろう・・・と思ったけど、意外にも日本語と似ていた。
もちろんひらがなやカタカナそのままではないけど、それでも「え」や「メ」のような、日本語に似た文字が多数あった。
これなら、楽に覚えられるかもしれない。
どのみち字は覚える必要があるだろうし、字の勉強はしたい。
そのうちに、私は自主的に本を読むようになった。
もちろんただ読むだけではなく、書く練習も欠かせず行った。
母がちゃんと紙と筆記具を用意してくれたので、私はそれで字を書く練習をした。
ちなみにこの筆記具は、前世でもアニメなどで見かけることがあった「羽ペン」だ。
手や壁に書こうとしても何も書かさらないけど、不思議と紙には書ける。
これは、魔法によるものだろうか。
そして転生から2年が経とうとする頃、私は読み書きもだいたいできるようになった。
まあ、そりゃ一度17年生きて、日本語マスターしてるわけだし。
いくら私が無能でどうしようもない人間だとしても、読み書きくらいはできる。
てか、そうでなきゃ魔女の娘なんてとても名乗れないに違いない。
私が紙に母と自分の名前を書き、母に渡すと、母は「お利口ね、アリア」と言って私の頭を撫でてくれた。
その時、私は思わずその顔を写す鏡のように笑った。