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110.音無夏樹の大切な出会い

 郷田晃生。彼は私にとって最高のヒーローだ。


 私は幼い頃に母を亡くした。母が大好きだった私にはその事実が耐え難くて、いつも泣いているような子供だった。

 そんな私は母との思い出が詰まったお人形さんをいつも抱き締めていた。母と一緒に選んだ可愛らしい女の子のお人形さん。母が遊んでくれる時はお人形さんも一緒だったものだから、形見のように感じていた。


「お母さん……なんで、いなくなっちゃったの?」


 お人形さんに語り掛けたところで返事があるわけでもない。幼いながらにわかってはいたものの、寂しさに負けて毎日問いかけていた。

 泣き虫だった私は、人によっては苛立たせてしまう存在だったのだろう。


「いっつも人形なんか持って来てさ。お前変だぞ」


 幼稚園の年長組になっても泣き虫で引っ込み思案の私に、ある日男の子が無遠慮な言葉をかけた。

 それだけの言葉で涙を浮かべてしまう。この時の私は本当に弱かった。


「やーい、泣いてやんの!」


 男の子が楽しそうに声を上げれば、その友達であろう男の子たちが寄ってくる。増えた男の子たちに囲まれた私は、泣きながら震えることしかできない。


「こんな人形を持ってるから泣き虫になるんだ」

「あっ。か、返してっ」


 簡単にお人形さんを奪われてしまう。小さくてどんくさかった私は取り返すことができない。取り返そうと追いかければ追いかけるほど、男の子たちを喜ばせる結果となった。


「ヘーイ、パスパース」

「ほーら、こっちだよっと」

「こいつ人形のくせにパンツ穿いてるぜ。脱がしてみっか」


 取り返そうと必死になるけれど、お人形さんに手を伸ばすと乱暴に放り投げられてしまう。追いかける私が面白かったのか、男の子たちはバカみたいに大笑いしていた。

 母との思い出が傷つけられるようで、余計に涙が止まらなかった。それがまたおかしいのか、男の子たちの行為はエスカレートする。

 誰も助けてはくれなかった。同年代の子はもちろん、先生に言っても信じてはもらえなかった。


「だって、みんな夏樹ちゃんと遊んでいるだけって言っていたわよ? お人形さんくらい貸してあげればいいじゃない。きっと羨ましく思っているだけよ」


 多数が「していない」と言えば、それが事実になってしまう。私も口下手だったものだから、状況を上手く説明できなかったのがいけなかったのだろう。

 何をやっても怒られない。また口裏を合わせれば先生を騙せる。男の子たちがそう思い込んで増長するのは当然の流れだった。


「やめて……やめてよぉ……。もう踏んづけちゃやだぁ……」


 ある日、お人形さんを壊すと私がどれだけ泣くのかという実験が行われた。

 覚えたての言葉だったのだろう。男の子たちが繰り返す「じっけん! じっけん!」という声があまりにも明るくて、恐ろしかった。

 お人形さんが数人がかりで踏みつけられていく。靴底の泥にまみれて、破れたところから白い綿が飛び出していた。それでも踏むのをやめてくれなかった。

 お母さんとの思い出が壊れていくみたいで、私の心までどうにかなりそうだった。いくら泣いても、何度やめてと言っても終わらない。地獄のような時間を、泣き喚きながら過ぎるのを待つしかできなかった。


「何やってんだお前らぁーーっ!」


 自分の無力さに打ちのめされるしかない。郷田くんが現れたのはそんな時だったんだ。

 たった一人で私の前に現れてくれた。たった一人で何人もの男の子相手に臆することなく助けに来てくれた。

 それがどんなに嬉しかったのか。私程度の言葉では言い表せることはできないだろう。


「これ、大切な物だったんだろ? ごめんな、助けに来るのが遅れた」


 郷田くんは私をいじめていた男の子たちをあっという間に倒してしまった。お人形さんの泥を払ってくれて、優しく手渡してくれた。


「な、なんで……?」


 泣きすぎて言葉にならなかった。「なんで」と聞きたいことも多すぎて、自分でも何を尋ねていたのか判然としない。


「泣いている奴がいたら助ける。それがヒーローってもんだからな」


 そう言って笑っていた彼の顔が、眩しいくらい輝いていたことはずっと忘れないだろう。


「わ、私も……ヒーローになりたいっ」


 ヒーローというものがどういう存在なのかわかっていたわけじゃなかった。けれど、純粋に彼みたいになりたいという気持ちでいっぱいだった。

 笑われるかもしれない。バカにされるかもしれない。そんな不安を払拭するかのように彼は優しい表情で言ってくれたのだ。


「誰かを大切にしたいって気持ちがあれば、みんなヒーローになれるんだぜ」


 きっと何かの受け売りだったのだろう。それでも、確かにその言葉は私の胸に突き刺さったのだ。


「あなたたち何をやっているの!?」


 ようやく先生が気づいてくれたが遅すぎた。郷田くんのせいになってはならないと、いつもおどおどしていた自分とは思えないほど言葉を尽くして彼の無実を訴えた。


「郷田くん……助けてくれて……あ、ありがとうっ……」

「ああ、困った時は俺に言え。また助けてやるからな」


 郷田くんは明るい笑顔で私の頭を撫でてくれた。どちらが年上なのかわからなくなりそうになったけれど、どれだけ心強かったことか。きっと私以外の誰にもわからないだろう。



  ◇ ◇ ◇



「晃生を追わなくてもいいのかい?」


 郷田会長の声ではっと意識を取り戻す。

 郷田くんが婚約破棄を宣言した。それがあまりにもショックで現実逃避をしていたようだ。


「でも……」

「婚約破棄を口にしたのは晃生だ。しかし話し合いはできていなかったのだろう? 結果がどうなるにせよ、君は晃生と話をする権利があると思う」


 郷田会長が穏やかな口調で言ってくれる。なのに、私の足は震えたままだった。


「恐怖で固まって、自分可愛さに動けない人間でありたくはない。晃生との婚約を望んだ時に君はそう言っていたね」


 はっとして郷田会長を見つめる。優しい眼差しは、あの時の彼とよく似ていた。


「私は……彼と、話をしたいです」

「うん。やらずに後悔するよりも、とにかくやってみることだ。スマートなだけの大人はいない。若者の特権は行動する機会に恵まれていることだからね。たくさん活用すればいい」


 私は頭を下げて部屋を飛び出した。郷田くんが出て行ってからだいぶ時間が経ってしまったようだ。彼らの姿は見えない。

 どうしよう。郷田くんの住まいに向かっていいものか……。迷う私の耳に電話の着信音が聞こえた。


『出てくれて良かった。夏樹ちゃんと話したいことがあるんだ』


 エリカ……お姉ちゃんからの電話に、私は耳を傾けるのであった。


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