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106.慣れない悪役ムーブ

「……は?」


 そんな声を漏らしたのは親父……ではなく、隣にいる音無先輩だった。

 信じられないといった表情が俺へと向けられる。初めて見る先輩の顔に、俺も思わず見つめ返してしまう。


「え、あれ……? 郷田くん? 聞いていないんだけど……?」

「言ってませんでしたっけ?」

「聞いていないよ!」


 突然の婚約破棄に驚いたらしい。音無先輩は彼女らしからぬ大声を上げた。

 婚約を破棄することをなぜか音無先輩に言った気になっていたな。ここにきて親父のことで頭がいっぱいになっていたのだと気づかされる。

 今回ばかりは言い忘れていた俺が悪い。けれど、親が勝手に決めた婚約なんてろくなものではないに決まっている。音無先輩も本来なら寝取り男の婚約者にさせられてさぞ迷惑だったろう。


「だって……。だって郷田くんは私との婚約を認めたと会長に報告したいのではなかったのか?」

「そんなの言ってねえよ!?」


 それこそ音無先輩が困るのではなかろうか?

 なのに、どうしてそんな悲しそうな顔をするのだろうか。そんな表情を見せられたら、俺の方が困ってしまう。

 それに、関係を築いて俺の彼女になった女たち。対して音無先輩は婚約していたとはいえ、俺にとってはぽっと出の女だ。どちらを選ぶかなんてわかり切っているはずだろう。それがわからない人ではないと思っていたのだが。

 ……それとも、音無先輩は親の意見なんて関係なく、本当に俺のことが好きなのか?


「え、でも……だって……」


 音無先輩は見てわかるほど取り乱していた。そこに明るく快活な生徒会長の姿はない。

 婚約は親が勝手に決めたものだし、郷田晃生自身もその事実を知らなかったくらいにはどうでもいいものだと思っていた。

 それは音無先輩にとっても同じだろうと思い込んでいた。いくら日本有数の企業グループの会長の息子だろうと、こんな悪の竿役が相手なら嫌に決まっている。そう思っていたが……、違うのか?


「あらあら、音無先輩は何か勘違いしていたようですね? あなたと晃生くんの関係はただの偽り。私たちにこそ真実の愛が育まれていたのです。それを理解したのなら、諦めて新しい恋でも始めたらどうですか?」


 日葵はらしくもなくマウントでも取るかのように高笑いを上げる。なのに音無先輩は言い返すこともせず呆然としていた。


「おい日葵。似合わねえくせに悪役ムーブすんな」

「痛いっ」


 日葵らしくもない高笑いが嫌になって、ピンク頭にチョップを叩き込む。

 一応優等生なのに何やってんだ。もしかして俺の悪影響を受けたのかと疑いたくなる。悪役違いにもほどがあるけどな。


「……音無先輩の様子がおかしいわ。二人の婚約は本当にお父様が勝手に決めたことなの? 思っていたよりも怖い人ではなさそうだし、音無先輩のことで遠回りするくらいならお父様に正面からぶつかっていくべきだと思うわ」


 日葵が頭を押さえて痛がるフリをしながら、小声で俺にアドバイスを送ってくれた。変な言動だと思っていたら周りの反応を観察するためだったらしい。


「晃生は夏樹くんとの婚約を解消したい、ということでいいのかな?」


 黙って俺たちの成り行きを眺めていた親父が、大して動揺もせずに確認してきた。

 息子が婚約破棄を言い出したってのに、困っただとか怒っただとか、そんな感情の変化は見られない。俺が見ても感情の揺らぎはまったくなく、まるで俺のことなんかどうでもいいと言っているような態度だった。

 想像していた怖さはない。でも、俺への関心のなさが別の意味で恐ろしかった。


「ああ。……でも、ちょっと待ってくれ」

「いいだろう。ゆっくり考えを整理するといい。悩むのが許されるのは若さの特権だからね」


 郷田晃生は、本当にこの男の息子なのか?

 似ている点は体格と女性関係の緩さくらいしかないように思える。いや、そこが似ていれば十分な気もするが。


「……母さんは?」


 最初に聞いておくべきだったことを今更になって尋ねる。

 親父に会う約束をした時に、できれば母さんを同席させてくれと頼んでいたのだ。けれどその母さんの姿は見えない。


「申し訳ございません。連絡が取れずお呼びすることができませんでした」


 答えたのは親父の秘書だった。俺との連絡もそうだが、すべて秘書任せなようだ。

 秘書がいなければ自由に連絡も取れない。いや、連絡をしようとする気もないのだろう。なんて歪な親子関係だ。クソッタレ。

 ……何を熱くなってんだろうな。俺は本物の郷田晃生じゃないってのに。


「郷田くん……私、は……」


 音無先輩の弱々しい声に、彼女の方を向く。

 彼女はおどおどとしていて、ひどく頼りない。生徒会長として、全校生徒の代表として振る舞っている姿とは大違いだ。


「音無……夏樹……」


 見慣れないはずの表情なのに、既視感が俺を襲う。

 記憶を刺激される感覚。昔の映像が頭の中で流れていく。

 昔の郷田晃生。まだ擦れていない、悪役になる前の過去。

 それは俺が知らない男の過去だった。


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