「夏樹様、黒羽さなえから連絡がありました。郷田晃生は無事に帰宅したそうです」
「ああ、わかった。ありがとう
私は運転手兼、専属執事である佐々木に礼を言った。
郷田くんは彼が手籠めにした女子たちと海へ遊びに行っていた。ちょうどその女子の中にさなえくんの娘がいたので、簡単に同行させることができた。
さなえくんの情報ではあれだけの女子に囲まれておきながら、郷田くんは健全に海を楽しんでいただけだったらしい。彼女のことだから大事なところは見逃していたのだろう。生真面目なのは雰囲気だけで、けっこううっかりさんだからね。
「郷田くんが楽しんでさえいれば、それでいいのだけどね」
「夏樹様はなぜあのような男に執着されているのですか?」
佐々木は眉間にしわを寄せていた。普段感情を顔に出さない男なのだけど、今回ばかりは気に入らないと表情で訴えていた。
「郷田くんは私の婚約者だと説明したはずだよ。郷田グループの会長、その息子でもある。家同士の繋がりを考えても、そう不思議でもないだろう」
「郷田会長の息子でしたら他にもいるでしょう。あのような野蛮な男よりも立派な方がいると思いますが」
「は? 佐々木……、君は誰に向かってそんな物言いをしているんだい?」
「も、申し訳ございません!」
佐々木は何の躊躇いもなく土下座した。頭を床に擦りつけながら、その表情は喜びに満ちていた。
困った執事だ。私に叱られたいからといって、郷田くんを「野蛮な男」呼ばわりしないでほしい。
「……郷田くんは、私にとって大切な人なんだ」
郷田晃生。彼は私の婚約者であり、私にとって最高のヒーローだ。
先日、彼の婚約者であることをつい白状してしまった。きっと彼は知らされていなかっただろうし、元はと言えば私が一方的に頼み込んだ関係だ。驚いても無理はない。
「夏樹様の大切な人……ですか」
「なんだい? 何か言いたげじゃないか」
「いえ、郷田晃生からは夏樹様に対して特別な感情が見受けられませんでしたので……」
「ははっ、なかなか傷つくことを言うじゃないか」
「も、申し訳ございません!」
佐々木は額を床に打ち付けた。とても痛そうな音がしたけれど、とても嬉しそうだ。なら心配しなくてもいいか。
「でも、それは否定できないよ。郷田くんは私のことを忘れてしまっているからね」
「夏樹様を忘却するなんて信じられませんね。二度と忘れられないよう、脳髄に刻み込んでやりましょうか?」
「佐々木、郷田くんに危害を与えることは許さないと言ったはずだよ。……そんなに私を怒らせたいのかい?」
「も、申し訳ございません!」
佐々木は思いっきり頭を床にぶつけた。二度三度と続けて額を叩きつける。さすがにやりすぎたようで額から血を流していた。なのに嬉しそうにしているのだから救えない男だ。
「そこまでにするんだ。床を君の汚い血で汚すつもりかい? さっさとその汚い額を治療したまえ」
「はいぃぃぃぃ! も、申し訳ございませんっ!」
佐々木は執事の仕事で鍛えた洗練された動作で部屋を後にした。そしてすぐに戻ってきた。どんな処置をしたのか、佐々木の額に傷らしきものはなくなっていた。
佐々木はさっきのことがなかったかのように、引き締まった表情で口を開く。
「夏樹様にとって郷田晃生が大切な存在ということは理解しました。納得はできませんが、理解はしました」
「何が言いたいんだい?」
「婚約者として大切に思っている。それにしては寛大すぎではありませんか? 郷田晃生は夏樹様に許しを得ようともせずに他の女と海へ旅行しました。それについて思うところはないのですか?」
「ないよ」
私は即答した。
「私が望んでいるのは郷田くんの幸せだけなんだ。その中心に私がいなくたっていい。彼の周りに女が集まってこようが、それは些細なことだよ」
そう、私は陰で想うだけでいい。私が彼に求められるなんておこがましい。郷田くんが私を求めない限り、それが正しい関係だろう。
私の心はすでに郷田くんに隷属している。彼のためになれるのなら、これほど嬉しいことはない。
郷田くんを幸せにする。それは私の使命だ。幼い頃に、そう誓ったのだから。
──なぜなら、郷田くんの家族関係を壊したのは、この私なのだから。