* * *
天之河の部屋を出て向かった雨の庭は、面白いものでもなかった。昴は見るものもなく、空を見上げた。
叫びかかるように、降り注ぐ滴が見える。
顔を打つ水。目に落ちて視界を塞ぐのに任せて昴は目を閉じてみる。
雨は何も流しはしない。たとえ人に忘れられても、事実は大地に染み込んだままだ。
そして歴史は還元される。何の意思も感慨も持たない器の中で。
「──昴!」
声と同時に、バシャ、と濡れた芝を蹴る音が聞こえた。昴が目を開けてみる。ぼやけた視界が徐々に映像をうつし出す。走り寄ってくる誰か。
「……流星」
突撃しそうな勢いで、流星が昴の前に立った。上背があるものの威圧感はなく、目鼻立ちのはっきりした顔は人好きのする様子で、どことなく大型犬を思わせる。
昴はリアリティを拒絶したままの頭で向き合った。
「何やってんだよ、こんな所で!」
「……!」
がし、と流星の両手が昴の顔を包む──というよりは掴んだ。
「ああもう、びしょ濡れじゃん!──こんな季節に風邪ひいたら莫迦だよ!?」
何やってんだよアンタ、冷えきってるし。──怒りながら、流星が掴んだ昴の顔を引き寄せた。
「……昴?」
そうして、その顔を覗き込む。
昴が、ひとつ、ゆっくりと瞬きをした。
「……お前に莫迦って言われるとはな」
あーあ、と殊更めいた溜め息を漏らしてみせると、流星は「うるさいよ」と表情を少しやわらげて返してきた。
「──って、だからそうじゃなくて。天之河君も心配してたし」
憶えていない流星は、あっさりと口にする。
「……帰ろう?」
ほら。──そう促して、あやすように頭を撫でて。
「……うん」
……流星が、なぜ憶えていないのかは知らなかった。けれど、どちらにしても同じことだろう。
どちらでも。──“あるべき姿”なんて、そんなものは。
始まりを思い出すことが、それまでの“自由”を思い返すことに他ならないなら。
「……昴、まだ起きてる?」
流星がそっと囁いて、昴は閉じていた目を薄く開けた。
あれから、流星によってバスルームにぶち込まれ──「百数えるまで出ちゃ駄目だからな!」とは流星からの厳命だった。もちろん守らなかった。──流星によって用意された服に着替え、流星が淹れた熱いコーヒーを手に、流星の部屋に連れ込まれた。よほど信用がないらしい。
床に座ってコーヒーを飲んで、他愛ない雑談を途切れがちに交わして。流星が手渡してきた毛布に二人でくるまって──キツいんだよ、お前はお前でくるまってろと昴は反駁したものの結局根負けした──人肌のぬくもりが籠もるそこは、緩やかな眠気を呼んで、昴はいつしかぼんやりと意識を漂わせていた。そこに、声がかけられた。
「……何?」
「ん。……あのさ」
半分眠ったまま応えると、流星の腕が伸びてきた。髪の匂い。同じもので洗っているはずなのに違う。陽射しを受けた匂いだと、昴はふと思う。
流星が、顔を昴の首筋に埋めて凭れる。昴が手を上げてその頭に触れると、微かに擦り寄せてきた。
「そばにいていい?」
昴の意識が、急速に覚醒してゆく。
「……何、急に言い出してんだか」
「だって、憶えてないから。自分が、何望まれたか──あの人に」
それでいいんだと、言おうとして、けれど言えない。
「俺には、最初から昴しかいなかったから」
流星が、体勢をずらして昴に両腕を回した。流星の肩から毛布が落ちかける。それを、昴がそっと摘まんでかけ直した──しがみつく体を、包むように。
「……昴?」
何かを言って欲しいのだろう。流星が見上げてくる。
「……いいよ」
だから、囁いて、両手で流星の頭をくるみ込んだ。眠ってしまえというように。
「そばにいなよ。──流星」
子守唄の響きで語りかける声に、流星が静かに目を閉じる。
「……このままでいい」
外では、まだ雨がやまない。
一瞬、風が空を奔り抜けて、雨滴が怒号のように窓を打った。
──昴しかいなかった。
そう言った流星の、その言葉の意味は昴には分からなかった。この、育ちきった緑の世界に送りこまれて、初めて触れあった人間が自分だという意味なのか──そう思い、けれどそれは確信にはならなかった。
掴みようのない真実は、大地に染み込んで。
そうして、巡り、巡る。