梅雨の時期がやってきた。連日雨続きでじめじめする。
しかし、毎日雨が降ろうが、学校だって毎日あるのだ。こういう時、もっと近くの高校に通えばよかっただなんて思ってしまう。
「最近雨ばっかりで嫌だよねー。髪も変な風になっちゃうし」
朝。駅のホームに着くと、葵が髪型を意識しながらそんなことを言った。俺にはいつも通りの艶のある綺麗な黒髪にしか見えないけどね。
「そうよね。湿気が多くて嫌になっちゃうわ」
瞳子も同意する。俺にはいつもと変わらない輝くように綺麗な銀髪にしか見えないけどな。
「俺も髪がうねっちゃって嫌になるよ」
「トシくんはそんなに変わらないでしょ」
「俊成は短いんだから気にしなくてもいいでしょ」
俺も同意見だと乗っかろうとしたら、二人にバッサリ切られた。確かに気にしてはなかったけどさ……、そんな風に言わなくてもいいじゃないかよ。
葵と瞳子は互いの顔を見合わせてくすくすと笑う。たまに手を組んで俺をいじるのはやめていただきたい。
それにしても、今日は朝から雨が強い。傘をさしてきたというのに、ちょっと濡れてしまった。
「ん? 葵、何しているんだ?」
「トシくんさっき濡れちゃったよね。拭いてあげる」
葵がハンカチで俺の制服をぽんぽんと叩くように拭いてくれる。
さっき、駅へと向かう途中で車が水たまりを跳ねたのがかかってしまったのだ。まあそんなに大したものでもなかったけどね。
「気にしなくてもいいって。俺よりも自分のことを気にしなよ」
「何言っているのよ。俊成があたし達をかばってくれたからこっちはそんなに濡れてないの。大人しく拭かれてなさい」
瞳子も俺にハンカチを当ててくる。ハンカチからふわりと良いにおいがした。
二人の美少女に体を拭かれている。なんてことをされていたら目立つのは当然で、周囲からの目が気になってくる。とくに男子学生やサラリーマンの方々からは殺意を抱いているようにしか感じられない。
「大丈夫だって。俺もハンカチ持ってるんだからさ。二人は自分の方を気にして、ね?」
そう。本当に気にしてほしい。
今はただでさえ夏服という薄着なのだ。葵も瞳子もスタイルが良いんだから、服が濡れて張りつきでもすればけっこう扇情的なことになってしまう。そんな姿を他の男なんかに見せるのは嫌だ。
幸い、二人の制服はそこまで濡れている様子ではない。それでも気にしてほしいと思ってしまう。
「まったく、それはこっちのセリフよ。俊成も自分のことを気にしなさい」
「はい」
なぜか説教じみた声色になる瞳子。そんな彼女に俺は従うしかない。
電車を待つ間に身なりを整える。天気が悪いと服装が乱れがちになるからな。学校に着く前にちゃんと直しておこう。
雨の日は電車を利用する人が増える気がする。登校や通勤の時間というのもあるが、いつも以上に駅のホームは人でごった返していた。
「今日も混みそうだね」
葵がなんとなしに言った。人の目には慣れている彼女でも、人が多い場所はあまり好きではないようだ。
大都会のような無理やりな超満員ではないにしろ、やはり朝の時間帯の電車は混んでしまう。そうなるとどうしても心配事が頭によぎってしまうのだ。
「二人は安心してていいよ。どんなに混んでいても俺が守るから」
俺は拳を握って決意を口にする。
満員の電車。その中に美少女がいたとすれば……、痴漢が現れてもおかしくないだろう。
それは俺の心配し過ぎかもしれない。痴漢なんてそうそう現れるものではないのかもしれない。
でも、もし葵と瞳子が被害に遭ってしまったら? そう考えるだけで心が荒れ狂いそうになってしまうのだ。
「そうね。俊成がいると安心して電車に乗れるわ」
微笑む瞳子は俺への信頼感で満ちていた。そんな表情を見せられると気合が漲る。
「まあ、もし痴漢が現れでもすれば、あたしが張り倒してやるわ」
瞳子さん目がマジっす……。かわいいはずの彼女に気圧されてしまう俺がいた。
瞳子は小さい頃から姉御肌なところがあるからな。おそらく自分以外だろうが、被害に遭った女性を放っとけはしないだろう。
「トシくんと瞳子ちゃんがいると私はすごく安心できるよー」
「はいはい、葵はあたしが守ってあげるわよ」
「わーい」
葵は瞳子へと抱きついた。女の子同士だと周りの目をあまり気にしないよね。
葵は外見から痴漢に狙われそうではあるのだが、安全を確保するのに抜け目がない。それに、今の彼女なら痴漢に遭ってもすぐ声を上げられるだろう。絶対に他の奴なんかに手を出させないけどな。
「二人ともー。そろそろ電車がくるぞー」
俺の呼びかけに仲良く返事をくれる。本当に仲良しだな。
電車は想像通り混んでいた。いつものことなので今更気にすることでもない。
俺がやるべきことは変わらない。葵と瞳子を車内の端っこへとつれて行き、他の乗客に押されないように壁になる。
「トシくん、つらくない?」
「大丈夫。これくらいどうってことないよ」
代わりに俺が押されるといっても大したことじゃない。中学の時の柔道部の練習に比べれば屁でもない。
電車はガタンゴトンと揺れながら進んでいく。やがて、次が目的の駅というところまできた。
どうやら今日も二人を守れたようだ。密かな満足感に浸っていると、瞳子の視線がある一点へと集中しているのに気づいた。
瞳子は眉をひそめて目を凝らしている。何かを判別しようと集中しているように見えた。
「瞳子? どうし――」
俺が声をかけると同時、瞳子は動いた。壁になっている俺をすり抜けて混雑している中へと向かっていく。
「瞳子ちゃん?」
葵が瞳子の突然の行動に首をかしげる。俺も彼女と似たような心境になりながらも後を追う。
「あなた、何をしているのよ!」
瞳子の声が電車内に響いた。
「い、いや……その……」
それから男のうろたえた声。俺は強引に人をかき分けて瞳子のもとへと進む。
乗客の注目が集まってきたが、電車が駅へと辿り着いた。ドアが開き、人の波に押されてしまう。
「こ、このっ! 放せ!」
「きゃっ!?」
つい先ほどまでうろたえていたはずの男が豹変した。腕を振り回して瞳子から逃れる。突然抵抗されてしまい、瞳子に為す術はなかった。
俺は瞳子に危害を加えて逃走しようとする男の腕を掴んでひねり上げる。
「痛っ! て、てめっ……放せよ!」
「あ?」
こいつ……。瞳子に暴力を振るおうとしておきながら何言ってんだ? 俺はさらに力を入れてやった。
「痛い痛い! ごめんなさい! 謝るからもうやめてくれ!!」
状況を把握しきれてはいないが、とりあえずホームへと降りた。もちろん男の腕をひねり上げたままなので注目を集めてしまう。
状況を知っているであろう瞳子が声を上げた。
「この人痴漢よ。あたし駅員さんを呼んでくるわ」
「わかった。ここで取り押さえておくから頼む」
瞳子が走って駅員のところへと向かった。その間、男がなんとか逃げ出そうと抵抗していたが、痛みを与えているうちに大人しくなった。
「俊成! つれて来たわよ」
駅員をつれて瞳子が戻ってきた。男を引き渡すと、事情説明を求められて駅長室へと案内される。
その前に、俺は瞳子と向き合った。
「瞳子! 勝手に危ないことをするな!!」
俺の怒号に、瞳子は肩をピクリと跳ねさせた。そう、俺は怒っている。
痴漢を捕まえた瞳子は正しいことをしたのだろう。でも、男が腕を振り上げて瞳子に対して暴力を訴えたのを目にして、俺の肝はこれでもかと冷えてしまったのだ。
「お前にもしものことがあったらどうすんだ!! もし殴られでもしたら……、本当に危なかったんだぞ!!」
「……ごめんなさい」
瞳子が泣きそうな顔で謝った。それを見てようやくカッと熱くなってしまった頭が冷えていった。
「あ、あのー……。そ、そんなに怒らないであげてください」
おずおずとした声。顔を向けると、葵に付き添われている望月さんの姿があった。
※ ※ ※
痴漢の被害者は望月さんだった。
瞳子は見知った彼女に気づいた。それからすぐに様子がおかしいことにも気づいたようだ。もしやと思って近づいてみれば、被害に遭っている瞬間を目撃。行動に移ったとのことだった。
「高木くん、木之下さん。助けてくださって本当にありがとうございます」
犯人を引き渡すと、望月さんは深く感謝を示してきた。
「僕……、痴漢されたのは初めてで、もうどうしていいかわからなくて、何もできなかったんです。だから、助けてもらえて本当に感謝しています」
望月さんのような明るい子でも声すら上げられなくなってしまうのか。男だから気持ちが全部わかるもんじゃないとは思っていたけど、まだまだ舐めた認識だったかもしれなかった。
「あたしは何も……。俊成が捕まえてくれたからよ」
さっき俺が怒ってしまったからか、瞳子は素直に感謝を受け取ろうとはしなかった。彼女のしゅんとした姿を見せられると、頭に血が上って怒鳴ったことが恥ずかしくなってくる。
「ごめん瞳子。さっきはああ言ったけど、瞳子が声を上げなかったら俺は痴漢に気づかなかったよ。勇気ある行動だったんだから胸を張ってくれ」
「俊成……」
そう、瞳子は悪くない。ただ俺が身勝手なまでに彼女を心配してしまった。それだけのことなんだから。
「そうだよ瞳子ちゃん。トシくんは瞳子ちゃんに何かあったらって心配し過ぎちゃっただけだから気にすることないって。心配するのはトシくんの仕事なんだから」
心配するのが俺の仕事って……。元気づけようとしているのはわかるけど、葵はもっと言い方というのを気にしてほしい。
「……ふふっ、何よそれ」
瞳子に笑みが戻った。こういう時、葵の存在の大きさを感じる。
「そうです! 本当に感謝しているんですよ! 木之下さんが助けてくれなかったら僕は泣き寝入りしかできませんでした」
望月さんの声に熱がこもる。よほど怖かったからこその反動に見えた。
「……あの、もしよければ瞳子さん、とお呼びしてもいいですか?」
ついでに顔も熱っぽい。これまた反動の結果のように思えてならない。
「え、ええ。構わないわよ」
瞳子が了承すると望月さんは喜びを表した。
「瞳子ちゃん……けっこう罪な女だよね」
葵が何か呟いた気がしたが、俺の耳には届かなかった。
「電車って怖いです。雨の日だからって乗ったのが間違いでした」
望月さんは普段から電車を利用しているわけではないらしかった。それもそのはず、家から学校まで一駅分の距離しかないとのことだ。
数少ないであろう電車で痴漢に遭ってしまうとは不運かもしれない。
「お二人はいいですね。高木くんがいれば痴漢なんて怖くないでしょう?」
「まあね」
なぜか葵がどや顔を見せる。瞳子は呆れた目をした。
「……本当に仲がよろしいようで。ねえ高木くん?」
「ん、まあな……」
なんだろう? 望月さんのその意味深な目は。
しかし、彼女の視線の意味を考えている暇はなかった。
「えー、それでは事情聴取をしてもよろしいでしょうか?」
これから始まる痴漢事件の事情聴取は、思った以上に時間がかかって大変だったとだけ記しておく。