「ん…………夢?」
嫌な夢を見てしまった。そう自覚できるほどには内容を憶えている。
時計を確認する。まだ起きるには早過ぎる時間だ。
「……汗かいちゃった」
びっくりするほど汗をかいていてパジャマが湿っていた。このままもう一度眠る気になれなくて、体を起こしてベッドから降りる。
このまま放っておいて汗臭いだなんて思われたくないし。うん、こんな時間だけれどシャワーを浴びよう。これは必要なことなのです。
準備を整えて静かに浴室へと入る。静か過ぎてなんだか変な感じ。
「はぁ……」
シャワーの温かさが体に纏わりついていた不快感を洗い流してくれる。でも、夢の内容までは消えてくれなくて吐息を漏らしてしまう。
「なんでこんな夢を見ちゃうのかな……」
トシくんと瞳子ちゃんがいない夢。そんな現実ではあり得ないはずなのに、それが当たり前のような世界。
これが初めてなんかじゃない。たまにではあるんだけど、思い出したかのようにこうやって夢に出てくる。
良い夢だと思おうとした。悪い夢は何かが好転するサインだって言い聞かせていた。
だけど、夢は段々と鮮明になっていって、まるでそこにいるのが本当に私なんだって思ってしまいそうになるほどに現実味があった。
不安を押しとどめようとするけれど、感情をコントロールするのが難しくなってしまって、胸のところが形容できないような変な感じになる。
「トシくんはいる……瞳子ちゃんだって……だから何も心配なんていらない……」
夢と現実の区別がつかなくなったら。それは私が変な子ということになってしまう。それだけならいいと思う。
鏡に映る自分の顔を見ると暗い表情だった。こんな顔をトシくんに見せたくない。私は自分の頬をマッサージして笑顔になってみる。まだ硬いけど及第点はあげていいかな。
シャワーから出るお湯が肌に降りかかる。温かくて気持ち良い。ついつい長く浴びていたくなる。
「胸の間も汗かいちゃってる」
ここの辺りは気をつけないと汗疹になっちゃう。いつも念入りに洗っている。けっこう大変なのだ。
最近はトシくん以上に
シャワーを止めてバスタオルで体を拭く。
「……こういうのってトシくん好きだったりするかな?」
大事な部分を隠すようにバスタオルを体に巻いてみる。鏡で確認するとけっこう色っぽいかも。なんてね。
こんな姿の私を見たらトシくんはどんな顔をするかな? そんなことを考えていたら暗かった気持ちが明るくなってきた。
朝になればトシくんに会える。そう思うと、早く寝ようと部屋へと戻ってベッドに潜った。
目を閉じて、ちょっとだけ怖くなる。またさっきの夢を見たらどうしよう。そんな不安が胸中に広がる。
「う~……だったら」
私はトシくんの姿を思い描きながら呟く。
「トシくんが一人、トシくんが二人、トシくんが三人……」
私の周りにトシくんがたくさんいる光景を思い描く。ふふっ、これだけトシくんがいれば怖くなんてないもんね。
私はトシくんに囲まれていく自分を想像しながら眠りに就いた。
そして朝になって目が覚めた。目覚めはスッキリだった。トシくん効果ってすごい。
今日は入学式がある。遅刻なんてするわけにはいかない。
台所で朝食を作っているとお母さんが起きてきた。
「早いわね
「いいよいいよ。今日は寝起きが良かったから体を動かしたかったしね」
「入学式だから目が冴えちゃったのね。ちゃんと眠れたんでしょうね? あくびなんかしたら
「しないよー。それにトシくんだったら笑ったりしないもん」
お母さんは笑いながら朝の準備を整えていく。
そろそろ朝食が出来あがる。和食は香りがいいよね。
「おはよう。おっ、良いにおいだ。葵が作るご飯はいつも美味しいから楽しみだよ」
「あら? 私が作るご飯はどうなの?」
「もちろん最高の味さ」
お父さんとお母さんは朝から仲良しさんだ。ずっとラブラブ夫婦のままである。
子供の頃から見ていたからマヒしそうになるけれど、こんなにも仲良しでいられるのってすごいことなのかも。友達の両親の関係を聞くとそう思う。
私もいつかはトシくんと……。よし! 料理がんばるぞ!
朝食を取って支度を済ませていく。制服に着替えて身だしなみをチェックする。
今日から新しい制服だ。紺色を基調としたブレザー。赤いリボンがアクセントになってかわいい。
「おかしいところはない、と。忘れ物もなし」
うん、準備は整った。あとはトシくんが迎えにきてくれるのを待つだけだ。
「……」
待つだけなんだけど……、できるだけ早く会いたいな。
トシくんの家はすぐ近くだ。すぐ行けるのなら、行ってもいいよね。
「行ってきまーす!」
うずうずした気持ちが抑えられなくて、私は飛び出すように家を出てトシくんの家へと向かう。
早歩きのつもりがいつの間にか走っていた。ちょっとの距離で息が上がってしまう。体力って才能じゃないのかなって思う時がある。
トシくんの家が見えてきた。ちょうど玄関のドアが開いて、トシくんが姿を見せた。
瞳子ちゃんには悪いとは思いながらも、先にトシくんの制服姿が見れて嬉しくなる。そんな彼の元へと向かって走るスピードを上げる。
「トシくん!」
「え? 葵は家で待ってるんじゃ――」
トシくんの胸に飛び込んだ。突然だったのにしっかりと受け止めてくれる。
私を支えてくれる男の子の体。抱きしめるとそれがよくわかる。頼り甲斐を感じて胸が熱くなった。
「葵、どうしたの?」
「んー、トシくんに早く会いたくって」
頭を撫でられる。そんなことされたらほっぺが緩んじゃうよー。
「トシくん……」
「ん?」
「……キスして」
彼を見上げるとちょっとだけ目を瞬かせていた。それから優しい顔をして頷いてくれる。
目をつむって首を傾ける。顎に手を添えられてドキドキする。
「ん……」
唇に温かさが伝わってくる。離れてしまうのが切なくなった。
「トシくん、上手になりましたね」
「……おかげ様で」
冗談めかして言うと、彼は顔を赤くする。
そんなところがまた愛おしくて、もう一度抱きついた。
「葵……」
「なあに?」
「これ以上こうしていたら……遅刻する」
そうだった。今日は入学式があるんだった。遅刻はできない。
「じゃあ行こっか。瞳子ちゃんも待ってるよ」
「葵っ、引っ張ると危ないって」
トシくんの手を取って歩き出す。ウキウキした気持ちはそのままで。これが現実なんだって私に教えてくれていた。
※ ※ ※
「んっ…………あ?」
目が覚めた。そう、目が覚めたんだ。今までのは全部夢だった。
「……驚かせないでよね」
夢相手に悪態をついてしまう。これくらいは言いたくなるくらいの夢を見せられたのだから仕方がない。
体を起こすと涙を流していたことに気づいた。夢の自分と同調していたみたい。
「あれは……本当にあたしだったの?」
年齢が離れていて違うと言いたいのに、そうは言い切れないような感覚があった。
こういう夢は頻度は少ないけれど見ること自体はあった。元々現実感があって不思議な夢ではあったのだけれど、夢を見る度に現実味が増してきているように感じる。
ただの夢。気にすることじゃない。そう言い聞かせているのに、そうじゃないって訴えられているようだった。
「実は予知夢……なんてことはないわよね」
嫌な予感に首を振る。そんなことがあるわけがない。絶対に。
「シャワーでも浴びようかしら」
寝汗をかいて気持ち悪い。俊成に臭いって、言われないだろうけれど思われるのは嫌。
時計はまだ朝じゃないと告げていた。こんな時間にシャワーを浴びるのは気が引けるけれど、音を立てないようにして脱衣所へと向かった。
パジャマを脱いで下着に手をかける。……下着も替えておこう。
「冷たっ!?」
温度調節を忘れていた。冷たい水を浴びて驚いた声を漏らしてしまう。
思っている以上に動揺しているみたい。嫌なドキドキがあたしの心を支配しようとしていた。
「もうっ!」
イライラした声を出しながらちょうどいい温度へと調整する。温かいお湯が出てくれてようやく一息ついた。
「はぁ……」
心が不安がっている。夢の状況が足音を立てて近づいている気がするから。
「そんなこと、あるはずがないのに……」
あれはただの夢だったのだ。そう言い聞かせながら手を胸に当てる。深く沈み込ませて心臓の鼓動が収まるのを待つ。
こんな夢を見た時は無性に俊成に会いたくなる。
できれば今すぐに、とわがままを言いたいけれど、さすがにこんな夜遅くにというわけにもいかない。きっと俊成はぐっすりと寝ているのだから。
せめて俊成は良い夢を見ていますようにと考えてしまう。彼にはこんな気持ちになってほしくない。
シャワーのお湯があたしの体をつたって流れ落ちていく。少しばかり冷えていた体が温まって落ち着きを取り戻す。
「大丈夫。俊成はちゃんといてくれている……」
胸の鼓動も落ち着いてきた。慣れたくはないのだけれど、こういった夢を見るのは初めてじゃない。だから自分を落ち着かせるのには慣れてきた。
深呼吸をする。あとは俊成に会えばこんな夢、忘れてしまえる。
シャワーを止めると鏡に映る自分と目が合った。
ふっと笑ってみせる。夢とは違う自分を見せつけてあげた。
余裕を取り戻すと今度は自分の肢体に目が行ってしまう。
「……うん」
運動と睡眠には気をつかっているし、肌のケアもしている。ママに似て本当に良かったって思う。
「別に胸が小さいわけじゃないし、葵は……特別なのよね、うん」
体のラインに沿って指を這わせる。肌触りはいいわよね?
こんなところで時間をかけているわけにもいかない。スッキリしたのならもう寝てしまおう。
明日……、もう今日ね。今日は入学式があるのだから。
気分が持ち直すと朝まで眠ることができた。
「朝……、俊成と葵が迎えにくるわ……」
ベッドから降りると少し頭がフラフラした。変な時間に目が覚めたせいね。
でも、悪い夢は二回も続いたりはしなかった。
顔を洗って頭をスッキリさせる。
「おはよう瞳子。よく眠れまシタカ?」
「おはようママ。よく眠れたわ」
台所ではママが朝食を作っていた。あたしも手伝わせてもらう。
「今日から新生活デスネ。アピールは大事デスヨ?」
「もうっ、ママに言われなくてもわかっているわよ。それに学校に行くんだから成績の心配でもしててよ」
「そこに関してはまったく心配していマセンノデ」
面白そうにしちゃって。ママってちょっと変わっているわよね。
ママとおしゃべりしながら朝食の準備をした。そこへパパが起きてきた。
「ふぁ~、二人ともおはよう」
「おはようパパ。寝癖がひどいわよ」
「今日は起きるのが遅かったデスネ。いつもの時間に出なくて大丈夫なのデスカ?」
「ふふんっ、今日は瞳子の入学式だからね。仕事は遅れて出られるように調整済さ。瞳子が晴れ舞台を新しい制服に身を包んで登校するんだよ。僕が一番にその姿を見たいじゃないか」
パパは胸を張ってそんな親バカなことを口にした。
いつもならため息でも吐きながら流してもいいのだけれど、たまには親孝行でもしようかな。そんな気分になっていた。
「わかったわ。制服に着替えたら見せてあげるわね」
「おおっ! ありがとう瞳子!」
そんな涙ぐまなくてもいいから。パパったら仕方がないわね。
家族みんなで朝ご飯を食べる。パパが興奮気味に今日がどれだけ楽しみだったかを話して、それをママが笑顔で相槌を打つ。あたしはそれに混ざって……、混ざっているのはいつものことなのに特別のことのような幸せを感じてしまう。
朝食を終えて、自室で支度をする。制服に着替えて髪型を整える。
姿見の前で最終確認。ブレザータイプの制服がなんだか大人っぽい。
「お待たせパパ」
「おお……。瞳子……こんなに大きくなったんだな……」
パパがむせび泣いてしまった。「仕方のない人デスネ」なんて言いながらママが嬉しそうにパパを慰める。
「そろそろ俊成と葵が来る時間だから出るわね」
「行ってらっしゃい瞳子」
「どうごぉ! 気をづげで学校に行ぐんだぞぉぉぉぉぉっ!」
「……行ってきます」
親バカなパパには困ってしまう。ちょっとだけ口元が緩んでしまったのは俊成に会えるからだけじゃないのかもだけれど。
もうすぐ俊成に会える。早く会いたくて玄関のドアを開けた。
「あっと、おはよう瞳子」
眼前に飛び込んできたのはちょうど俊成がインターホンを押そうとしていたところだった。
「おはよう俊成」
いきなりでびっくりしたけれど、いつも通りの態度であいさつを返せた。……と思う。
「瞳子、ちょっと緊張してたりする?」
「あたしが緊張? 緊張なんてしていないわ」
「あはは、それならいいんだ。なんか俺を見て安心したみたいな顔になった気がしたからさ。学校が変わって不安だったのかなって思っただけ」
俊成……っ。
胸の奥がきゅっと苦しくなって、でもこの苦しさは嬉しいサインだった。
「……」
「瞳子?」
堪らなくなって俊成に抱きついてしまった。急にこんなことをしているのに、俊成はちゃんと抱きしめ返してくれる。
「……」
「……」
黙っているだけなのに優しい時間が流れる。俊成があたしを受け入れてくれているってわかるからなのだろう。
……キス、してほしいな。
彼の胸に埋めていた顔を上げる。見つめ合うだけで意志が通じたみたいに俊成の顔が近づいてくる。
「ん……」
目を閉じて彼の唇を受け入れた。温かさが心にまで伝わってくる。
唇を離すとまたほしくなってしまう。今度はあたしから。そうつま先を伸ばそうとして――
「じー……」
今になって、すぐ横からの葵の視線が突き刺ささっていたことに気づいた。
「はっ!? あ、葵……いつから?」
「最初からだよー。ていうかトシくんといっしょに私が迎えに来るってわかってたはずだよね」
「うっ……」
「まあ私もさっきしちゃったんだけど」
「ちょっ!? 何よそれ!」
俊成に顔を向けるとたははと笑って誤魔化された。誤魔化されないわよ!
「瞳子ちゃん、キスの権利は一日一回までだよ。約束は破ったらダメなんだからね」
「わ、わかっているわよ……」
「ほんとかなぁ? さっき二回目しようとしなかった?」
「き、気のせいじゃないかしら……」
こういう時の葵は鋭い。目を見たら嘘なんてつけなくなるほどの迫力がある。
そんなあたし達の間に入るのは俊成だった。
「まあまあ。今日はこれから高校の入学式なんだからさ。早く行かないと遅刻しちゃうよ?」
「あっ、そうだ時間」
「電車の時間があるんだからもたもたしてたらダメじゃない」
あたし達は駆け出した。仲良く同じペースで走る。
今年の春。あたし達は新しく高校生活を始める。
恋人と親友と。親友にとっても同じような関係で。そんな世間では三角関係と呼ばれるような関係でありながらも、あたし達の関係は世間一般的なものとは良い意味で違っていた。
こんな三角関係のまま、あたし達は順調に仲を深めながら日々を過ごしていたのだった。