「アリシア、まだ寝ているの?」
「……お母さん?」
目を開けば、優しい母の笑みがそこにはあった。まだ眠い目を擦りつつ、食事の支度をしている母の背に、アリシアは縋り付く。
「なあに。これじゃあ食事の支度ができないわ」
「アリシア、こわいゆめをみていたの」
「そう。でも大丈夫よ。強い強いお父さんが守ってくれるもの」
「お父さんは、いつ帰ってくるの?」
「……まだ、もう少しかかるかな。あのね、お隣の国と喧嘩が始まって。それを止めるために、お父さんはお仕事に行っているの。だから喧嘩が終わるまで、帰ってこれないのよ」
アリシアは俯いた。父の顔をずっとみていない。寂しくて、ジワリと涙が出てきた。
「そうなのね。はやくケンカおわるといいな。どうしてオトナなのになかよくできないのかなあ」
「仲良くなるための話し合いはしているの。でもね、なかなか上手くいかないのよ」
「そうかあ」
この年の冬、父は帰らぬ人となった。元々体が弱かった母はショックを受けて寝込みがちになり、そのままアリシアを残して逝ってしまった。
母の顔が遠くに消えていく。待って、と手を伸ばした先にあったのは、カイオスの姿だった。
彼は虚な目で、丸腰のアリシアに向かって攻撃を仕掛けてくる。死の恐怖を感じたアリシアは、怯えながらも必死に足を動かし、彼から遠ざかるように逃げていく。
——父も、こんなふうに誰かと刃をぶつかり合わせて、死んでいったのか。
カイオスとの真剣勝負はとても怖かった。少しでも油断すれば命を取られる世界を実感した。父はどれだけ怖かっただろう。どれだけ痛かっただろう。
アリシアがいくら強くとも、これまで港町でしていた稽古は、所詮お遊びだったのだと体で理解した。
鎧から覗く狂気に満ちたカイオスの目が言っている。「殺してやる」と。
全身から血の気が引いて、呼吸が荒くなる。苦しい、気持ち悪い、こわい。
ついに捕まり、刃が首元に突き立てられ、喉を切り裂かれていく。アリシアは思わず叫び、逃げようともがいた。
ごちん、という鈍い音ととともに、額に痛みが走る。
なんだか硬くて温かいものに、頭をぶつけた気がした。
「セオドア??」
「お目覚めですか、アラン王子」
セオドアは顎を押さえながら、痛みに耐えているのか苦悶の表情を浮かべている。どうやら飛び起きた瞬間、彼の顎に思い切り頭突きをしてしまったらしい。「ごめん」と言えば、たいしたことはありませんと、いつもの仏頂面で答えた。なぜここにいるのかと問えば、気絶している間にセオドアが運んでくれたらしい。
「体調は大丈夫なの?」
「ええ。解毒剤がよく効きました。トーナメントの最終戦が始まる直前に、闘技場に到着しまして……そんなことよりも王子、ご気分は」
「全身痛いけど、大丈夫。気持ち悪いとか、どこかが異常に痛むとかはないよ」
「そうですか、それはよかった。見事な闘いぶりでございました」
副団長という地位にいるセオドアに、見事という言葉をかけられ、頬が緩む。
「セオドア、婚約者よりも先にあなたが王子と言葉を交わすなんて、どういうことかしら」
聞き慣れた声に反応し、首を反対側に向ければ。姫モードかつ、非常に不機嫌そうな様子のバーベナが目に入った。
「あれ、バーベナ姫もいたのか」
「『も』って……先ほどまで口付けを交わしていた相手に、随分な態度ですわね」
彼はセオドアを睨みつけながらベット脇の椅子に腰掛けていた。「口付け」と言われて頬が染まる。恥ずかしくなって顔を布団で半分隠しながら、バーベナを覗き見た。
「さっきはごめん。途中で倒れちゃって。格好悪かったよね……」
「女性人気は上がったようですわ。真っ赤になって倒れるなんて、うぶで可愛らしいと」
「あ、ははは……。それはよかった……のかな?」
すでに退室した医師によれば、あと数日はベッドで安静にするようにということだった。夢を見ていたのは一瞬のような気がしたが、思ったより長く眠っていたらしい。
「で、あなたはいつまでいらっしゃるおつもり?」
棘のあるバーベナの言い方は、セオドアに「出ていけ」と暗に言っている。しかしセオドアの方を見やれば、彼は涼しい顔をしている。
「少々お話ししたいことがございまして」
「あら、こんな緊急時にどんなお話かしら」
「先日偶然にもバーベナ姫と王子の会話をお聞きしたのですが」
セオドアの言葉に、アリシアはびくり、と肩を震わせる。
まさかバーベナが偽物ということがバレてしまったのだろうか。
「どうやら姫は、このアラン王子の正体についてご存知のようですね」
セオドアの発言を聞いて、バーベナの視線がこちらを向く。なんでこいつがそんなことを知ってるんだと言いたげだ。
「姫にとっては好都合でしょう。相手は接しやすい同性の偽物。憎い王子との子作りに神経をすり減らす必要もない。お二人が仲睦まじいのも合点がいく。本物の王子か、あるいはよく似た男の身代わりなら、そうはいきますまい」
バーベナが偽物の男とはバレていないらしいことに、とりあえずホッとする。
——ん? じゃあ、なぜそんな話を今?
「何が言いたいのかしら?」
「過酷な身代わり業をこなす彼女には、支えてくれる異性が必要です。か弱いあなたでは、彼女を守ることはできないでしょう。まあ、姫は、この方の身の安全など、どうでもいいのでしょうが」
「セオドア、それってどういう……?」
そう言った瞬間、逞しい腕に抱き抱えられる。後ろからセオドアが腕を回したのだ。
「あなたの名前はアリシアだと、ノアから聞きました」
「はあ……」
「アリシア、女だてらに困難に立ち向かう姿に、私は心を揺さぶられました。あなたが自由になれる道を、共に探しましょう。それまでの間、私があなたの剣と盾になります。女性と知らされていなかったとは言え、これまで無体を強いてきたことお詫びいたします」
もはや頭の中はパニック。バーベナの顔色を伺えば、彼も驚嘆を顔に表していた。
「アリシア、もし君が自由になれたときは。そのときは私と、結婚してください」
アリシアの体から手を離し、今度は両手を包むように握った彼は、なんとアリシアに対して愛の言葉を紡いだのだ。
空気が凍りつき、アリシアもバーベナも言葉を発せずにいる。
そんな中セオドアは頬を赤らめ、これまで見た事のない情熱的な視線をこちらに向けている。
「……っはああああああああああ?!」
バーベナは役を放り出すようにして、そう叫んで立ち上がった。